魔法は解けて

 その後、自分がいつ店を出て、どのようにして帰ったのか、麗二はほとんど覚えていなかった。

 気づいた時には、目の前に見慣れた浜辺の光景が広がっていた。いつも一人で、シオンが来てからは彼女と二人で、幾度となく歩いた場所。海は凪いでいて、満月の優しい光が頭上から降り注ぎ、静かに夜の海を照らし出している。

 麗二はぼんやりとその光景を見つめていたが、やがてふらふらと、何かに導かれるかのように屋敷の方に向かっていった。


 屋敷の中は静まり返っていた。使用人達も眠ってしまっているのだろうか。あの店を出てからどのくらい時間が経ったのか、それさえも麗二にはわからなかった。麗二は顔を上げると、ゆっくりと階段を昇っていった。

 階段を昇りきったところで、麗二は廊下の奥へと視線をやった。麗二の部屋とは反対側にある、突き当たりの部屋。シオンの眠る部屋。麗二はすっと背筋を伸ばすと、まっすぐにその部屋に向かって歩いていった。

 随分と長い距離を歩いたように感じられたところで、麗二はようやくその部屋の前に辿り着いた。これまで幾度となく訪ねたこの部屋。だけど今は、その扉がとてつもなく不気味に思えて、まるで自分を吞み込もうとする巨大な怪物のように見えた。

 麗二は自分を落ち着かせるようと大きく息をついた。扉の取っ手にそっと手をかけ、静かにそれを押し開ける。

 きい、と言う微かな音がして扉が開く。麗二は一瞬ためらう様子を見せたものの、そっと部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、風に吹かれて揺れているカーテンだった。風と共に月光が差し込み、暗い室内を照らし出している。

 麗二はそれをしばらく見つめた後、ベッドの方に視線をやった。シオンは静かに息を立てて寝入っている。どうやら窓を開けたまま寝てしまったようだ。夜は冷える。こんな風に窓を開け放しておいたら、今に風邪をひいてしまうだろう。だが、シオンは窓から吹き込む冷たい風には気づかず、とても安らかな顔をして眠っている。

 シオンの顔をじっと見つめているうちに、麗二は自分の表情の強張りが次第に解けていくのを感じた。肩の力が抜け、口元には笑みさえ浮かんでくる。麗二はシオンが愛しかった。こんな子どもみたいな心配をしなければならない彼女のことが、たまらなく愛しかった。

 麗二は表情を緩めると、そっとベッドに背を向けた。その心は深い安堵で満ちていた。シオンはやはり、自分の思ったとおりの人だった。それが、尚慶のような男の言葉に乗せられ、一瞬でも彼女を疑ってしまうとは、麗二は自分が恥ずかしかった。

 久しぶりに家に帰ってきたのだ。今夜はゆっくり眠ることにしよう。朝になれば、シオンと話をすることもできるだろう。鳩崎にも、留守の間に何かなかったかを聞いておかなければならない。明日は忙しくなりそうだ――。麗二はそんなことを思いながら、そっと部屋を後にしようとした。

 その時だった。開いたままになっていた窓から強い風が吹き込み、麗二は目を覆うようにして振り返った。

 その時目にした光景は、今でも忘れることができない――。振り返った麗二の目に真っ先に飛び込んできたのは、さっきまではなかったものだった。つい今しがたまで白いシーツで覆われていた〈それ〉は、風に吹かれて捲れたシーツの間から、初めてその姿を覗かせた。

 本来シオンの足があるべき場所にある〈それ〉は、どこからどう見ても、魚の鰭であった。

 麗二はその場に立ち尽くした。自分が見ているものの存在がにわかには信じられなかった。だが、次第とその意味が頭に染み込んでくると、あっという間に全身から力が抜け、気がつくと麗二はその場に膝をついていた。


 尚慶の言葉は、真実だった。

 シオンは、人魚だったのだ。


 麗二は呆然として目の前の〈それ〉を見つめていたが、不意に冷たいものが頬を伝っていくのを感じた。

 麗二は泣いていた。

 自分でも気づかないうちに、涙がとめどなくあふれ出ていた。

 一度そのことに気づいてしまうと、今度は嗚咽が込み上げてきて、麗二はシオンのベッドに突っ伏して激しく慟哭を上げ始めた。


 知りたくなかった――。


 何も知らなければ、このままでいられた――。


 それなのに、どうして――。


 麗二はベッドのシーツを乱暴に掴むと、それを痛いほどに握り締めた。麗二の中で、急速に、何かが終わろうとしていた。シオンと過ごした時間も、彼女と一緒に見た光景も、今や全てが色を失い、忘却の彼方へと消えようとしていた。

 いつの間にか風は止み、海は穏やかに凪いでいた。海上には雲一つない星空が広がり、窓から差し込む月の光が、静かに二人を照らし出していた。

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