懐かしの場所へ

 食事の後、麗二が風に当たりたいと言い出したため、シオンは彼と共に〈はまべ〉を散歩することになった。〈はまべ〉というのは白い砂が一面に広がる場所で、隣には海があるのだという。

 海の隣を歩く。それはシオンにとっても心躍る誘いだった。十字の板の間から見えた海の姿を思い出す。あの時見た光景は、〈食事〉の間もずっとシオンの心から離れずにいた。

 シオンは海が見たかった。打ち寄せる波の音に耳を澄ませ、懐かしい潮の香りを吸い、触れる水の冷たさにその身を委ねながら、海を肌で感じていたかった。たとえ二度と帰れない場所であったとしても、シオンはやはり海を愛していた。


 麗二に連れられ、シオンは例の白と赤の空間を抜け(麗二が教えてくれたところによると、白い平面は〈壁〉、赤い布の道は〈廊下〉と言うらしい)、その先にある取っ手の付いた板を麗二に言われるまま動かした(この取っ手のついた板は〈扉〉と言って、麗二達が暮らす〈家〉と〈外〉を繋ぐためのものだそうだ)

 そうして〈外〉に出た瞬間、眼前に現れた光景を前にシオンははっと息を呑んだ。足元に広がるさらさらとした白い砂と、砂の間に立ち並ぶ、大きな葉をつけた立派な草(本当は草ではなくて〈木〉というらしい)。砂の向こうには紺碧の海が広がり、その頭上では海と溶け合うように、もう一つの青の世界が広がっている――。

 シオンは呼吸をするのも忘れて眼前に広がる光景に見入った。自分がずっと暮らしていた海。一面に広がる青の世界と、その中を優雅に舞う色とりどりの魚達の姿はいつもシオンの心をときめかせたものだ。だが、今目の前に広がる世界の美しさはそれ以上で、シオンは感動のあまり身体が震えそうになった。

「……随分、海が好きなようだね」

 麗二から声をかけられ、シオンは慌てて現実に意識を引き戻した。麗二は遠慮しているのか、少し下がったところからシオンを見つめている。

 シオンは何と言ったものかと迷ったが、ここは正直に言うことに決めた。

「私……昔から海と一緒に生きてきたの。だけど、こんな海の姿を見るのは初めてだったから……。何というか……つい見とれちゃって」

 シオンはそう言って照れくさそうに笑った。片側の髪を耳にかけながら、ちらりと麗二の様子を窺う。麗二は特に不審がる様子はなく、真面目な顔で頷いた。

「なるほど。君はどうやら、海の近くで育ってきたようだね。かくいう僕も小さい時からここに住んでいて、毎日のように海を眺めて生きてきた。だけど見慣れているせいか、君のように海を美しいと思う機会は少なくなった気がするよ」

「そうなの?」

「あぁ。ただ……今こうして君と一緒に海を見ていているうちに、改めて感じたよ。この海がどれほど美しいかを……。

 不思議だね。忘れていたわけではなかったのに、まるで思い出したような気分だよ」

 麗二は砂を踏み締めてシオンの隣まで歩いてくると、目を細めて海の方を見つめた。頭上から暖かく降り注ぐ光が、彼の琥珀色の髪を照らしている。

 麗二の横顔を眺めながら、シオンは改めて自分と人間との違いを感じていた。自分の心に感動を呼び起こしたこの光景を見ても、麗二は美しいと思わなかったと言う。自分はどれだけ海で長い時間を過ごしたとしても、海を美しいと思わない日はなかったのに、人間にとって、海はそれほど身近ではない存在なのだろうか。

 だが――そこでシオンは麗二の視線の先を辿った。視界に広がる二つの青の世界。頭上では白い生き物が鳴き声を上げながら、群れになって青の彼方へと向かっていく。

 麗二は言った。シオンと一緒にいることで、彼は海の美しさを思い出したのだと。今、麗二の目に映っている海は、きっと自分が見ている光景と変わらぬ輝きを放っているのだろう。人魚と人間という種族の違いはあっても、彼は自分と同じように海を慈しんでいる。その事実はシオンの胸を暖かくさせ、自分達はきっとわかり合えるという期待を抱かせたのだった。

「そう言えば、さっきはすまなかったね」

 不意に麗二が口を開いた。シオンはきょとんとして麗二の顔を見た。

「君に療養を勧めた時のことだ。鳩崎が無礼なことを言って、申し訳なかった」

 麗二はそう言うと、シオンに向かって深々と頭を下げてきた。シオンは慌てて手を振った。

「そんな……私、何も気にしていないわ。それよりも、〈りょうよう〉とはどういう意味なの?」

 麗二が顔を上げ、驚いた様子でシオンの方を見たが、すぐに真面目な顔になって言った。

「そうだな……。つまり、君の記憶が戻るまでの間、ここにいても構わないということだ」

 今度はシオンが驚く番だった。口元に手を当て、まじまじと麗二の顔を見つめる。

「……いいの? 鳩崎さんもいけないと言っていたのに……」

「彼は心配性だからね。見ず知らずの人間を屋敷に置いておくことが不安なんだろう」

 麗二が苦笑を漏らした。

「だけどね、僕には君の方がよほど心配なんだ。行く当てもないだろうし、さっきの様子では一人で生活するのも大変だろう。僕の家なら部屋はあるし、君の身の周りの世話をする使用人もいる。わからないことがあれば僕が教えるし、君が困ることのないよう手を尽くす。どうだろう?」

 シオンはぽかんとして麗二の顔を見返した。正直なところ、シオンは人間になることだけで頭がいっぱいで、人間になった後の生活については何も考えていなかった。だから麗二の申し出は、シオンにとっては願ってもない話だった。

「だけど……どうして?どうして私のために、そこまでしてくれるの?」

 シオンはそう尋ねずにはいられなかった。確かに人間は、優しくて暖かい生き物なのだと母は言っていた。だからといって、今日会ったばかりの自分をそこまでして助けようとしてくれるなんて、その優しさを受け入れていいのか、シオンにはわからなかった。

 麗二は何かを考えるように口元に手を当てた。頭上では再び白い生き物が鳴き、浜辺の沈黙を満たしていく。

 そうしてしばらく考えた後、麗二は口元に手を当てたままの格好で言った。

「確かに他の人からすれば、僕の行動はおかしく映るかもしれない。鳩崎が反対する気持ちもわかる。

 だけど僕は、どうしても君を放っておけないんだ。このまま君を行かせてしまったら、僕はきっと後悔する……。そんな予感があるんだ」

 麗二はそこで一旦言葉を切った。口元から手を外し、改めてシオンに向かって告げる。

「シオンさん、僕は君に約束する。この先何があっても、君を放り出すようなことはしない。どうしてかと聞かれれば、自分でもわからないけれど……とにかく、僕は君にここにいて欲しいんだ。だから……」

 そう言った麗二の表情には、何か切実なものが現れていた。まるでシオンに拒絶されるのを怖れているかのような表情。

 シオンはぽかんとして麗二の顔を見返した。その言葉を聞いた瞬間、身体中に蓄積された不安と恐怖が、一気に流れ出していくような感覚があった。

 魔女の言葉は杞憂だった。人間は自分を受け入れてくれた。麗二が自分に、この世界で居場所を与えてくれたのだ。

 シオンは一瞬目を伏せた。咄嗟に何と返事をすればいいか、わからなかったのだ。だが、すぐに思い直して顔を上げると、表情を綻ばせて言った。

「ありがとう……。そこまで言ってもらえて、私、本当に嬉しい……。私もあなたと一緒なら、上手くやっていける気がする」

 シオンはそこで言葉を切った。胸の前で手を組み、麗二をまっすぐに見つめて続ける。

「これから、よろしくお願いね……麗二」

 そう言って微笑みを浮かべたシオンを、麗二ははっと息を呑んで見返した。だが、すぐに平静を取り戻すと、自分も柔らかな笑みを返した。

「あぁ……こちらこそよろしく頼むよ。シオン」

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