深海の魔女

 暗闇の中を長く泳ぎ続けた先で、ようやく一つの光が見えてきた。最初は灯りかと思ったその光は何かの液体のようで、大きな鍋の中で湯気を立てながら、怪しげな緑色の光を放っている。そしてその前で、細長い木の棒で鍋をかき混ぜているフードの人物が見えた。小柄な身体をすっぽりと黒いローブで覆っており、鍋の中の液体に照らされていなかったら暗闇に溶け込んでしまいそうだ。

 おそらく、あれが自分の探している人物なのだろう。人魚は表情を引き締めると、まっすぐにその人物に向かって泳いでいった。

 フードの人物の眼前まで来たところで人魚は泳ぐのを止めた。だが、フードの人物は彼女の存在になど眼中にないのか、黙々と鍋をかき混ぜて続けている。

 人魚はしばらくその人物を見つめていたが、顔を上げる気配がないことがわかると、ためらいがちに声をかけた。

「あの……」

フードの人物はようやく薬をかき混ぜる手を止めると、ぎょろりとした目でシオンを見上げた。フードの内側から、大きな鉤鼻と皺だらけの浅黒い肌が覗いている。相当長い年月を生きてきたのだろう。

 この容貌、間違いない――。シオンは確信を持って頷いた。この人物こそが自分が探し求めていた人だ。光の届かない海底に生きるとされる、魔女だ。

「あの、初めまして。私、シオンと言います」人魚がおずおずと切り出した。

「普段はこの上の海で暮らしてるんですけど、今日はあなたにお願いがあって来たんです」

 魔女は鍋を混ぜる手を止めると、シオンに無遠慮な視線を向け、彼女の姿をじろじろと眺め始めた。シオンは急に気恥ずかしくなり、両手を胸の前で交差させて自分の身体を隠した。

「ふん、何だか知らないが、小娘の頼みを聞いてやるほどあたしは暇じゃないんだ。とっとと自分の家に帰りな」

 魔女はしわがれた声でそれだけ言うと、再び鍋に視線を落として薬をかき混ぜ始めた。シオンは落胆を隠せなかったが、すぐに気を取り直して頭を下げた。

「お願いします! 私……人間になりたいんです!」

 魔女が再び手を止めた。シオンは顔を上げると、胸の前で手を組んで一気に言った。

「私、小さい頃からずっと人間に憧れていたんです。いつか人間に会って、話をして、一緒に歌いたいと思っていました。海の上にも何度か行こうとしたんですけど、海の上に出ようとした途端、急に息が苦しくなって……。きっとこの身体のままじゃ駄目なんですね。

 でも私、どうしても諦めきれなくて……。私はどうしても人間に会いたい。だからお願いです。どうか私を人間にしてください!」

 シオンはそう言うと、身を乗り出して懇願する眼差しを魔女の方に向けた。魔女は何も言わず、鍋のぐつぐつと煮え立つ音だけが静まり返った深海に響く。

「……止めときな」魔女が不意に呟いた。

「え?」

 シオンは当惑して魔女の顔を見つめた。魔女はシオンと目を合わせず、再びゆっくりと薬を混ぜ始めた。

「……人間なんてろくなもんじゃない。欲深くて、他人を利用することしか考えていない……。そんな奴ら、人魚の身体を捨ててまで会う価値はないよ」魔女がすげなく言った。

「そんなことないです!」シオンが勢い込んで叫んだ。「人間は素敵な生き物なんです! とても優しくて、暖かくて……。私達とだって上手くやっていけるはずです!」

 シオンはそう反論したが、魔女の考えは変わらないようだ。大げさにため息をつき、ゆるゆるとかぶりを振る。

「……あんたは何もわかっちゃいないんだ。人間がどれだけ愚かで卑しい生き物か……」

 魔女が静かな声で呟いた。顔を上げ、ぎょろりとした目でシオンを見据える。

「あんたは自分が人間と上手くやっていけると言うが、実際に人間どもがあんたの姿を見たら、皆こぞってあんたを捕まえようとするだろうさ。人間は欲深い生き物だからね。人魚なんて珍しい生き物を放っておくわけがない。それで売り飛ばされるなり、見せ物にされるなりするのかが関の山だろうよ」

「そんな……」

「それにね、簡単に人間になるなどと言うが、ひとたび人間になったが最後、あんたは二度と海の世界には戻れなくなるんだよ。そのことが本当にわかってるのかい?」

 魔女はそう言って視線を上向けた。夜空に光る一点の星のように、明るい紺碧の海が頭上に小さく浮かんでいる。

「こんな暗闇の中に住んでるのならともかく、あんたの暮らしている場所はもっと明るい、光に満ちた世界のはずだ。そんな居心地のいい環境を捨ててまで人間になる価値があると、あんたは本気で思ってるのかい?」

 シオンは言葉に詰まった。確かに自分が人間になれば、もう二度と海で暮らすことはできない。魚達とも会えなくなる。

 それにシオンには、人間の生きる世界がどんなものか全くわからなかった。もし魔女の言うとおり、人間が他人を利用することしか頭にない欲深い生き物なのだとしたら、彼らの生きる世界は決して美しいものではないだろう。未知の世界に飛び込むことに恐怖を感じないと言えば嘘になった。

 シオンが逡巡しているのを見て、魔女がそれ見たことかといった調子で鼻を鳴らした。

「わかったら大人しくあんたの住処に帰るんだね。あんたにはあんたを求めてくれる世界がある。それで十分じゃないか」

 魔女はそれだけ言うと、シオンに背を向けて再び薬を混ぜ始めた。拒絶を全面に出したその背中を、シオンは途方に暮れて見つめた。

 最初からすんなりいくと思っていたわけではない。魚達から魔女の噂は聞いていたが、その内容は決して好意的なものではなかった。

 何でも、魔女は日がな怪しげな薬の調合を続けていて、機嫌が悪い時に会いに行こうものなら、即刻魔法でプランクトンに変えられてしまうとのことだった。そうでなくても魔女は気難しい性格という話だったから、お願い事をしたところで叶えてもらえる可能性はないに等しく、にべもなく断られたのは当然とも言えた。プランクトンに変えられなかっただけでも有り難いと思わねばならないだろう。

 でも――シオンは諦めきれなかった。シオンは何も、自分が人間に会いたいという理由だけで遙々魔女に会いに来たわけではなかったのだ。

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