第8話.ふたりで図書館へ
王宮の片隅にある小さな会議室にて。
ルイゼは婚約破棄の同意書にサインを記入しているところだった。
(婚約するときは確か、王宮内の教会に大司教を呼んでフレッド殿下とサインをしたけれど……破棄するときは簡単なのね)
今のルイゼを見守るのは、目の前に立つ聖務官と部屋の隅に立つルキウスの二人だけである。
昨夜、仕事から戻った父に外出許可を願い出た際は、意外なことに何も言われなかった。
言っていた通りルキウスが手を打ってくれたのだろう。
今も彼は、ルイゼがサインを済ませるのを静かに待っていてくれる。
サインを終えると年配の聖務官が内容を確認し、それから恭しく頭を垂れた。
その口からはお決まりの文句が流暢に流れ出る。
「レコット伯爵令嬢、どうか気を落とされませんように。赤き蔦より彼方にて、貴女の人生が明るい旅路へと至ることを祈ります」
「ありがとうございます」
こうして呆気なく、ルイゼとフレッドの婚約破棄は成立したのだった。
宮殿を出ると、ルイゼはようやく一息つくことができた。
自分でも不思議なほど、悲しさや悔しさは無い。面倒なことが片付いたという達成感だけを感じていた。
そしてそれは――間違いなく、隣に居る彼のおかげだ。
「ルキウス殿下、ありがとうございます。ご多用の中、私に付き添ってくださって」
ルイゼは隣を歩く彼に、丁寧に頭を下げた。
陽光の下でも光り輝くほどの美貌の王子、ルキウス・アルヴェインは「気にするな」と首を横に振る。
「それよりも。……王宮の君の部屋のことだが、すまなかった」
「お気になさらないでください。仕方の無いことですから」
「……そうか」
王族の婚約者としてルイゼが使用していた部屋は数日前に取り壊されたそうだ。
ルキウスによれば、リーナ専用により広々とした豪奢な部屋に改築されるためで――その際に、ルイゼの私物は全て廃棄されたということも。
数十冊もの本が捨てられてしまったのはショックだったが、今さら文句を言ってもどうしようもない。
(やはり早急に、新しい本を探しに行きたいわ!)
ミアにもお願いしたが、謹慎が解けたので自ら街に本探しに行くことができるのだ。
そんなことを思い拳を握っていたときだった。
「ルイゼ。この後、時間はあるか?」
ルキウスから、そんな問いかけがあったのは。
+++
連れて行きたい場所がある。
そう告げたルキウスについていくと、辿り着いたのは王宮敷地内の王立図書館だった。
この図書館は、国内外のあらゆる知識の宝物庫と呼ばれる場所である。
街の本屋や図書館では見かけることもないような希少価値の高い本や珍しい本でも、この図書館には収蔵されているのだ。
(こんなに早く、またここに来られるなんて~!)
ルイゼはすっかり感激していた。
何せ王族の婚約者という立場を失ったルイゼは、今までのように思い立ったら図書館に――という振る舞いは許されないから。
しかしルキウスが許可を取ってくれたおかげで、今日は事前申請なしでもルイゼの入館が許されるそうだ。
入館してすぐ、ルイゼは受付に立っている顔見知りの職員に一言謝っておく。
「すみません。返却する本、また今度持ってきますね」
するとそれを聞いた後ろのルキウスが、どことなく楽しげな様子で口を開いた。
「ルイゼもここに通っていたか」
「もちろんです! だって十年前に、ルキウス殿下と読んだ本は――」
あの魔道具の本は、王立図書館の本だとあなたが言ったから。
だからルキウス本人は居ないと分かっていても、足繁く通った。
王妃教育や勉強の合間に時間を作っては図書館に向かって、そこでたくさんの本を読んだ。
彼はこの本を読んだだろうか。読んだならどんな風に思っただろう。
そんなことを考えて、読書をして、知識を身につけて……それが日々の糧で、唯一の楽しみだったから。
――と呑気に口走ろうとして、ルイゼははっと口を噤んだ。
(……こんなことを本人を前にお伝えするのって、わりと恥ずかしいんじゃないかしら)
「俺が? なに?」
ルイゼの言葉の続きを察してなのか、そう急かすルキウスの口元が気のせいでなければ……緩んでいるような。
ルイゼはごにょごにょと口ごもった。
「え、ええっと……その、たくさん珍しい本があって勉強になるので」
「俺と読んだ本、って言わなかった?」
「い、言ってません」
「ふぅん。そうか」
(お、面白がられている……!)
実際は、ルキウスの表情は隠そうとしても溢れ出る喜びに彩られていたのだったが、動揺するルイゼにそれに気がつく余裕はなかった。
「それじゃあルイゼ。地下に行こう」
(……地下?)
この図書館に、地下室があるという話は聞いたことがないが。
きょとんとするルイゼにルキウスは目配せすると、颯爽と図書館の中を歩き出した。
彼が立ち止まったのは壁際の、あらゆる国の歴史書が収められた本棚の前だった。
ルキウスはその本棚の四段目の、右から三冊目と四冊目の分厚い古書を慣れた手つきで抜き取る。
本がどかされると、壁の中にほんの小さな茶色い凹みがあるのがルイゼにも見て取れた。
そこでルキウスがルイゼを振り返った。
「この凹みを強く押してみてくれ」
「ええっと、こう……ですか?」
言われた通りにとりあえず右手全体で凹みを押してみる。
すると、すぐに変化が起きた。
本棚が置かれた手前の床板が、ガコンッと音を立てて外れたのだ。
びっくりして目を見開くルイゼの前で、ルキウスが屈んで床板を取り外す。
その下に――暗く澱んだ空間が出現していた。
「こんなところに隠し階段があったのですね」
驚きで口元を覆うルイゼに、ルキウスがどこか弾んだ口調で言う。
「驚くのはまだ早い。ついてきてくれ」
「!」
そこで硬直するルイゼ。
というのも唐突に、ルキウスに手を握られたので。
(手。……ルキウス殿下に、手を!)
男の人の力強い腕だ。
初めて握ったというのに懐かしさを感じたのは、たぶんルイゼがとんでもなく混乱しているからだろう。
「ルイゼ?」
ぎこちなく固まるルイゼに、不審そうに呼びかけるルキウス。
ルキウスの瞳には一切の下心は窺えない。暗い地下が危険だから手を貸してくれた、それだけのようだ。
「な、なんでもありません」
なんだか自分だけが意識しているようで恥ずかしい。
狼狽えながらもルイゼは、ルキウスの手をぎゅっと握り返したのだった。
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