三月二日 現在の「徳島県」の誕生日

 明治四年(一八七一年)の廃藩置県で「徳島県」が設置されることになったのだが、直後に改名したり、一部が愛媛になったり高知になったり何やかんやして、ようやく現在の「徳島県」に治った日。

 明治十三年(一八八〇年)三月二日のことであるとされている。


 阿波踊りや人形浄瑠璃、鳴門海峡の渦潮と言われればピンとくる人も多いと思うが、それが「徳島県」の文化や名物であると言われると「え、そうやった? へえ〜」という扱いを受ける四国の不憫属性——徳島県。

 筆者は「四国の空中都市エア・ネイション(存在してるのに忘れられがちという造語)AWA」と密かに同情している一人である。

(決して、「ああ、忘れとった。あはは」の略ではない)

 その存在感(の無さ)はある意味、九州における佐賀県と似たような扱いだ(違う)


 徳島県公式によると、徳島には今からおよそ二万年くらい前に人が定住を始めた痕跡があるそうだ。氷河期が終わるより前から人が存在していたと考えている——らしい。

 縄文、弥生と過ごして飛鳥時代には国府が置かれるほどだったから、一応メジャーどころとして歴史の一ページを飾ってきた「クニ」である。

 応仁の乱以降台頭してきた阿波の英雄、三好氏などを輩出しているが、のちに戦国時代に突入すると長宗我部氏(土佐)にフルボッコされたりもしている。


 そして、第一次世界大戦後、青島から捕虜として連れてきたドイツ兵の収容施設があったのも徳島だ。

 収容と言っても(帝国街道を歩み始めたばかりの日本は、欧米では建前扱いだった捕虜の扱いに関する国際法に則って、ある意味馬鹿正直に)非常に自由で快適な捕虜生活を提供していた。

 収容されているとはいえ地元民とわちゃわちゃ交流したり、第九したりしていた。その繋がりで、日本で初めて「第九」を公演したのは徳島だとされている。


 このあたりの史実を元に制作された映画「バルトの楽園」は実際に収容所があった場所にセットを再現して撮影されたという。ロケ地は二〇〇九年まで断続的に一般公開されていた(因みに主演はマツケンサンバ)。


 地味だが、なかなか奥が深い土地——徳島。本日は、そんな徳島が現在の徳島になった日である。

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