深海の歌姫

瑞樹(小原瑞樹)

第一章 人間への憧憬

プロローグー紺碧の海でー

 それは地上から遠く離れた海の底。紺碧に彩られた幻想的な世界の中を、色とりどりの小さな魚達が優雅に泳いでいる。彼らはある場所へと向かっていた。そこに近づくにつれて、まるで天上からの贈り物のような美しい歌声が聞こえてくる。魚達はうっとりとその声に聴き入りながら、歌に誘われるように声の主の元へと急いでいく。

 やがてその主は姿を現した。灰色の岩場に腰かけ、胸に手を当てて歌う一人の女性。一糸まとわぬ白い肌の上に、胸元を隠すように大きな貝があてがわれている。腰まで伸びた漆黒の髪が、波の動きに合わせて揺れている。だが、何よりも目を引くのは、腰から下にかけて肌を覆う翠色の鱗と、その先端についた羽のような尾鰭だ。

 そう、この深海に響きわたる歌声の主は、人魚だったのだ。

 魚達が周りに集まっているのを見て、人魚は歌うのを止めた。人魚は柔らかく笑みを浮かべ、彼らに向かって手を差し伸べた。魚達は今の歌に対する賞賛を示すごとく、我先にと彼女の手に口づける。

 人魚はそんな彼らの姿を微笑ましそうに見つめていたが、不意にその表情に影が差した。

「ねぇ……あなた達は今幸せ?」

 人魚は魚達に向かって問いかけた。魚達は口づけるのを止め、不思議そうに彼女の顔を見返す。人魚はふっと笑みを浮かべた。

「そうよね。おかしな質問よね。ここはとてものんびりしてる。襲ってくる敵もいなければ、食べ物に困ることもない。朝から晩まで好きなだけ歌を歌っていられて、あなた達がそれを聴いてくれる……。それだけのものが揃っていて、幸せじゃないはずがない。それは……わかってるんだけど……」

 そうだ、これ以上の幸せを求めることは強欲でしかない。今まで何度も言い聞かせてきたことだ。それでも彼女の心には、近頃彼女を掴んで離さないある願いが燻り続けていた。

 人魚はしばらく考え込んでいたが、不意に魚達に向かって尋ねた。

「ねぇ……あなた達は、私がいなくなったら寂しい?」

 魚達はびっくりしたように動きを止め、互いに顔を――というか身体ごと向き合わせた。何匹かがぴくぴくと胸鰭を揺らしたかと思うと、人魚の二の腕を突っつき始める。

『決まってるじゃないか。僕達はずっと一緒だったんだ。そんなこと冗談でも言うもんじゃないよ。』

 人魚には魚達がそう抗議しているように思えた。人魚は愛おしそうに魚達を見つめると、彼らの鱗をそっと撫でた。

「そうね、私もあなた達と離れるのは寂しいわ。できることなら、ずっとあなた達と一緒にいたい。でも……ごめんなさい。私はやっぱり行かないといけないの」

 人魚はそう言って岩場から浮かび上がると、勢いよく海の底に向かって潜っていった。魚達は急いでその後を追おうとしたが、ゆったりとした彼らの泳ぎでは人魚に追いつくことはできなかった。

 人魚の姿はたちまち見えなくなり、暗闇の中へと消えた。

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