父のゴルフシューズ

宇宮出 寛

あのね

 私たちのカントリー・クラブの新庄功さんは、亡くなられたお父上の会員資格を継いで入会され、メンバー歴四年、まだ四十代半ばのなかなかの飛ばし屋です。

その彼の使い込まれた旧式のゴルフシューズが、現在主流の軽快なものの中で異彩を放っていると私には見えました。もっとも少し前までは、金属のスパイクが普通でしたから、ゴルファーは一日重い足を引きずって歩くのが当たり前でした。

今は軽くて手入れも簡単な合成皮革の靴が全盛で、プラスチック製の爪がスパイクの代わりの滑り止めになっています。中にはスパイクレスと呼ばれる、運動靴と変わらないようなものを使う人もいるくらいです。

ところが新庄さんのシューズは、スパイクが金属製で、やや黄ばんではいるものの良く磨きこまれたウイングチップ模様の本皮製なのです。グリーンに悪影響があるので(クラブハウスのカーペットを傷めるからという説もありますが)、ゴルフ場によっては金属のスパイクを禁じている所もあるようですが、私たちのコースではまだそういうことはありません。しかし本皮は、雨中のプレー後などに手入れが大変だし、第一重くて仕方がないのです。

新庄さんのその靴は、ご想像通りお父さんの形見だそうです。よほど父上を愛していたからそうしているのでしょうね、と私は冗談半分にそう彼に訊いたのです。

私は彼の父上とは挨拶を交わす程度の知り合いでしたが、息子の功さんとはこの頃良く一緒にラウンドする仲で、子供のない私には彼が自分の息子のようで、欲目ですが功さんも私を父のように考えてくれていると思います。そんな彼が私の問いに、次のような話をしてくれたのです。

                  *

私の父親は、自宅の隣に建てた工場で、プラスチック製品を作る会社を経営していました。従業員が五人しかいなくて母が事務員という、文字通りの零細企業でした。それでも堅実で真面目な仕事振りが認められたのか、三次下請けから次第に二次の仕事も回ってくるようになったそうです。

大学卒業後に勤めた会社で覚えた技術を頼りに独立したのですが、注文は途切れがちで割りの悪い仕事が多く、小学生だった私と妹を抱え、心身ともに相当苦しい時代を送った筈です。母は今もって何も言いませんが、私たち子供にそれほど貧乏の記憶がないのは、両親が辛い思いをさせないよう配慮してくれたからに違いありません。

私が高校生になった頃には、父の会社はそれなりに安定しているようでした。しかしそれも外見上そう見えたというだけのことで、子供は自分に影響が及ばない限り、親の経済状態に細かく気を配ったりはしないものです。それにその頃は『高度経済成長期』は過ぎたものの、まだ日本経済は十分な成長を続けていましたから、電化製品などの消費財の生産も活発で、父の工場の仕事がなくなるような状況になかったことは確かです。

私は高校生活を楽しむことに夢中で、父や母の日常生活にほとんど注意を向けることはなく、親の方でも多忙で子供に干渉する余裕は持てなかったでしょう。

私は父の出た高校で野球をやっていました。父も野球部でしたから、息子が部活に励んでいればそれで安心だったのかもしれません。父は身体が大きく肩が強かったので、エースではなかったけれど、投手としてまずまずの活躍をしたそうです。

あれは高校二年の春のことです。地区大会を控えて、全員が暗くなるまで練習に励んでいました。私は小柄でしたから、何とかして内野の補欠くらいにはなりたいと思っていました。そうすれば三年生に上がったとき、レギュラーの一角には入れるだろうと考えていたからです。本当は父のように投手がやりたかったのですが、背が小さくて肩も強くなかったので、自分は母親似だから仕方がないと諦めていたのです。

その日もボールが見えにくくなるまで練習をし、一年生と後片付けをしていたら、三年生のAという先輩が、ちょっと顔を貸せ、と私を校舎の裏に連れて行きました。

Aは足を止めると、振り向きざまに無言で私の顔を拳で殴りました。暗くてAの表情は分かりませんでしたが、自分の目からは火花が出たように感じられました。

「俺がなぜ殴ったか教えてやろうか。お前の親父が家の工場の仕事を盗んだからだよ。お嬢さんをコネでデパートへ就職させますからって、脇から仕事をかっさらったそうだ。フェアじゃねえ、汚ねえ手を使う卑怯者のおっさんだぜ、お前の親父はよ」

 私はあっけにとられて、黙って立っていました。私が何も言わないので、拍子抜けしたのか、殴って気が済んだのか、Aは行ってしまいました。そういえばAの家も似たような工場をやっていたな、とそのとき思い出しました。

その夜帰宅すると、私はすぐに隣の工場へ行きました。残業で母以外は全員がまだ居残っていて、事務室には父が一人机に向かっていました。

私は父に、Aの言ったことが真実かどうか問い質しました。父は苦々しい顔つきで認めました。

「だけどな、あれは頼まれたから紹介しただけだぞ。お父さんの同級生が重役だって、向こうが知ってたんだから、仕方がないじゃないか」

 それは私には言い訳にしか聞こえませんでした。目の前が暗くなったようでした。

「卑怯だよ、お父さんはフェアじゃない、汚いよ。そんなことまでして仕事を取らなきゃいけないの?僕は人間として軽蔑するよ、お父さんなんて・・・」

 父は立ち上がって、私の顔を平手打ちしました。凄い音がしましたが、私はよろめきながらも、左の耳を押さえて何とか立っていました。泣く気はなかったのですが、涙が出そうになったので自宅へ戻りました。

私が帰ったのを知って、母が台所からちらっと振り返って『お帰り』と言いましたが、私の様子が変だったのか、傍へ寄ってきました。そのとき耳を押さえていた手をのけると、手の平に血が付いているのに気づきました。母も慌てましたが、私も驚いてしまって、血の気が引くのを覚えました。

母と二人、夜の街をタクシーで耳鼻科を捜し回りました。検査の結果、衝撃で鼓膜が破れたことが分かりショックでしたが、一ヵ月ほどで治療も終わり、すっかり元通りになりました。

聴力にも影響がなく肉体的には以前と同じな訳でしたが、私の父への気持ちは大きく変わりました。それまでは体が大きく押し出しが立派で、無口で落ち着いた態度の父に、私は男の理想形に近いものを見ていました。それがこのことがあった後では、今まで美点だったところが、不遜で頑固で思いやりのなさに思われてきたのです。

父は『悪かったな』と言っただけで、それ以上は何も弁解はしませんでした。私も今更言い訳を聞く気にはなれず、なるべく父から遠ざかっていることが多くなりました。会社が機械増設の借入金で大変だというのは母から聞かされましたが、だから何だと思っただけでした。野球部を退部して暇になったので、受験勉強に専念することにしました。

私は父の出身校とは別の大学へ進学し、東京で四年間の下宿生活をしました。帰郷は年に二回、母が月に一度くらい顔を見に来てくれましたが、父とはほとんど話もしない状態でした。

卒業すると私は商社に入りました。三年ほど東京で商売を勉強し、その後インドネシアのジャカルタへやられました。インドネシアは戦後賠償の様々なプロジェクト以来、日本とは密接な関係を保っていて、その頃には日系企業の工場も何社か操業していましたし、貿易も活発に行われていました。私は上司とともに企業や役所を回り、商売の種を探すのに奮闘しました。ゴルフを覚えたのはこの頃で、仕事の付き合いに必須だと先輩に連れて行かれたのが最初です。

ゴルフは、初めは誰でもそうでしょうが、ボールに当てるのも大変で、やっと少しずつ打てるようになったと思ったら、今度はスライス(右曲がり)ばかりで真っ直ぐ飛んでくれません。野球の経験は飛距離には有利でしたが、曲がり出すとどこへ飛んでいくか分からないという有様でした。

それでも一年くらいすると、曲がり方も段々小さくなり、飛距離がアドバンテージとなってきました。時々先輩より良いスコアを出すようになって、

『お前は身体も大きいし、野球をやっていたこともあるらしいな。本気になって練習したら、相当なところまで行くかも知れないぞ』と感心されるようになりました。

 独身の気楽さで、私はゴルフに打ち込みました。まだ暗いうちにコースへ行き、明るくなるのを待ってハーフをプレーし、それから朝飯を食べて出勤という日が週に二、三回はありました。もちろん接待で二日酔いのときにはやりませんでしたが。

高校で野球を止めてから、私はスポーツらしいことなど何もしてこなかったのですが、大学を終えて社会人になる頃には、いつの間にか背も伸びてがっしりした身体つきになっていたのです。

 そのうち『S社にはゴルフのうまい若い奴がいるらしい。一度回ってみたいね』と在留邦人の間に評判が立って、商売にはずいぶん足しになりました。毎日が仕事と遊びで夢中でした。

三十一歳で上司の進める娘と結婚しました。式は嫁の実家のある東京で上げましたので、父と母と妹夫婦、田舎の親戚の何人かが来てくれましたが、人数は相手の方が勝りました。母には事前に話してありましたが、父には決まってから報告しただけでした。でも父は、『良かったな、しっかりやれよ』とだけ言ってくれました。

休暇を終えると、私は妻を伴ってジャカルタへ帰りました。そう言いたくなるほどすっかり現地に溶け込んでいました。妻は熱帯暮らしを好みましたが、やがて妊娠し実家へ戻って男子を出産しました。それからは単身赴任で、日本と現地を行ったり来たりの生活になりました。

バブル経済崩壊の後、九七年頃から日本の景気は本格的に後退局面に入り、商社の仕事も停滞気味になりましたが、大手は既得権益を色々と抱えているので、縮小は最小限度に留まっていました。

二〇〇四年、私は長いジャカルタ駐在の任を解かれ、本社の課長代理になりました。国内景気は少しずつ回復し始めていましたが、父の会社のような小さなところは、元請の値下げ要請と発注量の減少に悩んでいたはずです。しかし私は何とか出世コースのしんがりにぶら下がっている、という自己満足で仕事をしていました。

翌年の冬、父が急死しました。くも膜下出血でした。過労と心労が引き金になったのだと想像されました。工場の受注減少を、別の分野の製品開発で切り抜けようと、全社一丸で取り組んでいたらしいのですが、やはり社長である父の負担が大きかったのでしょうか。家庭用品とスポーツ向けの製品が、何とか成功しかけた矢先のことでした。七十二歳ですから、それほどの早死とはいえないでしょうが、私には予想外のことでした。私の念頭を離れているうちに、父はいつの間にかそんな年齢になっていたのです。

葬儀で帰宅してみると、私は自分に対する周囲の期待の大きさを知りました。最初私は父の会社を売りたいと思っていました。商社にいた方が色んな面で有利だと知っていましたし、長い間父に反発してきたことを思うと、すんなり後を継ぐ気持ちにはなれなかったのです。

ところが社員は、私が父の代わりになることを望んでくれましたし、銀行も取引先もそうでした。父の意外な人望を知ったのと、母が私に父の後を継いでくれるよう強く迫ったことは驚きでした。私は心中複雑なまま、承諾せざるを得ませんでした。しかし正直なところ、商社でどこまで出世できたか、それほど自信があったわけではありません。

私は妻を説得して、小学生の息子と三人で実家へ移ってきました。社員は十人になっていて、工場の機械などもすっかり変わっていました。堅実な父の性格を反映して、利益率よりは継続に重点を置く経営を続けてきていましたから、新米の私にも慌てることはありませんでした。

三年近く経つと、会社の仕事にも慣れてきましたので、ゴルフを再開しました。父が会員だったコースに、書き換え入会していましたから、そこで毎月行われる例会へ出ることにしたのです。物置に入れたままになっていた道具を取り出すとき、父のフルセットとシューズが三足残されているのを見つけました。同じように三年放置されていたクラブは、ウェッジなどに多少の錆が出ていましたが、父の物の方がずっと綺麗でした。年式は私のクラブの方が新しかったのに、手入れの差が表れていたのでしょう。シューズには乾燥剤と新聞紙が丸めて詰められており、カビだらけの私の物とはぜんぜん違っていました。

私は思い切って、軽量スティールのアイアンセットとソフトスパイクのシューズを新しく買いました。そしてゴルフ生活を再スタートしたのです。

海外生活でゴルフに打ち込んでいたので、それなりに自信はあったのですが、ハンディ戦の月例会には何度か優勝できました。すぐに知り合いも増え、多少は顔も売れてきたと感じるようになりました。

そんなある日、高齢の会員の方から声を掛けられたのです。

「あなた新庄辰三さんの息子さんだそうですね。私は森本といいますが、あなたのお父さんとはずーっと一緒にプレーした仲でした。どうです、一度一緒に回ってくれませんか?それともこんな年寄りじゃおいやかな?」

 私は父がゴルフを熱心にやっていたらしいとは感じていましたが、その同じコースを歩きながら、正直なところ父についてもそのプレーについても、それまで全く思いが及ばなかったことに驚かされました。私はすぐに、次回のラウンドをご一緒させて下さい、と森本さんにお願いしました。

翌月の例会は、森本さん、私がライバル視する鈴木さん、それに柏原さんというご婦人が同伴でした。八十に近い森本さんは、さすがに距離は出ませんが、アプローチとパットでスコアをまとめるのはお見事でした。実力は父が上だとのことでしたが、多分ご謙遜でしょう。二人は同年齢で馬が合ったそうで、五十代の終わりごろ一緒にゴルフにのめり込んでいたといいます。それはちょうど、私がジャカルタでゴルフ熱に取り付かれていたのと同じ頃でした。

それからしばらくして、また森本さんと回る機会がありました。この日は森本さんの友人で同じ年恰好の佐藤さん、鈴木さんと私の四人で回ることになりました。佐藤さんは父を存じておられましたが、森本さんは私が息子であると言わなかったので、私も黙っていました。

午後はインコースを回りましたが、十二番はパー3で、ティーグラウンドの脇の丘には、ホールインワン達成者の植樹した、桜や梅や木犀などが並んでいます。その中には父の名札の下がったモッコクもありました。

「佐藤さん、あんたこの人のホールインワンの時一緒だったそうだね?」

 森本さんは父の名札を指差しながら、佐藤さんにそう話しかけたのです。

「いやーあれは凄かったよ。かなりのアゲンストでね、打ち降ろしなのに風の下を潜って行く感じだったな。なかなかいい球を打つ人だった」

 佐藤さんは手振りを交えて、ショットを説明してくれました。私はふーん、父もやるものだなと思いました。佐藤さんはグリーンへ降りて行くカート上で、父の話を続けました。「新庄さんという人は、マナーとルールには特別厳しい人だった。そうだったよね、森本さん?」

森本さんは黙って笑いながら頷きました。

「ローカルルールで6インチプレースが認められていたって、絶対やらないし、ロストボールだって三分くらいしか捜さなかったな、あの人は。ちょっと異常な感じがしたな」と佐藤さんが言いました。

「キャディにボールが当たったことがあったよね。あの時には大変だった」と森本さんがそう言った時には、カートがグリーン近くへ来ていました。

 次のホールはパー5でした。皆がティーショットを放ち、カートは二打地点へ向かいます。その時私は何気なく訊きました。

「自分のキャディにボールを当てるのはペナルティですよね?」

 佐藤さんは合点したような表情で、

「そうなんだけど、共同キャディの場合はね、その時誰の指示で動いていたかが問題なんだよ。あれはたしか、新庄さんのアプローチがキャディに当たったのは、横山さんのクラブを取りに行った時じゃないかな。だから無罰のはずなんだけど、絶対ペナルティを払うと言って聞かなかったね」と言うと、

「あの人は頑固だったからね」と森本さんが答えました。

「だけど新庄さんは、厳しいのは自分にだけで、他人にはそんなことはなかったろ?それでね、一度訊いてみたことがあるんだよ。何でそんなに自分に厳しくしなくちゃなんないのってね。そうしたら、訳は教えなかったけど、昔息子に『お父さんはフェアじゃない、卑怯だ』って言われたらしいんだ。でそれを忘れないように、せめてゴルフの時くらいはフェアを心掛けよう、と思ってるんだって言ってたな」

 私は佐藤さんがそういうのを聞いてはっとしました。そして高校生だったあの日のことが思い出されました。以来私は父と気まずくはなりましたが、自分が投げつけた言葉のことなどすっかり忘れていました。それは自分が先輩から言われたことを、興奮のあまりそのまま父にぶつけただけだった、ということかもしれません。

反抗期だったこともあるかもしれませんが、私は父と離れていることに喜びに近い気持ちを持っていたと思います。そうした気分の延長だったのでしょう、商社に入った時も結婚についても相談はしませんでした。

私はそれまでずっと、冷ややかな気持ちで父を見てきました。そして私がぶつけた言葉が父の心に刺さったままだったとは、その時までは考えても見ませんでした。

『お父さんは汚い』と非難した私でしたが、もちろん自分がフェアな人生を歩んできたとは思っていません。商社の仕事には、人に言えないようなことも少なくありません。『生き馬の目を抜く』ことが求められる世界です。

私は帰宅すると物置の中で、父のゴルフ道具を前にして考え込みました。『このクラブを振りながら、フェアウェイを歩きながら、私の言葉を反芻していたのだろうか』

棚には靴の箱が三つありましたが、緑色をした少し大きめの箱を手に取りました。開けてみると、木型が嵌められて、いかにもオーダーメイドらしい、風格のあるスパイクシューズが入っていました。それは少し黄ばんではいるものの、高価である証左のような革の手触りと質感がありました。

私の足は日本人には少ないエジプト形とかで、親指が特別長く、その上長さに比して幅が狭いので、どうしても出っ張った親指が圧迫され、ひどい時には内出血して爪が真っ黒になり、そのうちそっくり剥がれてしまいます。爪は時間が経てばまた生えてくるので問題はありませんが、しばらくは足が気になってプレーに集中できません。そんなわけで、靴にはずっと悩まされてきました。今はサイズも豊富でよほどマシにはなりましたが、それでもぴったりした物には巡り合いません。ですからスパイクシューズを換える時には、どうしても足幅のゆるい物を選ぶしかないのです。

『父も靴には苦労したのかな』と思いながら木型を外し、私は父の靴に足を入れてみました。驚きました。まるで包み込むように私の足に密着してくるのです。靴紐を締めるまでもなく、そのまま駆け出して行けそうな気がしました。足のどこにも違和感がないというのは初めてのことで、重さというマイナスを忘れさせるだろうと思われました。

私が父の靴を持って家に入っていくと、母がそれを見て言いました。

「まだあったんだね。ずいぶん高かったって、その靴作ったとき父さん言ってたわ。年とってからは、重い靴は駄目だって言って軽いのに換えてたみたいだけど、父さん捨ててなかったんだねえ」

 私は次の例会に父の靴を履いていきました。予想通りの快適なラウンドになりました。ラフでも斜面でも、足はしっかりと大地を掴んでびくともしません。私は父と一緒に歩いているような気分でした。父が私の足をすっぽりと包んでくれているのを感じたのです。それからはずっとこの靴を使っているんですよ。

だけど私は、歩きながら父の存在を感じてはいますが、父という人間を理解できたとは考えていません。血のつながった親子でも、結局は分かり合えなかった二人ですからね。

                   

新庄さんはこんな風に話してくれたのですが、ご承知のようにスパイクはアメリカで禁止が定着して、日本でもソフトスパイクが主流になりました。グリーンに悪いというのが証明されたそうですから使わない方が賢明でしょう。それを知って新庄さんは、今はスパイクレスに換えたと言っていました。父上と同様に、マナーとルールには厳しい方ですから。

ワインがおいしいので、つい長話をしてしまいました。最近は寒いせいかあまり良いラウンドができていませんが、春には少しはましなゴルフになりそうな気がしているんです。 完。

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