第2章 文字だけの、見えない君を探してる。
第16話 甘エビ
季節は冬を越え、春を迎えていた。
お見合いをしたのは、もう一年以上も前のことだ。
わたしは今、“一人暮らし”をしている。
妹のひとみは、結婚して家を出て行ったからだ。
昔ノートに書いた、わたしが『大人になったらやってみたいこと』。
“お酒を飲む”以外が、やっと叶ったとも言える。
“25歳までに結婚”は、もう一生叶わない。
婚活も、もうほったらかし。自由に生きることに決めたのだ。
分かったことがある。
一人は誰にも気を使わなくていいということだ。
わーー!一人暮らし最高!!
わたしはますます、結婚とは無縁の人間になっていた。
そして今、わたしには通い詰めているお店がある。
むしろ通い詰めるために、この店の近くに引っ越したのだ。
そう、わたしは寿司屋『おあいそ』の近くで暮らしている。
それは、いつしか“鋤柄直樹(仮)”と出逢うためだ。
金曜日、仕事を終えたかなえは、あの店へと向かっていた。
しばらく歩いていると、一軒の店が見えてくる。
どうやらそれは、寿司屋らしかった。
店の戸には、のれんがかけられており、そこには『おあいそ』とある。
かなえは、店の戸を開けた。
数人の男性客が黙々と回転寿司を食べている。かなえに目を向ける者はおらず、店内は異様な空気が漂い静まり返っていた。
奥では店主らしき人物が寿司を握っている手が見える。
雰囲気からしてラーメン屋『ことだま』の系列店であることは間違いなかった。
通い詰めても客として迎えられている感じはしなかったが、もうそれには慣れたもんだ。
かなえは、あいているカウンター席に座った。
回転レーンに乗った寿司が目の前を通過していく。
特にこれといって不自然な点はない。
かなえは流れてきた寿司を手に取り、食べ始めた。
しばらくすると、回転する寿司レーンの中に一冊のノートとボールペンが乗った皿が現れた。
やがてそれは、かなえのもとへと回ってくる。
そこには、『書いたらお戻しください』とあった。
かなえは動いているレーンから、ノートとボールペンを手に取った。
寿司屋の酢でも吸ったのか、ノートは少し波打っていた。
かなえはノートを開く。
そこには“鋤柄直樹(仮)”からの“文字”が書かれていた。
『僕は、甘エビが好きです。甘くないエビよりも。』
鋤柄さん!!
わたしは何より、このノートを開く瞬間を楽しみにしている。
このために働いて、この店に通っていると言っても過言ではない。
今日も回転するレーンを流れるノートに想いを綴る。
たわいもない話を。なんでもない話を。
好きな寿司ネタとか、最近の出来事とか。
いつこの店に来ているのか?
どうしたら、わたしと逢ってくれるのか?
本当は他に聞きたいことは沢山ある。
でも、確信に触れることは“文字”にしていない。
それを書いて、またノートから鋤柄さんが消えてしまったらと思うと、怖くてとてもできなかった。
「あっ!!」
声が同時に響いた。
目の前を少し通り過ぎてしまった甘エビを取ろうと、伸ばしたその手が、一つあけて座っていた男性客の手に触れてしまった。
少しノートに集中し過ぎてしまっていたようだ。
「鋤柄さん!?!?」
「えっ?」
「あ、いや……」
「スキガラさん??」
「あ、ごめんなさい。それはこっちの話です」
思わず“鋤柄さん”と口にしてしまった。
けれども、男性客は初めて聞いた言葉のような顔をしていた。
だからあれは、きっと鋤柄さんではないのだろう。
甘エビの皿を手に取ろうとしていたのは、ただの偶然だったのか。
少しがっかりしている自分がいる。
割とイケメンだったかもしれないのに。
この店で人と喋ったのは、はじめてだった。
というより、はじめてこの店で、声を発したと言ってもいいだろう。
この店に限った話でもない。
『ことだま』でも、誰かが誰かと会話をしている姿を見たことがない。
皆、黙々と何も感じない人間のように食事をしていた気がする。
まるで、感情を失った人間のように。
気を取り直し、ノートにある“文字”に返信でもするように、かなえは続きを書いた。
『鋤柄さんは、お寿司の後にデザートは食べますか?』
かなえはノートを閉じると、回転するレーンにノートとボールペンを戻した。
かなえは食事を終え、戸を開け外に出ると、雨が降っていた。
今日は折りたたみ傘を持って来て正解だった。
傘を差すと、ちょうど食事を終えた先程の男性客が中から出てきた。
男性客は雨に気付き、顔をしかめている。
きっと、傘を持っていないのだろう。
ふと、横を見ると傘立てがある。
少しぼろい傘が一本立てられており、『ご自由にお借りください』とある。
「お借りください?こんなところに、来た時あったっけ?」
男性客はその傘を手に取り、店を後にした。
その姿は、いつしかの、かなえのようだった。
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