第二十二節 疾走(はし)れ
無限樹、それは世界の全てを知り、世界を支える柱。そして、世界を不条理な契約から解放する唯一の鍵。その鍵を機能させるために、ゾアの力が必要となる。そういう樹のはずだった。
だが、仁の背後で勝ち誇るホワイトライダーは、決して叶わぬことだと言った。事実、いくら架純が無限樹に風を送り込んでも、ただ緑に光るのみで何も起こらない。果実が見せる外の世界は、何の変化も見せない。
「逃避するでない。冷静になれ、風のゾアよ」
ホワイトライダーは架純の頬を掠めるように矢を射る。血は緩やかに頬を下りる。
「考えれば道理とは思わぬか?我が主たる混沌が世界の主導権を握っているのだ。ならば、『どのゾアがいつ生まれるか』この因果律を操れて当然だろう」
日向の説明を聞いた時、なぜ気づかなかったのだろう。神との契約で、混沌は世界の所有権を得た。神は世界を創りはしたが、主導権はあくまで混沌にある。いわば、神は木材を用意したが、それを用いて何を作るかは混沌次第なのだ。
この盲点に悟り、架純は青ざめた。仁も、事態の取り返しのつかなさに吐き気を催しそうになり、全てが悪い夢であることを祈るように叫ぶ。痛みが現実を突きつけることなど、とっくに知っていながら。
「卑怯だろ!何なんだよそれ!四人も必要なんて普通思わねぇよ!しかも生まれる時代を操れるって、出来レースもいいところじゃねぇか!」
つがえた矢は仁の首の皮を切った。
「騒ぐな」
いつでも貫けただろう。何故そうしなかったのかはさておき、仁はその矢が虚空の地面に刺さる音を聞いて、逃げようもない真実と認めざるを得なかった。
「実際、我も少し不満に感じているのだ。四人まとめて相手したいのだが、愚かな同胞も主たる混沌も聞き入れてくれなくてな」
楽しんでいるのか?殺すことを。仁の青筋が立つ。こっちは絶望一色だというのに、外の世界にいる皆だって苦悶しているというのに、一般人だって誰かを責めなくては正気を保てないほど不安を抱えているというのに、こいつはゲームの経験値を稼げなくて不満を垂れているのか?
「ふざけるな…」
腸が煮えくり返る。敵わないとか無力とか、もう理屈なんてどうでもよかった。ただ、後ろで偉そうに構えている化け物を思いきり殴りたかった。
仁は咄嗟に立ち上がり、歯を食い縛り、背後に右ストレートを放った。だが、天馬の顔面に弾かれ、がら空きの懐を矢が貫いた。
「力無き勇気は所詮、蛮勇に過ぎんのだ」
途切れかける意識が最後に聞いたのは、ホワイトライダーの憐憫であった。目先が霞む。嫌だ。死にたくない。まだ、何もできていないのに。こんな悔しいまま終われない。
「そうだ、終わりじゃない」
突然、仁の内側から声がした。潜在意識の世界で、仁はその顔を見た。
「澪士…」
「また会えたね、仁君」
相変わらず柔和な表情を見せる澪士に、不思議と安心感を覚える。
「どうやら、君が命の瀬戸際に立つことが僕の目覚める条件らしい」
穏やかにえげつない推測を告げられ、仁は苦笑するしかなかった。
「時間はそう無い。悪いけど、手短に話させてもらうよ」
真剣な眼差しで仁を捉え直す。その瞳の力強さに、仁は固唾を呑んだ。
「君は…世界と好きな人を、天秤にかけられるかい?」
仁はたじろいだ。多分、そういうことなんだろう。仁の中に嫌な確信があった。
「世界を守るために、架純を犠牲か何かにしなきゃいけねぇって言いたいのか」
「そうだ」
迷い無く返事される。的中してほしくなかった予想。
普通なら、完全に『詰み』なのだ。それをねじ曲げようとすれば、その揺らぎはどこかしらで生じる。そして、きっと割を食うのは、最も世界の存亡に関わる無限樹と、ゾア──架純だ。単純な憶測である。しかし、他に考えられないほどの道理。
仁の全神経が嘔吐を促す。世界を守るために架純を差し出せ。言い換えれば、自分の選択が架純の生死を決めるのだ。
いや、選択じゃない。一択だ。世界のために、お前が架純を殺せということだ。
「何で…そんな残酷なことが言えるんだよ…!そもそも、具体的にどうするっていうんだよ…!」
震える仁の腕に触れ、澪士は事細かに説明した。
「今、世界は混沌によって消されようとしている。これは表面的な破壊だけの話じゃない。破壊を通して、無限樹を侵しているんだ。彼らはここに入れなかっただけで、もう気づいている。無限樹を枯らせば、世界は滅びる。停滞の罰はそうすればいいと。無限樹が枯れないようにするには、ゾアが揃うまでずっと、絶えず、全力で、養分を注がなくちゃならない。つまりだ、」
「わかったよ!…架純をここに閉じ込めろって言うんだろ?」
仁は身を震わせ、涙を堪えて言った。しかし、溢れ出た感情が仁に、澪士の胸ぐらを掴ませた。
「ふざけんな!架純だって歳は取るんだぞ!」
「ここでの時間の流れは無に等しい」
「同じ時代にゾアは揃わねぇ!永遠にやれってか!」
「隠れ蓑にはなる」
「じゃあゾアを見つけ次第幽閉するのか!そいつの人生にどう責任持つんだよ!」
「…本当にすまない」
「架純に言え!俺じゃなくて!」
荒い呼吸をする。肺に息は溜まらず、ただ、空気が出入りを繰り返すだけだった。
「…休むのも許されねぇのか」
「もう、それを許せる段階じゃないんだ。無限樹はもう、渇くことを許されない」
どうにかなりそうだった。強いられている。世界のために、大好きな幼馴染を閉じ込めなくてはならないのだ。こんな暗い場所に。いつ終わるともわからない『労働』を課さねばならないのだ。
「こんな秩序があって、たまるかよ…」
やり場の無い怒りは、落涙を伴って表れた。
「あいつ、ダンスが好きなんだ。音楽にノってさ。あいつ、メチャクチャ上手いんだぜ?ゲーセンのやつなんかさ、全部満点取りやがるんだ。世界中旅して踊りたいって、言っていたんだ。絶対、みんな喜ぶ。拍手喝采だよ。なのに、一回折れて、やっと持った夢なのに、また折られなきゃなんないのか…?どいつもこいつも、あいつが何したっていうんだよ…」
膝から崩れ落ちる。今までつらい思いをしてきた奴が、どうして報われないんだ。そんな奴に会って話したり、労ったり、外の世界に連れて行くことも許されないのか。
やらなければならないなんて、わかりきっている。しかしあんまりだろう、この代償は。
「…僕はここまでのようだ」
申し訳なさそうに、消えかかる澪士は仁に話しかける。
「君の傷は、多少マシにはなったはずだよ。日向の力が微かに、君のものになったから」
仁の頭上から光が差し込む。光は仁を現実に引き寄せていく。潜在意識の世界から去る寸前、澪士に言われた。
「勝手な物言いだけど、これは君の人生だ。思うように選べばいい。…ごめんね、背負わせてしまって」
やめてくれ。ズルいじゃないか。そんな風に言うのは。わかっている。澪士が冷淡に『世界を取れ』と言いたいわけじゃないのは。でもそう言われたら、思うようにしたらもう、一つしか選べないじゃないか。
仁の頬を一筋の涙が伝う。目を覚ますと、暗闇が広がっていた。射貫かれた懐は傷口が塞がっていた。
「ジュンちゃん!」
架純の声が聞こえてきた。果実が映す外の世界の光景が目に入る。疲弊した皆が達成感を噛みしめている。女神は倒されたらしい。ほんの少しの安堵に包まれる。
「軟弱な造物め」
ホワイトライダーは不満をこぼすと、仁の首を掴んで絞め上げた。
「おい、貴様。扉を開けよ」
「断ったら…?」
「殺す」
気迫が仁の本能に教える。一瞬でも迷えば即死。そうなれば、全てが無駄になる。仁は扉を開けざるを得なかった。仁を投げ捨て、すかさずホワイトライダーは外の世界へ駆け出した。
仁は首を押さえて咳き込む。架純が傍に寄り、背中をさする。
「大丈夫!?」
「何とか…」
映像が見える。案の定、ホワイトライダーは仲間達を蹂躙している。止めなければ。
「ジュンちゃん、私達も行こう!」
しかし、
「ダメだ」
「何で?行かなきゃ皆死んじゃうよ!無限樹だって、もう意味が…」
「ダメなんだよ!」
仁は叫んだ。行けば無限樹が枯れて、世界が滅びる。お前がずっと風を送り続けなくちゃいけないんだよ。いつ揃うともわからないゾアを見つけるまで、ずっと。
言えよ、志藤仁。そう伝えろよ。ダメだけでわかるわけないだろ。お前が苦しんでどうするんだよ。一番苦しくてつらいのは架純なのに。
無性に涙がこぼれ落ちる。泣いてばっかだな、今日は。そんなことを思い、気を紛らわせようと努める。言わなければならないことを、言えるようにするために。けれど、喉が詰まる一方だった。
俯く仁を、架純は抱きしめた。春風のような温もり。懐かしい匂い。触覚。もう、二度と会えない感覚を、目一杯感じた。
「言って?ジュンちゃん。そんな顔、見たくない」
深呼吸をし、仁は言った。
「…架純がここから離れたら、あの樹は枯れる。世界が滅んじまう。そうしないためには、お前が全力で、声も聞こえないくらい全力で、風を送らなきゃいけないんだ。ゾアが揃うまで…ずっと」
多分、架純からすれば唐突な話だろう。なぜ仁がそんなことを知っているのか。だが、架純は問わなかった。代わりに、架純は突然リズムを刻み、ステップを踏み始めた。
戸惑う仁に、架純は手を差し出す。
「踊ろうよ、ジュンちゃん」
こんな非常時に何を、なんて、止めたくなかった。二度とできないかもしれない。大好きな人がしたい大好きなことを、仁は妨げたくなかった。
華麗に舞う架純を横目に、仁は拙いながらも踊った。久しく見なかった、活き活きとした顔を見て、万感の想いが込み上がった。
世界なんてどうでもいい。そう思いたかった。架純といられるなら、滅んでも構わない。独りよがりでいたかった。でも、外では皆が命を懸けて戦っている。架純も顔も知らない人のために戦っている。それを踏みにじることの方が、何よりもつらかった。
足が縺れ、転ぶ。尻餅をついた仁の手を引っ張り、架純は笑った。
「下手だね」
「うるせぇ」
暗闇に二人の笑いが響く。声を絶やしたくなかった。音が無くなれば、苦しくなるのはわかっていたから。
「あー、楽しかった」
架純は伸びをし、満足げに言った。
「皆には何て言おうかな」
いきなり尋ねてくる。仁は答えあぐねた。
「だってずっとだもんね。カッコいいメッセージじゃなきゃなぁ」
架純はわざとらしく考え込む。しかしすぐにやめ、
「旅に出た、とかにしよっか。ダンスの修行に出た、的な」
と、明るい声音で話した。
「じゃあジュンちゃん、そろそろ行っていいよ。私、やることやっとくから。皆なら大丈夫でしょ。強いもん。だから私も大丈夫。私はゾア、最強のレシーバーズだもん」
「なら泣くなよ!」
仁は架純を抱き寄せた。踊っている時からずっと大粒の涙をこぼしていた彼女の肩は、小刻みに震えていた。腕の中に寄せて改めてわかる。華奢な身体だ。こんな身体で、今までずっと戦ってきたんだ。
「ごめん、やっぱ…無理」
バックドラフト現象。溜め込んだ炎が、急に入り込む風によって一気に爆発する現象。まさに、バックドラフトのように、架純は大声で泣き出した。こんな架純を見たのは、弱い自分を堪えなかったのは、小学生以来だ。
「ごめんな…俺が弱いばっかりに」
架純は全力で首を横に振る。
「ジュンちゃんは強いよ。最強だよ。だって、私のヒーローはずっと、ジュンちゃんだけだもん」
更に強く抱く。この女性を永遠に忘れないように。
「…俺、絶対集めるから。お前のこと、迎えに行くから」
胸の中で、架純は何度も何度も頷く。
「私、待ってるから。手、伸ばして待ってるから」
想いをぶつけ合い、二人は手だけ触れ合ったまま、身体を離した。架純を目に焼きつけて、仁は最後の言葉を告げた。
「またな、架純」
架純は微笑み、
「ダンス、上手くならなきゃね」
と返した。
「ああ」
「…大好きだよ、仁」
「…俺もだ、架純」
二人は唇を重ねた。いつの日か、また同じことができるように。そう祈りを込めて。
扉が開かれる。仁は振り向き、その場に立ち止まる。外の景色が見える。行けば、もう架純には会えない。背中から声がした。
「疾走(はし)れ、仁──」
仁は大地を蹴り、疾走(はし)った。
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