クソみたいな世界

yaasan

第1話 クソみたいな世界

 クソみたいな世界だった。

 そして、クソみたいな家だった。


 クソみたいな世界だからクソみたいな家になったのか、クソみたいな家で育ったからクソみたいな世界になったのか……。

 ぼくには分からない。もっとも、イモリとヤモリがどう違うのかと同じようにそれはどちらでもよい類いの話なのかもしれなかった。


 夏の暑い日、ぼくが高校から帰ってくるとクソみたいな家で父親が首を吊っていた。遠目からだと父親の体は前後に小さく揺れていて、まるでロープにぶら下がって遊んでいるかのように見えた。


 ワイシャツの下に着ていたTシャツが汗に濡れて肌に貼り付いている。父親が首を吊る姿よりも、汗で濡れたTシャツが肌に貼り付く感覚。それの方がぼくに不快感を与えていた。


 ぼくは首を吊っている父親に近づくと、宙に浮いている父親の両足を持って五分間ほど力の限り引っ張ってみた。

 何かの拍子で生き返っては困ると思ったのだ。


 クソみたいな父親だった。酒とギャンブルだけが生きがいだった。同じようにクソみたいな母親は、とっくの昔に若い男と一緒にクソみたいな父親とクソみたいな家から逃げ出していた。


 クソみたいな父親からも、クソみたいな母親からも子供の頃からぼくはよく殴られた。特に父親からは酔っ払うと頻繁に殴られたものだった。ただその暴力もぼくが中学二年の時に父親を殴り返してからはなくなっていた。

 そのことだけを切り取ってみても、本当にクソみたいな父親だと思う。


 五分間ほど全力で父親の足を引っ張っていたので、ぼくは汗だくになっていた。エアコンなどは、もちろんこのクソみたいな家にはない。ぼくは荒い息を吐きながらキッチンに行って、頭から水を被ってみた。

 分かってはいたが、生暖かい水が出てくるだけで清涼感には程遠い。


 さて、どうしたものかとぼくは思った。正解は救急車や警察を呼ぶことなのだろうが、今すぐには煩わしかった。髪の毛から滴る水を手の甲で拭いながら、ぼくはキッチンの床に座り込んだ。


 これからぼくはどうなるのだろうか。

 クソみたいな父親は死に、同じくクソみたいな母親は行方知れず。そんなクソの子供であるぼくを引き取る親戚などいるはずもない。親戚とはいってもこのクソみたいな一家には、もはや誰も関わり合いになりたくないはずだった。


 両親に代わってぼくの面倒をみてくれる者がいないとなれば、ぼくの施設送りは決定事項となるようだった。


 そこまで考えてぼくは少しだけ溜息をついた。

 まあいいさと思う。高校を卒業するまであと一年半。大して長い時間ではない。高校を卒業したら寮付きの工場などでクソみたいな仕事をすればいいのだ。

そう考えると自分の人生は今までも、そしてこれから先もクソみたいだと心の底から本当にぼくはそう思った。


 ぼくの周りにはクソ以外に何もないようだった。それが嫌で他のどこかに手を伸ばすのだが、結局はクソにぶつかってしまう。


「くそっ」


 ぼくは両手で濡れた頭を掻き回した。目尻に力を込めた。そうしなければ、望みもしないのに涙がこぼれてしまう気がした。


 本当にどうしようもない父親だった。駄目人間の見本になれそうな父親だった。酒とギャンブルと借金。そして酔って子供をぶん殴る。それだけで構成されているかのような人間だった。


死んだ後でさえも生き返らないようにと、首を吊った後で自分の子供に両足を引っ張られてしまうような父親だった。


 ……だけど、少しだけ悲しかった。

 ……そう。ほんの少しだけぼくは悲しかったのだ。





 時刻は二十三時。ぼくが通う高校の校舎に人気はなかった。月明かりに照らされた校庭を横切って、ぼくは昇降口に向かった。考えてみれば当たり前なのだが、昇降口の扉は閉じられていた。


 いつも当たり前に開いていた物が閉じられているのを見ると、何故か居心地の悪さを感じるのが不思議だった。


 夜中に高校へ来たことなどはなかったので考えもしなかったが、そもそも夜に戸締りがされているのは至極当然な話だ。


 困ったなとぼくは思う。特に目的があって高校の校舎へ来たわけではなかったのだが、他に行く所が思いつかなかったのだ。

 何よりもあの家で父親の死体と一緒に、ひと晩を過ごすのが微妙な話だと思ったのだった。


 中に入れず困ったと思っていると、隣の教室のカーテンが外に出て揺れていることに気がついた。

 その窓に近づくと、やはり窓が開け放たれている。ぼくは土足のままで窓を乗り越えた。月明かりだけに照らされている薄暗く静まり返った教室。それは限りなく気味が悪いものだということをぼくは初めて知った。


 薄暗くて教室の隅まで視界が届かない。その視界が届かない先には何か得体の知れないものでも潜んでいる気がしてくる。


 首を吊っていた父親の死体には何ら恐怖めいたものは感じなかった。ぼくが感じたものはその後始末の面倒臭さだけだった。それなのに夜の教室では恐怖を感じる。不思議な話だなとぼくは思う。


 校舎内に入れたのはよかったのだったが、特にやるべきことも思いつかずに取りあえずぼくは二階にある自分の教室へ向かうことにした。

 夜の校舎内は静かで扉を開け閉めする音、廊下を歩く音。

 何もかもが薄気味悪いぐらいに響き渡ることをぼくは初めて知った。


 廊下を曲がった時、視線の先に黒く長い物があった気がした。一瞬、驚いてぼくは足を止めた。それに何かの匂いが微かにする。耳を澄まし、目を凝らして見たがそこには何もないし、何の気配もない。恐怖心からくる勘違いだったのだろうか。


 子供じゃあるまいし。

 ぼくはそう思って一人で苦笑して見せた。


 廊下を曲がってさらに階段を登り、ぼくは二階にある自分の教室へと入った。そして、自分の席に座る。クソみたいな父親のことを明日には流石に警察に通報しなければならないだろうとぼくは考える。


 通報した後に訪れるのであろう様々な面倒なことを考えると、どうにも気が重くなる。


 ここでぼくは気がついたことがあった。もしかすると、この高校に来るのもこれが最後になるかもしれない。どこの施設に送られるかは知らないが、そのままこの高校に通える理屈などどこにもないのだ。


 しかし、それも別に大した問題ではないことにぼくは思い至る。友達などはこの高校にいはしないのだ。一か月もすれば生徒も先生も、ぼくがいたことなど容易く忘れ去ってしまうのだろう。


 ぼくは溜息を少しだけつくと、教室にある自分の席から立ち上がった。一瞬、教室に残っている私物を片付けようと思ったのだが、すぐにそれが馬鹿らしくなった。ぼくが残した私物などは誰かが適当に処分するのだろう。別に今ここでぼくが片づける必要もない。

 

 そうしてぼくは屋上へと足を向けたのだった。





 校舎の屋上は少しだけ風が吹いていた。昼間はあれだけ蒸し暑かったのに、夜風は涼しくて心地よかった。父親が首を吊った理由などに興味はなかったが、蒸し暑かったことも理由の一つなのかもしれない。ぼくはそんなことを思っていた。

 

 屋上で腰を下ろすとぼくは自分の背を壁に預けた。片足を立ててその膝の上に片腕を載せる。その姿勢で改めて屋上を見渡すと、僅かな月明かりに照らされた屋上は薄気味悪くてそれでいて神秘的でもあった。


 クソみたいな世界だと再びぼくは思う。クソみたいな父親、クソみたいな母親、クソみたいな高校、クソみたいな生徒……。


 クソみたいな世界。これは呪いの言葉なのだろうか。思えば思うほどクソみたいな世界になるのだろうか。

 だからぼくの周りにはクソしかないのだろうか。きっとそのクソの中心にぼくはいるのだろうと思った。


 いや、違うな。ぼくがクソなのか。だからぼくの周りにはクソしかないのか。

 どちらにしても、そこには絶望しかないようだった。ぼくは目尻に力を込めた。こんなことで涙などを流したくはなかった。


「誰だ、お前?」


 不意に右手の暗闇から声をかけられた。時間は二十三時を過ぎている。校舎内に誰かいるとは思っていなかったので流石に驚く。

 暗闇の黒い影が月明かりに照らされ、ぼくに近づくにつれて段々とそれが明瞭になってくる。


 ……体育教師の田中か?

 ぼくは慌てて立ち上がった。


「……お前、二年の……こんな所で何をしてる? お前、見てたのか!」


 そんなことを喚きながら、怒りの表情で体育教師が近づいてくる。しかも、下半身のズボンと下着が膝上まで下がっている。暗がりの中でよくは見えないが、男の大事な物が滑稽さを醸し出しながらぶらぶらと揺れていた。

 ぼくは目の前の状況を頭の中で処理仕切れずにいた。


「い、いえ……」


 ぼくは不明瞭な言葉を言いながら反射的に両手を前に突き出した。下半身丸出しとなりながら怒りの表情で迫って来る体育教師を押し留めようとしたのだった。


 体育教師はぼくの両手を邪魔だと言わんばかりに片手で強く払うと、両手でぼくの胸元を掴んで持ち上げた。胸元で持ち上げられたぼくはつま先立ちとなり次の瞬間、後ろへと突き飛ばされた。


 後頭部に衝撃があり、その反動で首が頭ごともの凄い角度で前方に曲がった気がした……。





 気がつくとぼくは病院のベッドに寝かされていた。後頭部と首に強い痛みがあった。後に警察から聞いた話だが、あれから大騒ぎとなったらしい。


 校舎の屋上で生徒が頭から血を流して倒れており、校舎の下では屋上から身を投げたらしい体育教師の死体。

 さらに屋上で倒れていた生徒の家からは、その父親の自殺死体……。

 当事者のぼくが聞いただけでも何が何だかわからないような話だ。


 結局、警察はぼくの証言から、誤ってぼくに怪我を負わせた体育教師が発作的に自殺。ぼくの父親の死は単なる自殺であって、高校での一件とは何の関連もないと結論づけたようだった。


 首を吊っている父親を放置したことや、遅い時間に高校に行ったこと。それらをこと細かに警察から事情を訊かれたのだったが、辻褄が合うようぼくは適当に答えた。


 最後にぼくは警察から身を投げた体育教師のズボンと下着が膝の上まで下げられていたが、襲われ時はどうだったのかと問われた。ぼくは知らないと答えた。


 これ以上の質問に答えるのが面倒だったし、体育教師が下半身を露出して死のうが、死ぬ前に彼の下半身が露出していたかどうかなど、どれもこれもがぼくには関係のない話だった。


 やれやれだなとぼくは思う。何だかよくわからないまま、体育教師に襲われて頭に怪我をした。とてつもない災難だなとぼくは思う。


 しかも下半身丸出しの体育教師によって。言葉ヅラだけを見ると笑えてくるのだが、襲われた当事者としては笑えない。でも、一方でその事実に少しだけ興味はあった。


 そもそも、あんな時間にあの体育教師は屋上で何をしていたのだろうか。しかも下半身を露出して。普通に考えれば、特殊な性癖でもあったのだろうといったところなのか。


 傷口がズキズキと痛む頭を持て余しながら、ぼくがそう考えていた時だった。ベッドの脇に立つ影があることにぼくは気がついた。


 視線を向けると、所在なさげに女子生徒が立っている。

 ……確か同じクラスの……。


「災難だったわね。はい、これ学校から渡されたやつ」


 ぼくが顔を向けると彼女は特に挨拶などをするわけでもなく、感情が全くこもっていない声でそう言う。そしてクリアファイルに入れられた数枚のプリントらしきものをぼくに差し出した。

 ぼくは反射的にそのクリアファイルを受け取った。


 ぼくの記憶だと彼女はクラスで決して目立つタイプの生徒ではなかったし、容姿にしても特に目を引くタイプでもなくて、いたって普通の生徒だった。ただ一つ特徴をあげるとすれば、黒眼がちの瞳が印象的な女子高生だった。


「……大丈夫なの?」


 彼女はそうぼくに声をかけた。心配しているといった感じではなくて、話すことが見つからないから仕方なくただ訊いただけといった様子だった。


「まだ痛むけど、まあ、大丈夫だな」

「そう。大きな怪我じゃなくてよかったわね。お大事に。用もあるし、私はもう帰るわね」


 彼女は素っ気なくそう言って踵を返した。自然とぼくは踵を返した彼女の後頭部に目を向けた。ぼくの中で嫌な胸騒ぎが起こる。

 それに先程から感じていたこの微かに香る匂いは……。


「なあ……」


 ぼくは彼女に声をかけた。彼女が足を止めて振り返る。


「その頭のお団子、下ろすとかなり髪が長くなるのか?」


 彼女は意味が分からないと言った感じで訝しげな顔をする。


「……そうね。かなり長いわよ」

「学校以外では髪を下ろしたりするのか?」

「学校では邪魔になるから、こうしてまとめているだけよ。普段は下ろしていることの方が多いわね」

「そっか……」


 感情がこもっていない彼女の声を聞いていると、更に強い胸騒ぎがしてくる。

ぼくは今、どのような顔をしているのだろうか。彼女と同じで感情がこもっていない表情を浮かべているのか。それとも驚愕の表情を浮かべているのか。


 彼女はそんなぼくを見て、少しだけ微笑んだ。嫌な笑い方だとぼくは直感的に思う。


「……学校を辞めるって噂だけど、本当なの?」

「……まあ、色々あったしな。そうなるんじゃないかな」


 少し声が掠れていたかもしれない。


「ふうん……」


 彼女はそう言って少しだけ考える素振りを見せた。


「一つ、面白い話をしてあげようか……」


 彼女はそう前置きをして、ゆっくりと感情のない声で話し始めた。


 ……一人の女の子は暇を持て余して、学校の先生と付き合い始めました。女の子にとってそれは暇つぶしでしかなかったのに、女の子の思いに反してその先生は本気になってしまいました。


 夜に呼び出されるのもいい加減面倒だなと女の子が思っていた頃、間抜けな格好で屋上に佇む先生がいました。


 さっきまで鼻息を荒げた先生に咥えさせられていたことや、これまでのことに女の子は急に怒りを覚えました。


 そして女の子はその先生の背中を優しく、そっと押してあげました。


 彼女はそう言い終えると、感情のない顔でぼくを見つめた。

 ……嫌な顔だった。


 そう。ぼくは思い出す。子供の頃、ぼくを殴る前に父親も母親もよくこんな顔をしていた。


「……あの時、廊下で見かけたのはお前だったのか?」


 彼女は小首を傾げて見せた。彼女の印象的な黒目がちな瞳が嫌な光を湛えているような気がする。


「さあ、何のことかしら? 今の話は冗談よ。面白い話って言ったでしょう。忘れなさい」


 彼女はそう言って振り返らずに、唖然とするぼくを残してその場を後にした。


 ……忘れなさい。

 

 彼女の言葉が繰り返し頭の中で響いている。


 ……何を?


 彼女が去って行った後も、彼女が浮かべたあの嫌な顔が脳裏から離れていかない。粘つくゴミのようにそれはぼくの脳裏に貼りついていた。


そしてあの嫌な彼女の顔が、ぼくを殴り続けた父親や母親の顔と重なっていく……。


 ……クソみたいな世界だ。


 ぼくは一人、そう呟いた。

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