第一章 【悲報】ド底辺どころかむしろ無

ゼロの掛け算

「相川くぅん」

 と呼び止められると、一日にカップ麺一個しか食ってないにもかかわらず臨月みたいなまんまの俺の腹肉が震える。

 俺の母さんよりも歳上のこのボロアパートの、大家さんだ。


「ごめんなさい」

 と、まず恭順の姿勢を示す。そうしたところで二ヶ月滞納している家賃の返済が免除されるわけもないが、これから俺の脳天に振り下ろされるであろう言葉のハンマーが少しでも軽くなることを期待するしかない。


「あんたね。バイト失うたんは可哀想やけどね、そやけど、うちかて家賃払ろてもらわんと困るんえ。なんぼ他に新しいマンションもようけある言うても、ボランティアとちゃうねやから」

 大家さんの京都弁攻撃が始まった。下京のお金持ちの家からこの左京区の銀閣寺近くに嫁いできたそうで、言葉の端々に選民思想があらわれていて、千葉の田舎から一念発起して京都の大学に出てきたはいいけれど就職に失敗して実家に帰ることすらできない俺には辛い。


「ほんま。大学入ってうち越してきたときはもっとあんた、ええ顔してたのに。この子やったら立派になるわ、と思てたんよ」

 いや、知らねーし、お前俺の母さんかよと俺の中のツッコミ成分が醸されそうになったが、顔こそ同情的でも内心はええからさっさと家賃払えやこのクソ無職がと思っている大家さんが竜巻になるから言わない。


 来月までにはバイト見つけます、と北野天満宮に合格祈願にやって来た学生みたいにして手を合わせて、百八回ごめんなさいと唱えてこの脅威の繰り延べをどうにか果たし、「銀閣寺荘」と記された大家さんの顔みたいに小汚くなった——訂正します、ヴィンテージ感溢れる——看板を背に駆け出す。


 

 小さい頃は、何でもできた。大学に入るところまではよかった。全国でも有数の大学だし、俺の将来は約束されたはずだった。そういう勉強をしてたから、京都に多くある電子部品系の一流メーカーに就職するつもりだった。

 だけど、村山製作所も海津製作所も一本電産も、京ゲラもGSムファサもオモロンも駄目だった。どうやら、彼らはもっと量産型の組織に忠実そうな社畜の雛ばっかりを求めているらしかった。


 じゃあ別のところで手を打つかというと、それはしなかった。必死で受験勉強をして得た学歴に見合った職が必ず見つかると信じ、とりあえず家の近所の観光客向けの喫茶店でバイトすることにした。

 たまに、ゲームのコントローラーを握りながら、瞬きを一つしたら朝、なんてことがある。俺の場合、それが一晩じゃなく二年だった。


 二四歳。京都の春。それだけ聞けばいかにも何かいいことが起こりそうに聞こえるが、そこにいる俺はすぐ切れる息と共に降りる下り坂よりももっと急な転落ぶりだ。


 こないだまでバイトしていた喫茶店。観光客が激減して泣く泣く、というような形でクビになった。オーナーのおじさんはいい人で、申し訳なく思っているのか、捨てる食材を分けてくれたりする。

 貯金ゼロだからほんとうに助かっているが、さすがに無心し続けるわけにはいかない。そのうち、顔で笑いながら心の中で見下される。いや、もうそうなっているかもしれない。


 やたら重い扉を開き、オーナーにいつもの無心をする。

「こんな、捨てるようなもんばっかり食べてたらあかんで。ええ大学出たんやし、はよええとこ就職しな」

 心配してくれているのか皮肉を言われているのか、今の俺の判断力では分からない。ぺこぺこと頭を下げて早々に引き上げようとしたとき、店内に女性客がいることに気付いた。


「はぁい、じゃあナポリタンいただきまぁす」

 と、でかい声で独り言をぶちまけている。一瞬ヤバい奴かと思ったが、手にカメラを持っているから、動画配信でもしているんだろうと思った。


 ふと、その丸い後ろ頭に見覚えのあるような感覚。

「——モカ?」

 金持ちの家のトイプードルみたいだと個人的に思うその名を、思わず口にしていた。


「——ハルタ君?」

 振り返った金持ちの家のトイプードルも、俺の名を言い当てた。


「うそ。こんなとこで、何してんの。卒業以来やん。まだ京都いたんや」

 モカは大学時代の同期。サークルが同じだったから、比較的よく話していた。まだ京都いたんや、の一節に勝手にグサリと来ないでもないが、モカは確か三重だったかどこかの出身だからその言葉は大家さんと違って、やわらかい。


「お前こそ、何してんだよ」

「動画の撮影」

 俺は、へえ、と喉を鳴らす以外、何もできなかった。久々に再会した大学時代の同期に最も見られたくないものといえば、今の俺のこの有様そのものだからだ——しかも、モカはちょっとだけ可愛いから余計に——。

 耳にぶら下がっている薄赤いピアスの飾りをなんとなく目で追いながら無意識の猫背に棒を挿し込むと、今度は腹が出ているのが目立つ気がして、結果ただ挙動が怪しい男になってしまった。


 二四歳、春。目の前にいる俺とは異なる世界の存在から一刻も早く逃げ出したいだけの俺が、ここにいる。

 才能ゼロ。貯金ゼロ。どこまでいってもゼロの俺に何を掛けても、どうせゼロのまんま。異世界から顔だけ覗かせて、久しぶり、久しぶりと日蓮宗の坊さんみたいに唱えるモカにできるだけクールに見えるであろう苦笑を返しながら、なんとなくそんなことを思った。

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