初めての体験
鳩崎に促され、シオンは麗二の向かい側にある木の台に腰掛けた。シオンの前には、平たい器に入ったとろりとした黄色の液体や、海草のような緑色の葉っぱ、それに何かの身を切ったようなピンク色の物が並べられている。最後のピンク色の物体を見た途端、シオンはなぜか突然吐き気に襲われ、思わず口元を手で覆った。
「どうかされましたか?」鳩崎が心配そうにシオンの顔を覗き込んできた。
「いえ……ごめんなさい。これを見たら、何だか急に気分が悪くなってしまって……」シオンはピンク色の物体を指差した。
「サーモンのムニエルか。魚料理は好みでないようだね。それならすぐに下げさせよう」
麗二がそう言うと、すぐに鳩崎が横からシオンの〈むにえる〉を下げた。〈むにえる〉が見えなくなり、シオンはほっとして息をつく。
「サーモン……。そう、ここでは、魚も〈食事〉の材料になるのね……」
シオンはがっくりと項垂れた。自分の友達が人間の食物として供されているのは、正直に言っていい気はしない。
「魚を食材にするのは普通のことだと思うが……君の家では、魚を食事に使わないのかい?」
麗二が不思議そうに尋ねてきた。シオンははっとして顔を上げた。しまった、今は人間の前だった。いつまでも海の世界の記憶に捕らわれ、おかしな振る舞いをするわけにはいかない。
「えっと……私にとっては、魚は友達なんです。だからその、〈食事〉に使うなんてことは考えられなくて……」
シオンはそう言って笑顔を取り繕ったが、麗二はなおも不思議そうな顔をしていた。
「……そうなのか。まぁいい。それならサラダやスープはどうだい? 魚は入っていないから、安心して食べられると思うよ」
麗二に促され、シオンは再び視線を落とした。後に残された黄色の液体と緑の葉っぱ、おそらくこの二つが、〈さらだ〉と〈すーぷ〉というものなのだろう。
シオンは二つを見比べてから、緑の葉っぱの方に手をつけることにした。辺りを軽く見回してから、葉っぱの方にそっと手を伸ばす。すると麗二がそれを制した。
「ちょっと待ってくれ。君の家では、サラダを食べるのにフォークを使わないのか?」
シオンははっとして手を止めた。麗二は持ち上げた手を口の前で止めたまま、唖然としてシオンの方を見ている。よく見ると、その手には先端が三つ又になった銀色の小さな棒が握られており、それが緑の葉っぱを突き刺さしている。
シオンは慌てて手を引っ込めた。台の上をよく見ると、自分のところにも同じような三つ又の棒が置かれており、シオンはこれが食事の道具であることをようやく理解した。
麗二はさすがにおかしいと思ったのか、訝しげな目でシオンの方を見ている。シオンは何とか弁解しなければと思い、必死に頭を巡らせた。
だが、何と説明すればよいのだろう?自分は今まで一度も〈食事〉をしたことがなくて、目の前に置かれている物の名前も、それの使い方もわからないなんて、誰が信じてくれるだろう? それならいっそ、真実を話してしまった方がいいのではないだろうか。自分は海から来た人魚で、人間の世界のことは何もわからないのだと。
「……もしかすると」
不意に麗二が口を開いた。シオンははっとして顔を上げた。まさか、もう正体に気づかれてしまったのだろうか。
シオンはおずおずと麗二の顔色を窺った。麗二は眉間に皺を寄せて何やら考え込んでいたが、やがてシオンの方を見ると言った。
「君は……記憶喪失なのかい?」
「え?」
シオンは虚を突かれて麗二の顔を見返した。〈記憶〉に〈喪失〉。それぞれの言葉の意味はわかっても、その二つが繋がったものの意味まではわからなかった。
「坊ちゃま、まさか……」
それまで置物のように背後で控えていた鳩崎が、一歩前に出て麗二の顔を覗き込んだ。麗二は何も答えず、険しい顔でじっと目を伏せている。部屋の空気が急に重くなったように感じられ、シオンは居たたまれなくなって、〈わんぴーす〉の上で重ねた両手に視線を落とした。
「……わかった」
しばらく沈黙が続いた後、不意に麗二が呟いた。シオンは顔を上げて麗二の方を見た。先ほどまでの険しい表情は消え、何かを決意した表情がそこには浮かんでいた。
「シオンさん、と言ったね。どうやら君は記憶喪失のようだ。自分の名前や、何故か魚のことは覚えているが、その他の生活に関する記憶が失われてしまっている。このままでは家に帰るのはおろか、生活するのも大変だろう。
そこで提案なんだが……どうだろう、君の記憶が戻るまで、ここで療養するというのは?」
「りょうよう?」
「坊ちゃま!」
シオンが聞き返したのとほぼ同時に鳩崎が声を上げた。さっきまでは穏やかな表情を浮かべていたのに、今は咎めるような視線を麗二の方に向けている。
「坊ちゃま、なりません!お忘れですか?あの時もそうでした。記憶喪失だと言って、ここに引き留めた結果が……。それなのに、何故また同じことを……!」
「鳩崎」
不意に麗二が声を上げた。今までにない強い口調だった。
「……客人の前だ。それ以上の無礼は許さん」
麗二はそれだけ言うと、何事もなかったかのように食事を再開した。鳩崎は顎を引いて言葉を呑み込むと、そのまま元の位置に下がっていった。シオンは困惑して二人の顔を交互に見つめたが、二人ともそれ以上言葉を発する様子はなかった。
(人間って……難しい)
シオンは小さくため息をつくと、諦めて自分も三つ又の棒を手に取った。
それから長い時間をかけて〈食事〉の時間は進んでいった。〈さらだ〉や〈すーぷ〉といった物の名前や、〈すぷーん〉や〈ふぉーく〉といった物の使い方は麗二が教えてくれたが、それでも、未知の食材を口にするのはシオンにはとても勇気のいることだった。
だが、それも口に入れるまでの話で、〈さらだ〉も〈すーぷ〉も舌に触れた瞬間に口の中で世界が広がるようで、シオンはその甘美な体験にすっかり夢中になってしまった。
ただ、〈すぷーん〉を使って〈すーぷ〉を飲むのは難しく、シオンは〈わんぴーす〉の上にかけられた白い布の上に何度も液体を零してしまった。だが、麗二は気にする素振りもなく、シオンが賢明に〈すぷーん〉を口に運ぶ姿を、微笑みながら見つめている。
熱い〈すーぷ〉にふうふうと息を吹きかけながら、シオンは身体が芯から暖められていくのを感じた。それは何も、口の中でとろける温もりだけが理由ではない。
最初に思った通りだった。麗二は自分がどんな失敗をしても優しく受け止めてくれる。この先どんなことがあったとしても、麗二がいれば、自分は人間の世界でも生きていける――。
シオンはそんなことを思いながら、初めての〈食事〉の味を噛み締めていたのだった。
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