言葉がある
「どうして、お父さんに何も相談しなかった?」
モカが会社をブッチした件だ。お父さんの紹介で入った会社だから、そのことについてお父さんの話題が向くのは自然なことだろう。
それについてのモカからの返答はない。ただ、暗い眼をコップのお茶に落としている。
「お父さんからの連絡も無視。会社も投げ出して、お前は何をやってるんだ」
「——お父さん、あの」
「君は黙っていたまえ」
その件については確かに俺は部外者だが、モカが何にどういう風に悩んでいたのか知ろうともせず詰問をするのはおかしい。
「確かに、趣味もいい。京都の名所紹介もいいだろう。しかし、仕事も何もかも投げ出して、どうするつもりなんだ」
「お父さんは」
モカの眼が、鋭いものになった。俺がはじめて見るものだ。
「仕事、仕事。ずっと一人で名古屋に住んで、わたしやお母さんのことは放ったらかし。ほんで、自分の紹介した会社を娘が飛んだときだけ、こうして会いに来て説教すんの?お父さんの顔を潰したから?今後の仕事に差し障りがでるから?」
わたしより。モカの声が、詰まった排水口に無理やり水を流すようなものになる。
「わたしより、仕事やんか。そのお父さんが、わたしに何を言うんよ」
沈黙。重苦しい溜め息と窓ガラス越しの蝉のくぐもった声がばかに大きく感じる。
「あの」
俺はその重みに耐えきれず、また口を開いた。
「お父さんは、お仕事に生き甲斐を感じておられるんですね」
「当たり前だ。先代が創業し、私がここまで広げた」
「そうなんですね。先代さんも大変だったんでしょうね」
「まあ、それなりに。もともとは古鉄屋だったそうだ。私の祖父の頃までは、鍋やヤカンなんかを売る荒物屋だった。父が創業したときは、ほんの小さな部品工場だった」
お父さんの熱っぽい口調にモカは辟易しているようだが、俺は、ああ、と思った。
「羨ましいです」
「君たちも、頑張ればいい。誰にだって、可能性はある」
「そうなんでしょうか」
モカの眼が、ちらりと上がる。俺の表情を窺っているのだろうが、自分がどんな表情を浮かべているのかは分からない。
「俺は勉強してモカさんと同じ大学に入り、そこでも就職のためにあれこれ努力しました。だけど、社会は、俺が思うほどには俺を必要とはしていなかった。いや、社会が必要とするような自分には、なれませんでした」
「そんなことはない。君だって、必ず」
「だから、お父さんのように、必ず社会の中に自分の居場所があると確信できる人が、羨ましいです」
頬の筋肉の緊張を感じる。俺は、どうやら笑っているらしい。
「モカさんも、お父さんのようにそれを得ようと必死でした。仲良くしていただくようになったはじめの頃、忙しい、忙しいと言ってました。でも、すごく輝いて見えました」
お父さんが、俺の意図を探るような視線を向けてくる。それに、俺は応えようと思った。
「でも、モカさんの会社は、それを許さなかった。無神経な上司はセクハラばかり。モカさんの努力は、会社の偉い人たちに分かり易いように、彼らにとって都合のいい形にパッケージングしてからでないと、理解してもらえない」
僕たちが。モカと俺を共通項で括るのはどうかと思うが、だが、これだけは言っておきたい。
「俺たちがどれだけ望もうと、それが要らない人だっているんです」
お父さんの眉間に皺が寄る。怒りによるものではないということは分かる。
「お父さんがそうやって仕事に打ち込めるのは、人生を捧げられるのは、必要とされるからじゃないでしょうか。自分のすることを必要とし、喜んでくれる人がいてはじめて、俺たちは社会に存在できるんじゃないでしょうか」
「それについては、君の言うとおりだと思う」
「俺は、クズでした。そのことに気付かず、自分が求められないのは社会が悪い、と思うばかりでした。でも、モカさんはちゃんと得るべきものを得ようとしていました。それを踏み付けられるのも、モカさんが悪いんでしょうか」
必要とされていない。たったそれだけのことだが、それを知ったとき、ふつう、人の心は壊れる。俺の場合は、自己責任。しかし、モカの場合、どうしてもモカにその責任があるとは思えない。
「お父さんが仕事が全てと思えるのは」
俺の声の色が変わる。やっぱり、緩い笑みが顔に貼り付いている。
「楽しいから、ですよね」
極論、そうだろう。楽しくもないことを続けられるほど、人間はタフではないはずだ。
「仕事は、遊びじゃない」
「そうですよね。だけど、必要とされていない仕事に、意味を感じられるでしょうか」
お父さんは、コップに手を伸ばした。氷が溶けて音を立てて、それだけでお茶を飲むことはなかった。
「俺たちも、ようやく、それが見つけられそうなんです。必要としてくれる人が欲しがるものを届けることができそうなんです」
それが、楽しいということだ。そのためなら、面倒なことも辛いことも苦にならない。自分で言いながら、そう認識した。
「——お前は、どうなんだ」
モカの方にお父さんの顔と話が向いた。
「ハルタ君は、無茶ばっかり」
おい、とツッコみたいところだが、我慢だ。
「すごい行動力で、付いていける気がしいひん」
でも、とモカは続ける。そこには、俺が浮かべているであろうものと同じような笑みがあった。
「わたしより、ずっと強い。わたしは、なんにも投げ出してないよ、お父さん。ハルタ君が、それを止めてくれた」
エアコンが呼吸している。なんとなく、モカはそれに眼をやった。
「ハルタ君が、目標を与えてくれた。わたしを、必要としてくれた。わたしを、世の中の人が必要とするようにしようとしてくれてる。わたしは——」
モカの目が、いつも付けているピアスのような赤い色と綺麗な潤みを浮かべている。
「——それに応えたい」
「ビューチューブで食っていくつもりか」
「分からん。分からんけど、少なくとも、何もしんよりはマシ。そう思えてる」
「お前たちがどれだけ努力しようとも、心ない連中の誹謗中傷もある」
おや、と俺は思ったが、今はモカとお父さんのターンだから口を挟むことはない。
「それでも、理解して必要としてくれる人はいる。そう信じられてる」
「誰が生活を保証してくれるわけでもないのに、不安定なものに寄り掛かって生きるつもりか」
「お爺ちゃんも、そやったやろ。自分で言うてたやん。荒物屋辞めて工場作って。お爺ちゃんがそれを続けられたんは、お爺ちゃんが作るもんを必要とする人がいたから。お父さんは、もっと多くの人にそれを届けられるようにしたんやろ。部品以外にも、もっと多くのもんを」
「二万人の登録者が、お前たちの人生の保証だと言うのか」
ううん、とモカは笑った。さっきまでとはまた違う色のものだった。
「まだ、たった二万人。まだわたしらのことを知らん人が、たくさんいる。わたしらを必要とする人が、あちこちにいる」
「だとしても」
「あの」
お父さんの息継ぎの隙に、言葉を挟む。そろそろ、また俺のターンだ。
「俺たちの動画、面白いですか」
お父さんは、吸った息を止めたようだ。
「観てくれてるんですよね?登録者数もチェックして。今炎上してることも知ってる」
「偶然にな。経済の記事を観ていたはずが、うたた寝をしている間にどういうわけか自動再生で君たちの動画が流れていた。驚いたよ。自分の娘が映っているんだから」
「で、どうですか?」
「——面白いと思う」
「俺がズッコケてテーブル破壊するやつは?」
「観た」
お父さんの頬に、にやついた線が浮かんだ。あれを目にして笑わない人はいない。
「お父さんも、俺たちの存在を保証してくれる人の一人なわけだ」
俺の耳の中でゴングの音。ノックアウトだ。
「批判にさらされても、なお目指す。それほど、君たちにとってビューチューブというのは魅力的かね」
「はい。モカさんは、若い女性の憧れの的になり得ます。批判については、俺たちを応援する人が、俺たちを守ってくれます」
「そんな確証は、どこにも」
「あります。それができるのが、ビューチューブです」
俺は脳内に展開する——というか今思いついた——、名付けて炎上逆転の計を言葉にして提示した。
まず、火種となった西本願寺のポイ捨て事件。そのシーンを切り抜き、意図的なものでなかったことを改めて伝える。西本願寺には謝罪をし、境内か、無理なら前面道路や近隣の清掃ボランティアをする。
その姿勢と行動を打ち出すことで、むしろ俺たちを責める方が悪だと定義付けることができるだろう。
そういう打算的な思考が俺の中にあるというのを、ビューチューブをはじめてから知った。
いや、便宜上、お父さんに説明するためにそういうことを言ったが、要するに、悪いことをしたのだからごめんなさい、という姿勢を見せ、誠意のある行動をするというだけだ。それを見て笑う人こそあれ、怒る人はいないだろう。そういう単純な理屈だ。
「君は、経営者に向いているのかもしれないな」
お父さんが静かな声を立てる。
「いえ、俺なんて」
「モカは若年層ユーザーのアイコンになるだろう。だが、君の道具じゃないぞ」
「お父さん。やめて」
モカが露骨に怒りをあらわにした。
「お父さんこそ。わたしを会社の跡取りとしてしか見てないくせに。よう言うわ」
「モカ。それは違うんじゃないだろうか」
お父さんが何か言おうとしたのを遮るような形で、俺はさらに言葉を重ねる。
「お父さんは、モカを心配してる。見守るつもりでもいる。だから、ハルタモカのことを知りながら、毎日その様子を気にしながら、今日まで待ってたんだ。モカから、自分の意思を話してくれるのを」
お父さんは、何とも言わない。ただ、こんどはお茶に手を伸ばしてそれを飲んだ。
「モカさんには、辛い思いはさせません。俺が、彼女の前に立ち、あらゆる批判を受けるつもりです。俺の駄目なところを見せれば見せるほど、人はモカを主人公にすると思います」
「——動画の中の君は」
お父さんの言葉は、溜め息と共にエアコンの風に漂うようだった。
「動画の中の君は、たしかに、ちょっと鼻につく。それだけを知っていた私は、君がこれほど打算的で理知に富んだ人間だとは思わなかった。あえて、君は、モカのために自分を貶めて演出していると言うのか」
「そんな、大層なもんじゃありませんよ」
俺はなんだか背中がむず痒くなり、大きく表情を崩した。
「自分のためでもあります。俺にしかできないことがあると、少なくとも自分ではそう信じていたいんです」
「わかった」
お父さんは、お茶を飲み干した。何がわかったのだろう、とモカの視線がそれを追う。
「もう少し、見守ることにしよう。母さんが言っていた。モカはもう大人で、いつまでも誰かの庇護を受けているわけではないと」
「お母さんが?」
「僕は、それには反対だけどね。娘はいつまでも娘だし、特にモカにはまだ保護者が必要だ」
「馬鹿にしんといて。自分のことくらい——」
かっとなりかけるモカを、お父さんが遮った。
「——ハルタ君は、そのつもりでいるようだ。だから、僕は、君たちをもう少し見守ることができる」
「ありがとうございます」
俺は、深々と頭を下げた。お父さんが俺たちの活動を認めてくれたと確信できたからだ。
「だが、一度話題になったとはいえ、それで安定して食って行くには、いつまでも草の根運動を続けてゆくわけにはいかないだろう。何か、考えがあるなら安心材料としてそれを聞かせてほしい」
俺は、やはり、自分の意識しないところに謎の引き出しがあるらしい。ときどき、寄木細工のようにそれが開くことがあり、今日は特にそれが多いようだ。
「お父さんの繋がりで、我々の活動を支援してくれるような企業はありませんか」
要は、事務所ということだ。モカが目をビー玉みたいにして向けてくるが、構うことはない。
「あるには、ある。スコッパーといって、東京の小さな事務所だがね。以前に取引のあった会社の方が独立して立ち上げたそうだが、ビューチューブ方面を主に手掛けているそうだ」
「ぜひ、ご紹介いただけませんか。口をきいてくれという意味ではありません。自分たちの活動内容や目指すものを会社の方に話をし、そのうえで契約していただけるかどうか判断していただきます」
どうせ、今どき打ち合わせも何もかもオンラインだ。事務所の所在が東京だろうが、関係ない。
芸能事務所のように、ビューチューブのクリエイターの支援をする事務所がある。トップビューチューバーのほとんどが事務所の後援を受けているか、受けていたかだ。名を売るなら、大きな企画や大物とのコラボなど、自分たちだけで活動するよりも初速は出しやすくなる。
「わかった。話は通す。興味があるようなら、君に連絡するように言う」
お父さんは、何も入らないんじゃないかと思うほどの小さなビジネスバッグを手にした。もう行くのだろう。
「これから、仕事?」
「ああ」
仕事で京都に来たついでに、会社を辞めたきり音信不通になった娘のところに来た。そういうことだと思っていた。
「これから、春沢君に会いにゆく」
「社長に?」
春沢というのは、モカがセクハラを受けて辞めた会社の社長であるらしい。
「そうだ。春沢君の人柄と会社を信じて紹介したモカが、セクハラを訴えて逃げるようにして辞めることになった。そのことについて、色々聞かなければならないことがある」
「謝りに行くんじゃなくて?」
「話をし、もし君に何か重大な落ち度があるのなら、親として謝罪するつもりだ。それも、話をしなければ分かるまい」
お父さんは、どうやら、モカから聞いていたよりもずっと頭の柔らかい人であるらしい。モカもそれを再認識したらしく、ばつが悪そうな顔をしている。
「何事も、話をしてからだ。今も、君たちと話をしたからこそ、僕は君たちの考えること、見ているものを知ることができた」
「お父さん——」
「人には、言葉があるんだ。それを使わない手はないだろう」
じゃ、と笑い、お父さんは立ち上がった。見送りのため、モカと俺もそれに続く。
「ああ、そうだ」
靴を履きながら、お父さんは思い付いたように言う。
「この家は、引き払いなさい」
「え?」
「いつまでも、家賃をお父さんが払うことはない。君たちの話によると、そういうことだろう。気に入っているならべつにここに住み続けても構わないが、家賃は自分で払うようにしなさい」
自分たちの力で、生きてゆく。それができると認めてくれているのだろうと俺は解釈した。
そして、自分たちだけでは生きてはゆけないことも、俺たちは嫌というほど知っている。
「二人で、よく話し合いなさい。それと、週に一度くらいは連絡をよこしなさい。母さんにでもいいから」
見送りはここでいい、とお父さんは革靴から軽やかな音を立てて去っていった。
しばらくして、低く太いエンジン音。通り側の窓から見下ろすと、真っ赤なアウディがゆったりと通りへと出ていくところだった。やってきたときは夢中だったから気がつかなかったが、あれがお父さんの車であるらしい。庶民ではとても手が届かない車だ。
「すごい車」
俺が思わず嘆息を漏らすと、モカは鼻で笑った。
「昔から外車が好きやねん。べつに、軽で十分やのに」
「きっと、嬉しいんだろ」
「なにが」
「自分の力が世の中に認められて、それがお金に変わるのが。無邪気で、いいと思う」
「——そういう見方もあるかもね」
モカは眉を下げて笑うモカに、俺は向き直った。
「急に来てごめん。ほんとに、何もなくてよかった」
「ストーカー化したおじさんがわたしを襲いに来たと思った?心配性やな。でも、ありがとう」
なぜか眼を合わせていられなくなり、俺はシャツをごしごし擦るという謎の行動に出た。
「お父さんが分かってくれたんも、ハルタ君のおかげ。ほんま、ありがとう」
「まだ早いさ」
モカが、え、という顔を視界の端で見せる。
「さあ、打ち合わせをしよう。さっき言ってた、清掃ボランティアをさっそく始めなきゃ」
「病院から出たばっかで。体調、ほんま大丈夫なん?」
「そんな悠長なことは、言ってられない」
さっそく始めた打ち合わせ。その最中、俺のスマホが鳴った。知らない番号からだ。
「もしもし」
「ああ、相川ハルタさん?」
スマホの向こうの声に、心当たりはない。そうです、とおっかなびっくり答えると、相手は声を明るくした。
「はじめまして。
伊庭社長というのはモカのお父さんだ。モカはあまり気にいっていない苗字だそうだが。
「めちゃくちゃ面白いビューチューバーがいるから、ぜひ話をしてみてほしいってことで。聞けば、テーブル破壊で大バズりのハルタモカさんじゃないですか。僕としては、ぜひ一緒にクリエイター活動をと思うんですが。いちどウェブ上で打ち合わせをさせていただけませんか」
さすが、モカのお父さん。仕事が速い。おそらく、俺たちが呆けたようにアウディのお尻を見送っているとき、すでにこの田中さんに連絡を入れ、聞いたばかりの俺の電話番号を伝えていたのだろう。
事務所も、もちろんビジネスだ。それが、俺たちは伸びる、と可能性を感じている。田中さんからの連絡は、その証拠だ。
打ち合わせはすぐに始まり、田中さんは終始俺の言うことに爆笑していた。俺たちのビジョンも伝え、理解してくれた。
ハルタモカ。事務所所属が決まりました。
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