第九節 その眼は何も見えてない
チャイムが昼休みの終わりを告げる。開戦の合図。ライトニングレイが地を蹴ると、足元から灰色の雷が閃き、瞬時にサイレントボーダーに詰め寄った。限りなく0に近い至近距離、そこからライトニングレイは発勁を繰り出した。幾重にも絡まった稲妻を伴った一撃は、ようやくサイレントボーダーの胸に焦げ痕を残した。
「考えたね」
胸を払い、サイレントボーダーは笑む。有を無に還す0の障壁を破る唯一の方法。野蛮にして聡明な判断。障壁を張る前に接近し、0距離から攻撃すること。言って成せることではない。けれど、0を司るサイレントボーダーとは対照に、光を司るライトニングレイだからこそ、この荒業を成せた。
他に可能な物質、生命体があるとすれば、ミストゲイルとオーダーぐらいのものだ。レシーバーズとしての命を削られながら、先導者と統制者の領域に立った。狂気の沙汰ほど面白い。
特に面白いのは、普通こんなことは思いつかないという点だ。視覚に影響無い範囲の光と、生命維持に必要な最低限の空気以外、全てを弾き返す障壁に突っ込もうなんて、正常な脳機能からは出てこない発想だろう。
「どうやって思いついたんだい?」
ライトニングレイは押し出した手の平に電気の残り香を漂わせたまま、拳を握りしめる。
「ずっとあんたを見てきた」
なるほど、鋭い観察眼だ。サイレントボーダーは腑に落ちた。実際、ライトニングレイは他人と比べて賢しい。それはレシーバーズになる前からそうだったのだろう。初めて会った時から、持つ者ゆえの苦しみが顔に滲み出ていた。サイレントボーダーはその顔をよく知っている。
「大したものだよ。でもね」
焦げた胸の傷を修復していく。
「僕は0の申し子だ。いかに君が無限に限り無く近くても、0には届かない。君が有である限り、無には交われない」
サイレントボーダーは影の落ちる冷ややかな地面を踏みしめる。ライトニングレイは身構えたまま動かない。距離が0に近づく。
「0とは面白い数字だとは思わないかい?1や2よりも後に生まれた人工の数字。けれど今では0が原点となり、始まりへと変わった。命の在り方によく似ている」
「何が言いたい」
ライトニングレイが問う。普段は繊細なほど相手の心を読み解くくせに、こういった所は随分と鈍い。だから裏切りなどという愚行に走る。
「今度はレシーバーズ─ぼくたち─の番だってことさ」
真空の槍を振り上げた。ライトニングレイに突き刺さる直前、真空の槍が消失した。虚空を握り、サイレントボーダーは察した。
「あなたもしつこい人ですね、先生」
振り向く先にはフェイトスコープが立っていた。紫の瞳が妖しく光る。
「奏雨、席に戻れ。もう授業が始まっちまう」
フェイトスコープが呼び掛けると、ライトニングレイは即座に撤退した。タイムリミット寸前だった。
仕切り直しとばかりに、フェイトスコープはサイレントボーダーに言葉を投げかける。
「いい加減根負けしてほしいモンだな、零」
声は朗らかに、こめかみに力が入る。
「その名前で呼ぶのはやめてくださいよ。殺したくなるでしょう」
手の平へ指を折り曲げる。しかし、空間はフェイトスコープという原点に向かって圧縮されはしなかった。フェイトスコープは瞳に指さし、呆れた風に説明する。
「俺の眼はレシーバーズの力を全部見破っちまうの。前に言ったろ」
頭に血が昇って見落としてしまった。フェイトスコープは紫の瞳で目視するだけでレシーバーズの核を見破る。奴の前では正体も、力も、全てが目下に置かれるわけだ。
だから、奴に勝つ方法は一つ。
「殴り勝てば関係ないですよね」
瞬時に駆け出し、拳を突き出した。しかし拳はフェイトスコープの側面にいなされ、肘に膝蹴りをくらった。神経伝達が上手くいかず、前腕が垂れる。
フェイトスコープが不敵に笑う。
「誰に殴り勝つって?」
厄介なことに、フェイトスコープは徒手空拳の練度がそれなりに高い。何度撤退を余儀なくされたことか。力そのものはクラス5にも満たないというのに、対峙すればクラス1のサイレントボーダーにも勝る体術を見せる。面倒この上ない。
それでも負けじと応戦するが、火を見るよりも明らかに押される。みるみるうちに全身が打撲と痣で埋め尽くされていく。人型との戦闘では最強と呼んで差し支えない実力だ。認めざるを得ない。
倒れ伏すサイレントボーダーに、フェイトスコープは屈んで手を伸ばした。
「意地張んのはやめにしよう。だいたい古臭すぎんだろ、生態系の頂点に立ちたいなんざ。いまど少年漫画でも聞かねぇぞ?」
「うるさい…!」
そうサイレントボーダーが唸ると、フェイトスコープからふざけた雰囲気は消え、神妙に呟いた。
「誰かの上に立つなんて、誰にも許されちゃいねぇんだよ」
瞳を光らせたままフェイトスコープは人間の姿となり、
「『先輩』からのアドバイスだ、ちゃんと聞いとけ」
と、哀愁を漂わせて言葉を続けた。
そういうあなたは上から物を語っているじゃないか。サイレントボーダーは腸の煮えくり返る思いだった。憎い。悔しい。
次の時が刻まれるわずか1フレーム前、世界は止まった。そして次の1フレーム後、世界は再び動き出した。サイレントボーダーを挟み、フェイトスコープの前にオーダーが現れた。
「日向…!」
怒りか悲しみか、フェイトスコープの声が震える。オーダーは微笑み、悠々と返した。
「久しぶり、遊月」
それからオーダーは振り向いたサイレントボーダーの顎に手を乗せ、
「今日は帰ってくれ。二人で話したいことがある。それに今、君を失いたくない」
大切に扱われている。その悦楽に心踊らせ、同時にフェイトスコープへの憎悪を滾らせ、サイレントボーダーは時の刻む1フレームの間に姿を消した。
「ミストゲイルは貰う。必ず」
「さて、子供は帰ったことだし。積もる話でもしましょうか」
オーダーはそう言って兜の右顎を指で叩く。先鋭的な鎧兜が収納され、中から長髪の女が顔を見せる。海央日向(かおうひなた)、山路遊月を知る者。
「平行線たどるだけだろ。意味あんのか?」
遊月は悪態をつく。ああ、変わらないな。日向は口角を上げた。
「私にはね」
高い踵が湿気た土を抉る。吐息の当たる距離で、日向は囁く。
「たくさん話しましょう。今までのこと、これからのこと」
遊月は仰け反り、距離を取った。チャイムが鳴る。
「そういえば先生をやっていたわね」
首を傾げ、確認を取る。運命も奇妙な悪戯を仕組んだものだ。あの遊月を学校の先生にするとは。
「午後は担当無しだ。他の教師達がやってくれる」
「なら、心置きなく話せるわ」
遊月の言葉に笑顔を見せ、日向はスロープの手すりに腰掛ける。遊月も座るよう手すりを叩く。だが、遊月は首を横に振った。ため息をつき、
「そりゃあ支障は無いけどさ、ちょっと傷つくわよ。その態度」
と言うと、遊月は拳を固め、唇を噛んだ。利口だ。彼は理解している。自分の瞳が日向の姿を捉える前に、自身の死角に入られることを。
遊月は拳を己の額に付け、恨み節を漏らす。
「テメーが『黄昏を追う者─クロノマスター─』でなけりゃあな」
日向は吹き出した。
「懐かしいわね、その呼び名」
昔に想いを馳せ、目を伏せる。
「今じゃ君だけよ。そう呼ぶのは」
「なら零にでも言わせたらどうだ?」
こちらの気も知らないで、にべなく遊月が口走る。
「あの子は違うの。あの子は…違う」
零にだけは呼ばれたくない。思い出してしまうから。色々なことを。
「で、テメーらはピラミッドを登りきって何がしてぇんだ?知ったこっちゃねぇが、一応聞いてやる。わざわざ足を運んでくれたわけだしな」
湛えた涙を拭い去り、日向は語った。
「登る必要は無い。自然と昇る。朝日がそうであるように」
「暁(あかつき)か」
何かを察し、遊月は日向に詰め寄り、鎧の襟を掴んで叫んだ。
「いつまで引きずってんだ!G・Aまで起こしやがって!あいつが望んだのはこんな事じゃねぇだろ!独りよがりも大概にしやがれ!テメーはそんな奴じゃなかったはずだ!」
堤防が瓦解し水が溢れ出るように、数多の感情が破裂し炸裂した。
「忘れられるわけないでしょ!あの人に報いなきゃ嘘よ!そうね、あなたのように生きられたらどんなに楽だったか!今さら正義面しないでよ!私のこと、何も知らなかったくせに!」
怒りを伴い、時が加速する。太陽は勢いよく傾き、木々の揺れも目では捉えきれないほど激しく、土も余分な水を奪われた。
刹那。目まぐるしく流転する世界をどこ吹く風とばかりに、一陣の疾風が目前に駆けつけた。ミストゲイル。先導者となる運命を背負いし者。
咄嗟に時を止める。ミストゲイルを取り巻く風は制止した。まだ、その域ではないか。これ幸いと喜ぶべきか、そうでないのか。複雑である。
「遊月、あなたがどう望もうと、この子は先導者となるわ。持つ者は結局、持たざる者を淘汰する運命(さだめ)なのよ」
独り呟き、踵を返す。遊月を一瞥する。自然と涙ぐむ。
「あの子にG・A─プレゼント─、あげちゃったのよ。もう止まるつもり、無いから」
右顎を叩き、兜を被った。そして次の一瞬で、その場を去った。いつか会いましょう。意を込めて、足を前に踏み出した。全ては我等が家族のために。
五時限目の授業を終え、風の流れに違和を感じた架純が走ると、体育館裏で遊月が独り立っていた。ほんのわずか、女性の幻影が見えた気がしたが、あれは何だったのだろう。疑問が生じる。しかし、それよりも今はフェイトスコープと化した遊月が先だ。
「ゆっちゃん、何でその姿に…」
すると、遊月は元の姿に戻り、架純に目線を合わせて言った。かつてないほど真剣に、悲愴感を露に。
「お前に話す。オーダーのこと、G・Aのこと。俺の知り得る限りを、全部」
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