忘れ得ぬもの 2


「——相川さん?」

 疲れすぎているのだろう、なんだかドリーミーになっている俺の思考を、この世で最も美しい声が弾けさせた。

「ナナナナナナコさん!」

 いつものテンパり癖はそう簡単に治らないし、俺のコンディションにも関係しない安定のクオリティを誇っている。モカのお父さんの前ではあんなに大きく出ることができたくせに、やっぱり駄目だ。


「今日、お仕事じゃ」

「有休なんです。あんまり溜めんようにするように会社に言われてて」

「すごい。ホワイトを通り越してパールホワイト企業ですね」

 俺の脊髄反射ジョークにナナコさんはくすくすと喉を鳴らした。

「心配してたんです。病院まで行こか思たんですけど、たぶんお見舞いとかは入れてもらえへんやろし。すぐ退院できて、ほんまによかった。今日出勤しはるって聞いて、様子見に」

 ナナコさんが、俺を。俺に会いに病院まで来ようとしていた。もしかして、俺の様子を見るためだけに休みを取ったのか。


 俺にも春が。ビューチューブで一発当てれば、その辺の高収集メンズなんかと一緒になるよりもずっと金銭的に余裕のある人生をナナコさんに送らせてあげられる、なんて馬鹿なことを考えて一人でアヘアヘなりかけていることは悟られてはならない。


「相川さんに何かあったら、わたし——」

 ナナコさんはそこではたと声を止め、取り繕うように笑ってエプロンに手を伸ばした。


「なんや。ナナコ。買い物行く言うてたんちゃうんか」

「ええねん。相川さんの手伝いしたいし。無理してまた倒れはったらどうすんの」

 マスターも奥さんも、ナナコさんが店に立つのは嬉しいらしい。そのまま、俺たちは通常業務に入った。



「それで、相川さん」

 テーブルを拭きながら、ナナコさんが少し声をひそめて話しかけてくる。

「順調なんですか」

「——なにが?」

 ナナコさんは手を少し止め、自分が残したアルコールの跡が消えてゆくのを僅かな間眺めた。


「ハルタモカ」

 俺の頭上にエクスクラメーションマークが十二個光った。

「——もしかして」

「職場の人が勧めてくれて。びっくりしてしもた」

「かかか隠してたわけじゃないんです。すみません」


 ナナコさんは、またテーブルの上の手を動かしはじめた。アルコールの跡がまた生まれては消え、を繰り返す。


「大変そうですね。うちで働いて、撮影もして。ぜんぜん詳しくないから知らんけど、編集とかも手間なんでしょ?」

「ええ、まあ」


「なあ、お父さん、お母さん」

 俺の曖昧な応答と関係なく、ナナコさんが両親に呼びかける。

「相川さんの出勤日、減らしたげて」

「なんでや」

 マスターが訝しがるのも無理はない。というか、俺の意思ですらない。


「毎日、心配や心配や言うてるだけではあかんと思うねん。相川さんな、うちで働きながらビューチューバーもしてはるねん」

「ビューチューバーてあの、動画のやつか」

「そう。スマホ持っただけで出るお父さんは知らんと思うけど、結構人気なグループやねんで」


 ちょっと待ってくれ。俺がずっと秘匿していたことを、ナナコさんはあっさりと暴露してしまっている。

 いや、理由があって隠していたわけではなくただ何となく言いづらいというだけのことだから別にいいのだけれど、だからといってシフトを減らすというのは困る。


「ビューチューバーすんのって、めっちゃ大変やねん。相川さん、寝る間もないみたいやで。そやし、倒れはったんやん」

「よう分からんけど、そやったら、なんでもっと早うに」

「相川さんのこと考えたげて。お父さんやお母さんに、悪いと思わはるからに決まってるやん」

 ナナコさんが、声を少しだけ強くする。そうしてもガラス戸の外の蝉の半分にもならない可憐な声量だが、その意思の強さは十分に伝わる。


「相川さんがどんだけ優しい人か。お父さんとお母さんが相川さんのこと好きでいるほど、相川さんはどんだけ自分がボロボロでもここに来はるねん」

 なんだろう、こんなナナコさんをはじめて見た。感情的な声が指すのが俺の話題だというのが違和感でしかないが、俺のことを思ってこんなに一生懸命になってくれているのだとしたら、俺は今死んでも文句はない。


「ビューチューバーとしても、ファンの人が動画を待ってる。そしたら、相川さんは全力で応えてしまわはるねん。全部全部におんなじように応えられるはずもないのに、そやし、こんな疲れて倒れて病院運ばれて——」

 ナナコさんが、俺の方を見る。それは、ほとんど睨むというような具合だった。


「なあ、相川さん。ほんまは、もっと休んだ方がいいんでしょ。病院も、無理言うて退院してきたんとちゃうんですか」

「そ、それは」

「お願い。相川さんは、みんなを喜ばせたり幸せにしたりできる人です。でも、そのために、自分の体を乱暴にしんといてください」

 ナナコさんになら俺の体を乱暴にしてもらってもいいのだが、そういう意味ではない。


 いや、そんなことを言っている場合じゃない。俺は、ほとんど泣きそうになっている。

「他の人のためやったらこんなに頑張れんのに、なんで自分のためにそれができひんのですか?」

 答える言葉を、俺は知らない。


「相川さんに何かあったら、ビューチューブのファンの人も、お父さんもお母さんも——わたしも、みんなが悲しむって分からへんのですか?」

 ナナコさんの瞳に俄かにあらわれ、そして溢れた真珠のようなものを何と呼ぶのか、俺は知らない。


「でも、わたしも分かってます。休め言うて休む人とちゃうって」

 俺は、責められているのか。いや、もしかして、愛されているのか。


「だから、お父さん、お母さん。相川さんの出勤、減らしたげて。休んだり、ビューチューブのことや自分のことに時間使えるようにしたげて」

「な、ナナコさん」

 俺はものすごく言い出しにくいことを人間が口にするときの自然な様子の範疇を遥かに超えたキモさで、発言をはじめた。


「とても、とても嬉しいんですが、その、出勤減らすと生活が。ファンは増えてるんですが、それだけで食っていくのにはまだ——」

「そうか。話は分かった」

 マスターが、グラスを置いた。綺麗なものでもいちいち拭き上げ続けるのが手癖のようになっているのだろう。


「ほなな、相川くん。今まで相川くんの来たいときに毎日のように来てもろてたけど、これからは水曜と木曜は必ず休み。うちも平日はどうせ暇やし、それくらいかまへん」

「で、でもマスター、そしたら収入が」

 マスターの鋭い目がステイサムになって俺を射殺す。


「倒れられたら、こっちも困んねや。相川くんも、そもそも仕事できひんくなるよりマシちゃうか」

「そ、それはそうなんですが」

「きっちり休み。そのかわり——」

 これまでより、もっとアトムの仕事を頑張る。それは当然の条件だ。

 俺は今までこの世に存在しなさ過ぎて、人に心配させるということの罪の深さを理解していなかったのかもしれない。


 モカの顔が、ふとよぎる。

 俺が、ここまでモカを引っ張ってきた。これからも、まだまだ引っ張っていく。

 そして、いつか、あの七月二四日のときみたいに、そこに立たなければ見ることのできない景色を見せる。モカと一緒に、それを見たい。

 それが、俺の唯一の願望。休みたいだとかは二の次の次の次、すなわち五だ。

 しかし、モカはこのところ、俺の体調のことや活動ペースのことで眉を暗くしてばかりだ。俺たちが望み、俺がそこまで彼女を引っ張って行くとして、そのために彼女を置き去りにするようなことがあってはならないのかもしれない。


 マスターの言葉。タピオカがストローに詰まったときのようにほんのわずかな間だけ途切れたそれが再び流通をはじめ、俺をモカのところからこの古びた喫茶店に連れ戻す。

「——時給は、百円アップや」

 は、と声に出していた。特に意味はない。


「お父さん、ありがとう」

 ナナコさんは満足げだが、マスターの言う意味が飲み込めない俺は喉の奥にわらび餅が引っかかったみたいな音を立てるしかない。

「それでええな、相川くん。収入が減るんが困るんは分かる。うちも、相川くんにはえらい助けられてる。できるだけのことは、するつもりや」


 マスターのことをこれまで調理という言葉の意味が理解できないステイサムだとばかり思っていたが、神なのだろうか。この輝かしい頭部を光らせながら言うことが言葉のままなのだとしたら、そうだ。


 休みを週二日にする。かつ、時給を百円アップする。それは俺の体調を改善させ、ビューチューブの活動時間を増やし、かつ収入への影響を軽減するという措置だ。


 ああ、と俺は思った。いや、思い直した。

 神様でもステイサム様でもなんでもない。マスターも、奥さんも、ナナコさんも、応援してくれているんだ。

 何も持たないはずだった俺のことをこうして大切に思い、俺の日々に幸多かれと願い、そのために何かをしようとしてくれているんだ。


 神様は、それを愛と名付けた。たぶん、そうなんだ。

 俺がすべきことは、この人たちに何ができるのか自分で考え、自分の体と時間を使って行動することだ。


 俺にしかできないこと。それが、ここにもある。そして、それはきっと、世の中のいろんな場所に。

 そう思わせてくれたこの人達のことを、俺はきっと生涯忘れないだろう。

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