渋谷の大学生

加藤ともか

第1話 魔性の女

 チャイムの音が建物内に鳴り響いた。

 俺は慌てて教室へと入った。もう既に講義は始まっている頃、にも関わらず教授はいなかった。これはラッキー。遅刻は免れた。

 しかし、教室をざっと見渡してみると、席に余裕は無かった。科目はドイツ哲学。教養として受講している、俺の専攻分野とは全く畑違いの講義。残念だが受講している奴に仲の良い奴は誰もいない。俺の座る席を確保してくれる奴など誰もいないのだ。

 だから俺は一番後ろの、右端の席に座った。視界は悪く、黒板の字は読みづらい。俺は視力は良い方では無いので、辛いものがある。だが我慢だ。目で見えない分、しっかりと話を聴けば良いのだ。


「遅れてしまってごめんなさいね。ちょっと電話していて。では始めます」

 教授が教室に入り、講義が始まった。

 けれども、俺は講義を集中して聴く事など出来なかった。何せ……隣の女に心を奪われていたのだから。

 何なんだろう、隣の女は。魔性の女、と言う他無い。色白の肌に、夜空の如き漆黒しっこくの髪。妙な色香いろかを全身から漂わせ、時折漏らす声はなまめかしかった。もうその女が隣にいるだけで俺は正気を保てなかった。


 隣の女を意識から消そうと必死になって、けれども出来なくて、息を荒げながらも、何とか九十分をやり過ごした。

 講義の内容は全く頭に入っていなかった。まあ、単位を埋める為だけに受講した科目だ。最低限、レポートを書ける程度には理解しておけば良い。そんなに覚えなくたって良い。

 今日の講義はこれでおしまい。今日はサークルも無いし、バイトも無い。もう大学にいたって仕方ないな。帰ろう、下宿に。桜新町さくらしんまち狭苦せまぐるしいボロアパートに。

 そう思い、席を立ち、教室を出ようとした、その矢先――

「あ、あの……」

 艶めかしい声が、俺の方に聞こえてきた。声のする方を振り向けば……そこにいたのはさっきの隣の女。全身から漂わす猛烈な色香に負けじと、目鼻立ちの整った美しい顔立ちをしていた。さっきは顔ははっきりと見えなかった。それでも俺の心を惹き付けてやまなかったのに、更にこの美しい顔。俺は彼女の事しかもう考えられない程に魅了されていた。

 そんな彼女が、どうして俺に話しかけてきたのだろう。分からない。でも、用が無いなら話しかけない筈だ。

「な……何?」

「息が荒かったですよ。調子が悪かったのですか?」

「い……いえ、そんな事はありませんよ。じゃあ、失礼しますね」

「あの、ちょっと待ってください。ここで会ったのも何かの縁、一緒に昼食でもどうでしょうか?」

 ま、まさ……か? 彼女が僕を昼食に誘ってくるなんて。

 彼女は俺に惚れたのか? もしかして、彼女と付き合える? 勿論、いきなり『付き合って』なんて言うのは気が早い。でも、今から近付いて、距離を縮めていけば、もしかしたら……もしかしたら……。

「はい、喜んで!」

 俺は彼女の願いを快諾かいだくした。


 俺は彼女と共に大学を出て、渋谷駅に至る坂を下る。

 彼女は俺と同じ二年生だった。名前は新井あらい杏樹あんじゅという。埼玉県の越谷こしがやの生まれで、国文学科に属し、実家から通っているらしい。

「アキ君……って呼んで良いかな?」

 坂を下る中、彼女は言った。

「じゃあ、俺は杏ちゃんって呼ぶね」

「杏ちゃん、か。良いね!」

「うん。よろしくね、杏ちゃん」

 アキ君に、杏ちゃん。さながらカップルのような呼び方だった。

 俺と杏ちゃんは坂を下り、開業間もない渋谷ヒカリエに入った。多くの人々で賑わう建物内。二人で入ったのはイタリアンの店。ちょっと高めだ。けれども、値段など気にせずに食べたいものを頼んだ。バイト、今月は多めにやらないとな。

「ねえ、アキ君は史学科のようだけど、もしかして歴史の先生を目指しているのかな?」

 杏ちゃんが聞いてきた。

「ああ。俺、歴史が好きだから、高校生のみんなに歴史の楽しさを伝えたくてね」

「そっか。私も先生を目指しているんだ」

「君は国文だから、国語の先生でしょ?」

「ええ。明治時代の自然主義文学が好きなんだ。アキ君は歴史の中でも、どの辺が好きなの?」

「やっぱり幕末っしょ!」

「そっか。幕末のどんな所が好き?」

「そうだね、やっぱり坂本龍馬に……」

 俺は杏ちゃんとの話に花を咲かせた。杏ちゃんは、俺が興味を持つ幕末の歴史に関して、興味深そうに耳を傾けていた。杏ちゃんの方も、自分の興味のある明治時代の自然主義文学に関して色々と教えてくれた。

 食事が終わると、俺は杏ちゃんと最近流行はやりのアプリ、“LINE”の友達登録をした。

「フフッ、可愛い。アキ君、テディベアが好きなんだね」

 俺のアイコンを見た杏ちゃんが言う。

「可愛いものが好きで悪いか?」

「全然悪くないよ。私、そういう男の人、好きだから」

「す……好き……」

「そっ……そのっ、恋愛感情って意味の“好き”じゃなくて……」

「分かっているよ、それくらい。ありがとう、登録してくれて。じゃあ、食べ終わった事だし、帰ろうか」

 俺がカバンから財布を半分くらい取り出すと、杏ちゃんは「いいよ」と制止した。

「ど、どうして?」

「私がおごるよ」

「だっ……だって……」

「多分、君より私の方が遙かに稼いでいるから」

 俺より遙かに稼いでいる……こんなに綺麗だから、モデルでもしているのだろうか。情けない事に、俺は杏ちゃんに昼食をおごって貰った。支払いが終わったら、ヒカリエのエスカレーターを下り、田園都市でんえんとし線と半蔵門はんぞうもん線の渋谷駅へ行く。

 複雑に入り組んだ地下駅。構内は手狭になっている。来年に始まる東横とうよこ線と副都心ふくとしん線の直通運転に向けて、そこら中で工事をしている。元からそんなに広くないのに、工事の囲いばかりになっているもので、ラッシュ時には歩くのすらやっと位の混み方をする。だから、時間割は極力、ラッシュ時を避けるように組んだ。

 駅から、更にエスカレーターを下ると、田園都市線と半蔵門線のホームへ。二番線に、半蔵門線の東武線に直通する久喜行き急行電車が凄まじい轟音ごうおんとどろかせて入ってきた。

「じゃあね、アキ君。また今度会いましょ」

 彼女の家は越谷だ。丁度、この電車に乗れば家に着くな。

「ああ。またね、杏ちゃん」

 杏ちゃんは久喜行きの急行電車に乗った。俺の住む、桜新町に向かう田園都市線の一番線にも電車は停まっている。けれども、これは急行。桜新町には停まらない。一本見送って、次の各駅停車に乗った。

(杏ちゃん、杏ちゃん、杏ちゃん……)

 電車を待っている時も、電車の中でも、桜新町駅からボロアパートに向かうまでの道でも、ずっとずっと彼女の事を考えていた。


 俺はボロアパートに帰った。築五十年程、ろくにリノベーションもしていない、汚くて臭い部屋。家賃やちんは三万程。この地域では最安値。親から言われたんだ、私立大学に行かせて貰えるだけありがたいと思え、と。だから家賃の安い所に住め、と。妥協に妥協を重ねて、渋谷に近い立地で安くて古くて汚くて臭い部屋に住んだが……遠くても良いから、綺麗きれいな所に住めば良かったな。はっきり言って後悔している。

 そんな俺だが、まず帰ってきてする事と言えば、ズボンとトランクスを脱ぎ捨て、ったを露出させる。その先端にはティッシュを巻き、太くなった竿の部分を思い切り握りしめる。

「杏ちゃん、杏ちゃん……したいよ、セックスしたいよ!」

 あーあ! 最低だ!

 これが男の性か! 男というのは本当にどうしようも無い生き物だな! 惚れた女に対して、まず考える事がこれとはな!

 けれどもこの最低極まりない劣情は『愛』だ『恋』だのと容易に切り離せるものじゃない。所詮は俺達人間も禽獣きんじゅうなのか。劣情に美しいコーティングを被せたものが、『愛』や『恋』なのだろうか。はあっ……全く度し難い。

 室内に腐臭ふしゅう充満じゅうまんする。汚れきったティッシュをゴミ箱に放り込み、俺は天井を見上げて黄昏たそがれた。いつの日か、いつの日か……杏ちゃんとセックスできる日が来れば……来れば……。


 あの日、杏ちゃんと出会って以来、俺は杏ちゃんと着実に交友を進めていった。

 唯一、俺と杏ちゃんが共通で受講している例のドイツ哲学。俺が休んだ日は杏ちゃんにノートを見せて貰い、杏ちゃんが休んだ日には俺がノートを見せてあげた。一緒にレポートのテーマを選び、二人で図書館に行って、互いに見せ合いながら執筆したりもした。

 一緒に美術館や、博物館に行ったりもした。俺も杏ちゃんも、歴史や文学に造詣ぞうけいの深い文化系青年だ。美術館の絵画や彫刻、博物館の展示品などを見て、感想を言い合った。

 二年生の終わり頃には俺も杏ちゃんも二十歳になり、一緒に酒を飲むまでの仲になった。一月のある日、俺と杏ちゃんは二人で渋谷の居酒屋で遅くまで飲んだ。

「あっ、もうこんな時間だ。時刻表……ヤバい! もう間に合わない!」

 杏ちゃんは慌てていた。

「も、もしかして終電?」

「そう……。東武線に直通する電車はもう無い。困ったな、帰れないよ」

「俺の方は……田園都市線はまだギリギリ……。ねえ杏ちゃん、俺の部屋に泊まって行かない?」

「いっ、良いの?」

「構わないよ。ボロボロの汚いアパートで、床に直接座るのでも良ければだけど」

「全然大丈夫。ありがとう」

 俺と杏ちゃんは二人で田園都市線に乗って桜新町まで行き、俺の住むボロアパートに入った。

「シャワーと歯磨きは明日すりゃ良いから。じゃ、お休み」

 帰ったらすぐ、俺はベッドに入った。杏ちゃんは床に寝そべった。

「お休み。優しいね、アキ君」

「ど、どうして?」

「先輩から聞いたんだ。泊める代わりにセックスを要求してくる奴がいるって。でも、君は要求してこないから安心だよ」

「そ、そうか……」

 考えてもいなかった。そうか、これは絶好のチャンスだったのか。杏ちゃんとセックスする!

 けれども、その絶好のチャンスを俺は逃した! 言えばさせて貰える状況だったのに! 俺はセックスを要求してこない、と言うのが彼女によって既成事実化されてしまった以上、もう要求できやしない。

 ああっ、したい! セックスしたい! 杏ちゃんとセックスがしたいんだ! このやり場の無い思いはどこにぶつければ良いんだ!

 俺は妄執もうしゅうに囚われた。杏ちゃんとセックスしたいという、単純で馬鹿馬鹿しい感情に。行き場も無い。やり場も無い。どうすれば良いんだ、俺!

 そんな風に思いながら、俺は眠れぬ夜を過ごした。

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