第二十節 一人は皆のために、皆は一人のために
ホワイトライダーは武者震いした。メシアと呼ばれたその男に会って以来、久方ぶりに心が打ち震えた。
風のゾア・ミストゲイルが倒れた時、永劫動かぬと思われた胸中をざわめかせた風は止んでしまったかと悲嘆しかけた。故に煽り立てた。それでも倒れ伏したままだから、茶々を入れられたものだから、再び大理石のごとく冷淡な心持ちに戻りかけた。
その矢先、ミストゲイルの仲間達が眼前に現れたのだ。どこまでも楽しませてくれる。ホワイトライダーの興奮は全身を流れる血の全てを沸騰させんばかりの勢いであった。
「貴様等は越えられるかな?我が試練を!」
ホワイトライダーは天馬を駆り、電光石火の素早さで、三人が同直線上に入る位置まで移動した。そして、組み直した弓に爪の矢をつがえる。
矢が放たれ、ビリヤードよろしく三人とも餌食となる寸前だった。緋色の鞘から抜かれた剣の一閃が、まるで先読みでもしていたかのように、矢を二つに割った。なるほど。
「鼻が利くな」
「専売特許でな」
再び、剣が鞘に納められる。先程もそうだった。直前まで剥き出しにしていたはずの剣を、ホワイトライダーの速度を確認するや否や居合に切り替えた。匂いで強さがわかる、といったところか。
動物型レシーバーズはこれが持ち味だ。人型のような超常は得られないが、元より授かりし力が鋭敏となる。それこそ超常に勝るとも劣らぬほど。
「ならば、こちらも同じ利を得るとしよう」
すると、ホワイトライダーの下半身が天馬と融合し始めた。神話の獣、ケンタウロスと同じ格好。だが、溢れる気品は野生の象徴と呼ぶには程遠く、むしろパラスアテナを凌駕しかねないほどの理性を感じさせるものだった。
理知によって高められた野生の本能を手中に収めたホワイトライダーは、弓を構えて星牙に言った。
「銀狼、我と戦え」
星牙は鼻を鳴らし、口角を上げた。
「端からそのつもりだ」
精一杯張られた弦のような空気が漂う。刹那の間の後、二つの力が衝突する。
その間、皐姫と遊月は作戦に打って出た。星牙がホワイトライダーを惹きつけている間、上空の女神を引きずり下ろそうというのだ。
「しかし、どのようにいたせば…糸は届きませんし…」
「届くとこまで来てもらおうぜ」
紫の瞳が光る。この光は見た者の情報を知るばかりではない。コア、つまり生命力を抑制する光である。女神が生物と理解した遊月は、この力を用いて浮遊高度を下げようという寸法なのだ。狩人が銃をもって鳥を墜とすように。
目論見は的中以上。コアの塊とも言える女神には効果覿面だった。空を覆い尽くしていた女神はまさに、飛ぶ鳥を落とす勢いで地面へ接近してきた。それを皐姫が糸で捕まえる。
だが、事は一筋縄ではいかない。いくらその力が減衰したといえど、女神は何百ものレシーバーズのコアを練り上げた獣である。すかさず抵抗を始め、浮き上がり出した。皐姫の足もつられそうになる。
遊月が彼女の腰を掴み、宙に舞わないよう引っ張る。
「ありがとうございます」
「お礼言っている場合じゃ、ないかもだぜ…!」
そう唸る遊月の足は踏ん張ることに死力を尽くし、震えていた。手が足りない。
「架純!死ぬな、架純!」
仁はうつ伏せになったまま目を覚まさず、息もしない架純を揺すり続けた。周りに広がる世界から切り離されていた仁を引き戻したのは、遊月の叫びだった。
「おい、志藤!お前手伝え!」
耳に響く声の先を見ると、分厚く織られた糸の束が、女神を縛り上げていた。その先端で、皐姫と遊月が浮きそうな身体で踏ん張り、身体の側へ糸を手繰り寄せようとしていた。
「悪い、架純」
仁は呟き、すかさずその場から飛び出した。そして、勢いよく遊月の腰を掴んで引っ張った。ただのレシーバーズですらない仁では微力とも言えないかもしれない。だが、何もさせないよりは、何もしないよりは、お互い納得がいった。
とはいえ、現実は現実だ。もっと力を。街を焼かせないだけの力を。
その時だった。仁の腰を囲む両腕が現れた。仁よりも遥かに強いその腕は透き通る灰色で、内部を電気が巡っていた。
「田宮!」
傷だらけのレシーバーズは咳き込みつつ、気丈な声を上げた。
「あんなワケわからない奴の好きにさせちゃダメだ、気合い入れるよ!」
思い通りに振りほどけず怒ったのか、女神はヘソや脇から生えた獣の口から、炎と電撃を下の四人めがけて吐き出した。襲撃も相まって、糸を引っ張る力は弱まる一途であった。
「このままじゃ…」
「折れんな、志藤!諦めて見える未来なんか何もねぇぞ!」
腰を掴む手が徐々に緩む。焦げ臭い空気が気管を刺激する。
「架純様が紡いだ一縷の望み、ほどく訳には参りません!」
仁を掴む手が強くなる。耳元で息の動きを感じた。吸い込む時の空気の流れだ。
「偉そうにランク付けしたり、持ってる持ってないって吠えた結果がこれか!情けないとは思わないのか、あんた達!こんな時こそ、お高くとまった奴等が頑張るべきじゃないのか!」
激しい咳と共に、血の臭いが漂う。手は力を入れようとしすぎて震えが止まらず、変貌を保つことすらままない状態だった。
「もうやめろ、田宮…!」
「あんた達が持っているっていうんなら、自分と向き合う強さがあるっていうんなら、今戦ってみなよ!それが、授かった意味だろう!」
奏雨は咆哮の末、遂に仁の腰から手を離してしまった。倒れ込む音を聞き、仁は胸が裂かれる思いだった。自分がレシーバーズとしてしっかり目覚めていれば。繭なんかでなければ。
堪えきれずこぼしかけた涙が退いたのは、仁の腰を掴む手が再び現れたからである。
「言われなくても…そうするさ…!」
黒く焦げた腕の主は、ふらつく脚を深く曲げて仁を引っ張った。
「その声…礼閃か!」
お前だったのか。百獣村で襲ってきたのは。
「奇妙な縁だよ、仁君…二回目の会話がまさか、世界の瀬戸際だなんてね…」
苦しそうな息づかいは、仁の胸をさらに絞めつける。
「面の皮、厚いだろう…?今さら、君達の力になろうとするなんて…」
「…どうでもいいよ。そんなこと」
初めてまともに会話した日、ミストゲイルを光と呼んだ零の顔に、嘘は何一つ無かった。そこに至るまでのことを考えると、何も知らない仁に零をとやかく言う権利は無いことぐらい理解できた。
だから、どうでもいい。奏雨の叫びに応えてくれた。手を届けてくれた。それがお前の答えなら、それでいいじゃないか。
「恋敵に許されたよ」
零の呟いた言葉は、仁には聞こえなかった。目の前の出来事に全てを注ぐ仁の背中に、零は微笑んだ。
女神の巨躯は再び、徐々に糸の端という原点へ収束し始めた。
「あと少しだ!」
そう後ろに呼びかけ、前を凝視し続ける遊月の瞳に向かって、女神は目に見えぬほど矮小な棘を飛ばした。この棘が眼光を奪えば、二度と女神を地面に下ろすことはできない。
露知らぬ恐怖が遊月を呑み込む瞬間、時は呼吸を止められた。
「こんなに目を見開いておいて気づかないなんてね」
誰に向けたとも知れぬ言葉を投げかけ、日向は棘を指で潰した。そして奏雨に近寄り、
「ごめんなさい。私には、あなた達といる資格なんて無いわ」
そのまま女神へ歩みを進めようと、仁の傍を通り過ぎた時だった。声が聞こえた。幻聴などではない。確かに、傍で語りかけてきたのだ。
「頑張ったね、日向」
仁の方を向く。
「澪士…?」
「今は許せなくていい。ゆっくり時間をかければいい」
「この子達に任せていいの?」
「強い子供達だ。神も、世界も、混沌だって救えるかもしれない」
「そうやって頼りたくなかったから、一人でやってきたのに…」
「一人だなんて言わないでよ。零のこと、ちゃんと見なきゃ。君と僕の遺伝子が生み出した命。れっきとした、僕らの子供だ」
「零にどんな顔すればいいか…」
「これから探せばいい。生きよう。そのための時間、そのための授かり物─命─だろう?」
自然と涙が頬を伝った。わかっていた。自分がどれだけ酷いか。それでも許せなかった。大衆が、人間が、何より自分が。恋人一人救われない社会も、自分も壊したかった。彼のクローンを造った。人類の敵になった。そこまでしても満たされなかった『何か』が今、溢れそうなほど湧き上がってくる。
「ごめんなさい…あなたを守れなかった…」
「いいんだよ。──君はたくさんの人の血と涙を流した。だから今度は、それより多くの笑顔を与えてくれないか?」
「私にできる?」
「できるさ。だって君は世界で一番優しい、僕の恋人だから」
澪士の姿が薄くなる。手に触れたくて手を伸ばす。けれど、その手はすり抜けてしまって。澪士は最後に一言だけ加えた。
「想ってくれて、ありがとう」
消えかかる身体で抱きしめ、日向を包むように澪士は消えた。36度5分の温もりが肌に残る。幻とは言わせない。たとえ世界が認知しない時の狭間の出来事だろうと、この一瞬は確かにあったのだ。そんな日向の胸中を汲むかのような、柔らかい熱だった。
日向は仁に手をかざし、周囲の体組織のみ時の停滞から解放した。それから今度は逆に、体組織の歩む時を早めた。目まぐるしく行われる新陳代謝は、目も当てられぬほどの傷口を即座に治癒した。全員の傷が完治したのを確認すると、日向は仁の意識を通常の状態に戻した。
仁は完全に静止した世界と、今にも息絶えそうな日向の姿を見て息を呑んだ。
「じゃあ、お前がレイジの言っていた…」
唖然とする仁に、日向は丁寧に声をかけた。
「あなたに伝えたいこと、託したいものがある」
「何を…」
澪士の意思を仁に感じた。何か意味があるのだとしたら、この少年に懸けるしかない。
しばらく間を置いて、日向は口を開いた。
「逆転の糸口。そして、オーダーの力」
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