七月二十四日 河童忌(芥川龍之介の命日)

 カクヨムに身を置く以上、無視をしてはいけない日、その十。

 日本を代表する文豪、芥川龍之介といえば必ず教科書に作品が掲載されるほど、日本中に浸透している小説家の一人だ。「我鬼」の俳号を持つ俳人でもある。


 主に短編小説が多いことも、教科書に取り上げられやすい一因だろう。

 幼少期は母の持病の悪化(精神障害)に伴い、親戚に預けられて育ち、その後養子として迎えられるなど、なかなか落ち着かない環境に置かれていたようだ。(芥川自身も精神障害を患っていたとされているが、遺伝的側面もあるいは関係していたのかもしれない)


 しかし、逆境の中でも超難関、東京帝国大学(現、東大)に入学していたりと秀才であったことは間違いない。この大学在学中に洋書の翻訳から始まり本格的に執筆活動に勤しむことになる。(ペンネームはまだ定まっていない)


 大学卒業後はしばらく海軍機関学校で英語教師をする傍ら「羅生門」「煙草と悪魔」を立て続けて発表し、教師を辞めた後は毎日新聞社で寄稿の仕事にシフトし、小説家として執筆に専念していくことになる。

 大正十年(一九二一年)には中国へ約五ヶ月間の海外視察へと赴いており、帰国後に紀行文を発表するなど精力的に活動している。


 しかしこれ以降、芥川は徐々に心身ともに体調を崩し始める。


 二年後、関東大震災が起こり、芥川は体調不良を押して自警団へと加わるが、残されている随筆や当時の証言を鑑みるに心身を病んでいるが故の奇行言動が垣間見えるようになる。


 大正十四年(一九二五年)三十三歳で再び縁あって教鞭をふるうことになるが、翌年には体調不良が悪化し療養生活を余儀なくされている。

 悲劇はこの二年後に起こる。


 昭和二年(一九二七年)年明け早々、姉の夫(要するに義兄)が放火と保険金詐欺の容疑をかけられて自殺したことにより、その借金と遺族の面倒を芥川が背負うことになる。

 同年四月、芥川は最初の自殺を図るが、この時は秘書によって事無きを得た。しかし三ヶ月後の七月二十四日、心身の限界に達していた芥川は遺作となった「続西方の人」を書き上げてのち、致死量の睡眠薬を煽り帰らぬ人となった。


 享年三十五歳。

 わずか十三年の間に翻訳含め六十作以上もの作品を遺したことを思えば、早すぎる死が悔やまれる。

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