19 古代の天皇
ミサ〉 さて、この律令国家についても、〈軍事的権力〉〈政治的権力〉〈宗教的権力〉の三点から考察してみたいと思う。
まずは〈軍事的権力〉について。日本史学の森公章さんは、白村江の戦における倭国の敗因について、その軍事的編成が、有力な豪族の並立的寄せ集めであり、全体としての統率が未熟だった点を挙げていた
我聞〉 烏合の衆な感じですか? もしそうだとすれば、なんつーか、やはり全体的に統制のとれた、一枚岩の国家的軍隊がほしくなりますね。
ミサ〉 当然そうだろう。当時は各地の豪族が軍事力の主な担い手だった。バラバラ。だからそれを次第にさ、中央集権的なものへ編成替えしていきてーなー、とかいう動きがでてくるのは自然の流れだろうよ。
で、具体的に言うとだ、戸籍に基づき、成人男子を徴兵していく軍団制がな、8世紀初めにかけて整えられていく。でな、ここで各地の軍団を管轄するのがさ、中央から派遣された国司なわけ。どうだ? 中央集権っぽくない?
我聞〉 ぽいですね。みえますね。
ミサ〉 ただし、実際指揮にあたるのはやはり在地の有力者だったらしく、トップダウン型の国軍が成立したとは言えない。松木武彦さんも、軍団制は在地有力者の軍事的地方支配を断ち切るどころか、むしろ逆に頼っている側面があり、また、中央の有力者がそれら地方の軍事力を公的にではなく私的に「わしンとこにつけ」的に取り込んだりしているなど、成熟したものとは言えない、と評している
中国を手本とし、天皇を頂点とする一元的な軍事力をもちたかったはずなのに、ざんね~ん、といったところか。結局、軍事力の地方分立という状態を克服することはできず、在地有力者が私的な軍事力を拡張していくという傾向も抑えることができなかった。
792年、一部地方を除き、早くも軍団制は廃止されることになる。しかし、だな。少なくとも〈軍事的権力〉を一本化せんとするムーブメントがあった、ということには留意したい。〈軍事的権力〉〈政治的権力〉〈宗教的権力〉を〈一者〉へと束ねようとする運動こそが、古代王権、ならびに王権が牽引する古代国家を生んでると思うからね。
我聞〉 つーことは、〈軍事的権力〉の一元化が未成熟だった律令国家は不完全、って理解でいいですか?
ミサ〉 不完全、というか、そもそも本腰入れた中央集権国家は近代以降でみられるものだと思うのだが、まぁ、そういった話はもっと後でしよう。むしろこのへんが古代王権の限界、あるいは逆に特徴だと考えておこうぞ。
で、次に〈政治的権力〉だが、さっきも言ったとおり、これはまさに律令国家としての整備された統治システムに顕現している。
まず、大陸・半島側の先端的な事例に倣い、都が築かれると共に、二官八省という行政組織ができている。いわゆる官人制、位階と官職が設定され、昇進システムもできている
我聞〉 昔の税というと、租・庸・調、ですね。これも習いました。
ミサ〉 祖は田地の収穫からいくらか徴収するもの。庸と調は成年男子を対象とする人頭税的なもので、布や各地の特産品が納入された。
国家らしさの要件として、官僚制と徴税システムを挙げる論者も多いが、そういうことであれば、まさに律令国家はザ・国家だと言えるな。
また、中央から各地へ国司が派遣されることで、地方への目配りも進んだ
だからこの時期の、初期の律令国家は畿内政権的なものであり、畿外では、そこまで統治が行き届いていない、在地の有力者を介した間接支配が実態だった、とみる研究者もいる
とはいえまぁ、〈政治的権力〉がそれなりに整った統治機構として具体化している、ってことは言える。
我聞〉 未熟な要素もあるけれど、ですね。
ミサ〉 うん、そう。近現代の話とは比較にならんし、それは技術的にも仕方ないことだろう。電話もインターネットもないのだ。
我聞〉 で、最後に〈宗教的権力〉ですね?
ミサ〉 あぁ、そうだ。まず、さっき言った二官八省のうち、二官が太政官と神祇官であることに注目すべきだろう。太政官が〈政治的権力〉の中枢なら、神祇官は〈宗教的権力〉の中枢だ。つまり〈政治的権力〉と〈宗教的権力〉が天皇の下で束ねられている。
ちなみに、新しい天皇には即位礼とは別に、大宝律令の神祇令で定められた、一代に一度の大嘗祭が加わった。つまり天皇位継承儀礼は二つで一つ、というわけなんだが、即位礼が〈政治的権力〉の継承であるとするなら、大嘗祭は〈宗教的権力〉の継承という側面が強いだろう。大嘗祭は天皇による統治の正当性、その系譜が高天の原神話の天照大神まで辿れることを示す神話性に彩られた儀式だ。
ちなみに、大嘗祭は大宝律令よりも前、天武天皇即位のときに祖型が定まり、次の持統天皇のときにほぼ完成したのではないか、と推測されている
我聞〉 わかりますよ。天皇は年中行事として、いろんな祭り事をしてるんでしょ。祭司
ミサ〉 そうそう、祭司王だな。たとえば宗教学者の村上重良さん(1928-1991)も、天皇は祭司王だとしている。もっと言うと、古代の人々は神を祀ることでイネの実りを確実なものにしようとしており、各地で祭祀を行っていたわけだが、それが次第に天皇の下へと一元的に包摂されていくようになった
これも余談だが、たとえば、さっき言った田租のルーツなんだが、それは初穂を神へ捧げるところにあった、ということがわかっている。天皇は各地から収穫を捧げられる存在であり、かつ、その収穫を神へ捧げる存在でもあったわけ。古代史の大津透さんは、天皇はまつられる一方で、まつる主体でもある、と言っている
我聞〉 天皇がまつり事を集約しているってことがすなわち、各地を支配下においている、ってことの証になるんでしょうね
ミサ〉 そのとおり。さて、国家的祭祀はじつにたくさんあるが、日本文学の工藤隆さんはこれを、天皇の即位にともなう大嘗祭を頂点とし、稲の収穫儀礼である新嘗祭、天皇・国家・人々の生命力を活性化せんとする鎮魂祭、災いを払う大祓の三つを柱として編成されている、と整理している
我聞〉 そういえば天皇は神様だ、現人神だ、っていう思想もありますね。
ミサ〉 天皇=現人神という観念が下々まで浸透するのはむしろ明治以降で、巡幸、教育勅語、御真影など、様々な装置を通じた国民教化の賜物だったろうよ。もっと言うと、戦前のある時期により強まっている。
ただしもちろん、律令国家が形をなしていった天武天皇の頃にはすでにな、天皇は神の子孫であり、かつ神そのもの、といった考え方も芽生えていたという。とはいえまぁ、それが般ピー、下々までさ、戦前のように浸透していたかというと、じつに怪しい。また、論者によっては、天皇は神につらなる存在ではあるが、だからといって神として祭祀の対象になっていたわけでもなく、あくまで天皇は祭る側だった、と指摘がなされている
我聞〉 天孫降臨神話、なんてのもあるじゃないですか? 『古事記』(712)とか『日本書紀』(720)とか、あれも天皇の神格化に一役買ってますよね?
ミサ〉 アマテラスが孫神であるニニギノミコトを地上へ降ろした、とかいうやつね。で、天皇はニニギノミコトの子孫であるがゆえ、天皇の地上支配が神話的に正当化されることになる。
『古事記』『日本書紀』は天武天皇のときから編纂スタートしてるんだが(異説アリ)、中国王朝のような中央集権的律令国家を真似んとしていた日本では、それこそ中国の皇帝と同様、自分たちの世界、その中心に天皇がいること、そして天皇が統治することが正当であることを起源にまで遡り、主張する必要があったのだろう
あるいは一方では、かつての大王と豪族たちとの間でじつに多様であった神話・伝承・系譜を、天皇を中心に一元化することを狙った側面もあったろう、といった指摘もある
我聞〉 なるほど。やはりバラバラなものを一本化していこうとする運動があったわけですね。
ミサ〉 そうだ。ただし、神話のイデオロギー的な側面ばかりを強調するのはいかがなものか、と指摘する論者もいることは付言しておく
我聞〉 だいたいわかってきましたよ。やはり〈政治的権力〉〈軍事的権力〉〈宗教的権力〉という三権が天皇という〈一者〉に集まり、この〈一者〉が〈上方排除〉されている。そして、そこから三権が官僚制として下りてきて、整っていく、ってことでしょ?
ミサ〉 イエス。
我聞〉 となると、ここで〈下方排除〉されているのはなんですか?
ミサ〉 最後の締めは、その話としよう。
(註)
1 森公章『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社、1998:149-152頁
2 松木武彦、前掲『人はなぜ戦うのか』:196-207頁
3 「律令制での位階の昇進と官職の関係は、おおまかにいえば以下のようである。ある官について勤務すると毎年勤務評定(考という)を受け、それを四年とか六年とかの一定年限(選限)重ねると、そこで位が昇進する(選)。それに合わせてその位に相当する官職へうつっていく、という仕組みである。」(引用文献:大津透『天皇の歴史01 神話から歴史へ』講談社、2010)
4 とはいえ、現代のように堅固な徴税システムがあった、とは考えないほうがよい。後の時代、延喜2年、10世紀初頭の事例ではあるが、現存している阿波国の一部戸籍について、性別の明らかな550人中、じつに483人が女子であるという。また、男子とはいっても、課税免除となっている者が多いという。つまり、なんだかんだでみなさん、徴税逃れをしてしまうのだった。(参照文献:喜田貞吉『賤民とは何か』ちくま学芸文庫、2019:P40)
5 国司が登場する前、律令国家が整備される前段階の地方官としては「国造」がいる。ヤマト王権の地方統治システムでは、6世紀半ば頃までには、各地に「国造」、その下に「稲置(イナキ)」が置かれていたという。「国造」は大化の改新後、「評(コホリ)制」が敷かれたことにより廃止されたとみる論者もいるが、そうではなく、「国造」が治めるクニ、その下位区分としての「評」といった具合に再編成されて、残存したとみる論者もいる。(篠川賢『国造 大和政権と地方豪族』中公新書、2021)
6 吉田孝「八世紀の日本 律令国家」『岩波講座 日本通史 古代3』岩波書店、1994
7 工藤隆『大嘗祭 天皇制と日本文化の源流』中公新書、2017
8 神聖な王権=祭司王、というパターンは、世界の至る所でみつかる。一例をあげれば、たとえば、「バビロニアやアッシリアの王は、その主神が神々の世界で獲得した王権の地上における代行者であると同時に、神々に対して責任を負う民の代表者であった。」「神殿を維持し、供養・供物によって神々を扶養することも、国の安泰を神々に祈願することも、民を代表する王が負う宗教的任務に属していた。」(引用文献:月本昭男「王権と宗教儀礼」『天皇と王権を考える(8)コスモロジーと身体』岩波書店、2002:P64-65)
9 村上重良『日本史の中の天皇』講談社学術文庫、2003:第三章
10 大津透「農業と日本の王権」『岩波講座 天皇と王権を考える(3)生産と流通』岩波書店、2002
あるいは、大津透『古代の天皇制』(岩波書店、1999:第五章)では、古代の調庸制の特徴として、実際にかなりの部分が神社や陵墓に供えられており、それが第一の用途であったことを挙げている。つまり、調庸の貢納が、古代律令国家祭祀を支えていたわけである。
11 たとえば大津透さんは、次のとおり語っている。
「農耕祭祀は収穫感謝と予祝とが中心になることは予測がつくことで、秋にとれた収穫の一部を神に捧げることは汎時代的な事象であろう。各地域において首長層は、在地の民衆から収穫の一部をミツキ・ニヘ・祖などとして集め、在地の神に初穂として捧げ祭っていたのだろう。そうした在地首長の祭祀権が、より大きな首長にとって代わられ、王権の成立とともに大和政権の大王によって統合されるにいたる。」(引用文献:前掲『古代の天皇制』P107)
12 前掲『大嘗祭』:第二章
13 前掲『天皇の歴史01 神話から歴史へ』:P342-343
14 たとえば神野志隆光さん(専門:日本古代文学)は次のとおり語っている。
「古代律令国家は、朝鮮を藩国として服属させる『大国』(帝国的世界)として天皇の世界を成り立たせようとする。中国古代帝国を模倣して自分たちの世界を作ろうとしたのである。その正統性、つまり、いかにして世界が成り立ち天皇の世界としていまあるかという、自分たちの世界の根拠を、確証する営みが『古事記』『日本書紀』であった。」(引用文献:『古事記と日本書紀 「天皇神話」の歴史』講談社現代新書、1999:190頁)
15 大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』講談社、2001:P59
16 たとえば嶋田義仁さんは、「神代神話は天皇制神話であるどころか、稲作を常としてきた常民の、稲作プロセスを踏まえた死生観の表現」であり、その根底には「一般民衆の生活に根ざした世界観が存在している」と言う。(引用文献:「『古事記』神代神話のコスモロジー」『天皇と王権を考える(8)コスモロジーと身体』岩波書店、2002)
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