第三章 忘れ得ぬ過去
緋色の花
シオンが地上での生活を始めてから二週間が経とうとしていた。
麗二や鳩崎の助けにより、シオンは少しずつ人間らしい生活が送れるようになっていた。歩くことにも少しずつ慣れていき、誰かの手を借りずとも好きなところへ行けるようになった。シオンは屋敷内を散策し、人間が作った物の数々を子細に眺めては、何時間でも飽きずにその造形に見入っていた。
麗二に時間がある時には、彼と一緒に屋敷内を見て回ることもあった。彼はシオンにわからないことがあると、どんな些細なことでも丁寧に教えてくれた。自分やシオンが着ている〈服〉のこと、屋敷内にある〈家具〉のこと、シオンが何を尋ねても、麗二は少しも不審がらずに教えてくれた。
その甲斐あって、シオンは人間の世界の様々な物について知り、そこで暮らしていくための作法を徐々に身につけていった。今では〈服〉を着替えることも、〈ナイフ〉や〈フォーク〉想を使って食事をすることもできるようになった。ただ魚を使った〈料理〉だけは、どうしても食べることができなかったけれど。
とにかく、麗二の支えの甲斐あって、シオンは着実に人間へと変化を遂げていた。未知の世界への恐怖は消え、潮風と優しさに包まれた屋敷の中で、シオンはのびのびと人間の暮らしを謳歌していた。シオンが人間として今日まで生きてこられたのは、ひとえに麗二のおかげだった。
ある日、シオンは麗二と並んで浜辺に立ち、朝焼けに照らされた海を眺めていた。朝食を済ませた後、二人でこうして海を眺めるのがいつしか日課になっていた。何を話すわけでもない。ただ、柔らかな朝の日差しを浴び、時折吹き抜ける風を頬に感じながら、煌めく海を静かに見つめる。たったそれだけのことだけれど、二人にとっては何よりも大切な時間だった。
今日も海は穏やかに凪いでいる。シオンは後ろ手に手を組みながら、瞑目し、じっと波の音に耳を傾けていた。そうすることで、自分が海と一体となったように感じられ、深海で過ごした日々の記憶を鮮明に思い出すことができるのだった。
「……風が出てきたね。そろそろ帰ろうか、シオン」
麗二にそう声をかけられ、シオンはそっと目を開けた。先ほどまで凪いでいた海は、今は風に揺られて大きくうねりを上げている。
「そうね。雲が出てきて、もしかしたら雨が降るかもしれないしね」
シオンは頷いた。燦々と輝いていた太陽に、今はうっすらと綿雲がかかっている。〈雲〉が厚くなると〈雨〉が降るというのは麗二から教わったことだ。自分が人間と同じ言葉を使えていることが嬉しく、シオンは少しだけ微笑んだ。
「そうだ。帰る前に、君に渡したいものがあるんだ」麗二が不意に呟いた。
「私に?」
シオンはきょとんとして麗二を見た。麗二は頷くと、背中に隠していた手を前に出した。その手に握られたものをシオンは覗き込む。
「これは……ハイビスカス?」
シオンがその花の名前を知っていたのは、自分が最初に目覚めた時、身につけていた〈ワンピース〉の模様にこの花が使われていたからだ。大きな花びらに鮮やかな色使いが印象的で、シオンはその花がとても気に入っていた。だが、麗二に差し出された本物のハイビスカスは、ワンピースの模様よりもずっと鮮やかに輝いていて、つい見惚れてしまうほど美しかった。
「この辺りは気候が温暖でね。夏になるとよく咲いているんだ」麗二が言った。「その中でも、これは一際大きくて立派だったから、ぜひ君にプレゼントしたいと思ってね」
「まぁ……いいの?」
「あぁ。きっと君の髪に映えると思うよ」
麗二は穏やかに微笑んだ。シオンは麗二の手の中のハイビスカスをじっと見つめると、おずおずとそれを手に取り、そっと自分の髪に刺してみた。緋色の花はシオンの漆黒の髪によく映え、太陽の光を浴びてますます鮮やかに輝いている。
「思った通りだ。よく似合うよ」
麗二が満足そうに頷いた。シオンは何だか気恥ずかしかったが、麗二が喜んでくれているのが嬉しくて、自分もはにかんだ笑顔を返した。
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