リヒトルディン=ヴァルコローゼ③

 そこは――巨大な穴だった。対岸ははるか遠く、壁に沿って右回りの螺旋状の道が下へ下へと続き、格子の嵌まった『牢屋』がいくつもいくつも並んでいる。


 灯りは格子から手を突き出しても届かない位置に設置されているようで、牢屋の中はここからではよく見えない。


 天井からは岩のつららが幾重にも突き出していて、酷い臭いは濃くなるばかりだ。


『これが――監獄』


 思わずこぼした声は少し震えていた。


『なんてことだ……城の地下にこんな場所が』


 リリティアが呻く。


 俺たちの左側には大きな箱があり、鎖が繋がっている。見上げると――天井の穴から上げ下げできるようになっているようだ。


 隣には荷車も置いてあり、これで物資を運んでいるのだろうと予想できる。


『ふむ……厨房にでも繋がっているのか……。安全性がはっきりすれば、ここに身を潜めて上に運ばせることもできるやもしれん』


 リリティアは先の見えない真っ暗な穴を見上げて言うと「そのような状況は避けたいが」と続けた。


『――そうだな。とりあえず下に向かおう、リリティア』


 俺は応えて歩き出した。


 壁際の道は荷車を引いて通っても問題ないくらいの広さがある。


 ひとつひとつ確認していくと、『牢屋』はひとつに数人が入れられていた。


 汚れていて酷い臭いがするけれど、白銀の髪と蒼い瞳を持つ者たち――王族だ。


 年齢はばらばら。子供から老人まで、男性も女性もいる。


 怒り、と言えばいいのか――胸の底に渦巻く感情が強くなっていく。


 なんてことをするんだよ――こんな……。


 そう思う傍らで、自分がなにも知らずに生きていたことに体が……心が焼かれるみたいだった。


 ぼろ布を纏っただけの彼らにどんな言葉を掛ければいいのか――俺にはわからなかったんだ。


『――俺にはなにができるかな、リリティア……』


 ぎゅっと手を握り絞め、歩きながら振り返らずに言うと、後ろにいるリリティアが小さく息を吐いたのが聞こえた。


『終わらせることができよう。こんな――神聖王国としてあるまじき惨状を』


『――うん。なあ、神世の王っていったい何者なんだ? なにか心当たりはないのか?』


 俺が聞くと、リリティアは俺の隣に並んで難しい顔をした。


『それを私も考えていた。思ったのだが、他国に私のような存在がいると聞いたことがない。穢れや呪いの存在そのものがこの王国特有だったように思う』


『この王国、特有――?』


『そうだ。穢れは人の負の感情がどうしようもなく膨れ上がってしまったもの。多少怒ったり嘆いたりするくらいでは生まれない。もっと絶望的なものだと私は考えている。呪いはそれが寄り集まり力そのものなった状態だ。それがこの国にしか存在しないのであれば、そもそもそれを形にしてしまう元凶があるのでは――と』


『元凶か……それが呪いを司る神世の王だとすると、確かにわかる気がする。神様――そういう存在なのかな。そういえばリリティアはこの国の成り立ちって聞いたことあるか?』


 ふと聞くと、彼女は首を振った。


『神世に、白薔薇ヴァルコローゼが王を見出し国を興したとだけだ。何故だ?』


『……もしかしたら、俺たちは語り継がないといけなかった大切なことを忘れているのかもしれないなってさ』


 ――そう。俺が白薔薇ヴァルコローゼを知らなかったみたいに。


『とにかく。どっちにしても呪いを溢れさせるわけにはいかないよな』


 続けて言うと、リリティアが俺を見上げて頷いた。


『そうだな。神世の王が何者だとしても、封じて浄化してしまえばいい』



 ――そうしてどのくらい下り続けたか――底が見え始めた。


 俺は通路の端からそれを見下ろし、項垂れる。


『まさかとは思っていたけど……こんな』


 そうこぼした俺とともに覗き込み、リリティアがぎゅっと唇を噛む。


『これが墓所だと――? なんと惨い――』


 穴の底は地獄そのものだった。うち捨てられていたのだ。命失った――そのすべてが。


 積み重なった彼らから放たれる強烈な臭いに、頭がくらくらする。


 俺たちはとにかく下まで行こうと決め、歩みを進めた。


『――ん、リヒト。あれは……』


 そこでリリティアが目を見開いた。


 俺は彼女の視線を辿って、その存在に気付く。


 墓所の中心付近、こちらに背を向けてひとり背筋を伸ばして佇む女性。


 頭の後ろで丸めた豊かな白髪。着ているのは裾の長い侍女の制服……。


『ユーリィ!』


 思わず走り出そうとした俺の手を、リリティアがぎゅっと握る。


『待てリヒト! 駄目だ、あれは――』


『――え?』


 そのとき、ふらふらと振り返ったユーリィが『アァ……』と呻いた。


 真っ黒な瞳には感情がないのに――目が合った、と思った。


『……ッ!』


 彼女には俺たちが『視えている』のだとわかって、体中を戦慄が駆け抜ける。


 ――まさか、そんな。これは――!


「アアアァッ!」


『くっ、リリティア、離れて!』


 俺は咄嗟にリリティアの手を振り切り、こちらへと駆け出した筆頭侍女長を組み伏せることを選んだ。


『気を付けろリヒト! 彼女は穢れている――!』


 リリティアの悲鳴に近い叫び声が空気を震わせる。


『わかってるッ! リリティア! 集約だ! 俺に穢れを移してくれ! ――ぐっ』


 ユーリィの細い体のどこにそんな力があるのか。


 俺と組み合った彼女は、濁って掠れた声を上げながら俺の両手をもの凄い力で握り込む。


 必死で対抗するけど、気を抜いたらこっちが組み伏せられそうだ。


『リヒトッ! しかし……この量では……!』


『くっうう! 大丈夫、なんとかなる! 早くッ!』


「アアッ!」


『く……このッ!』


 瞬間、なんとか突き飛ばしたユーリィの手が、俺の手袋を力任せに引き抜いた。


『ぐぅっ……!』


 溢れ出る腐臭。


 ここに満ちる臭いを遙かに凌ぐ、悍ましいほどの。


 俺は自分の左手がどす黒く腐敗し、いまにも崩れ落ちそうなのを見てぎゅっと唇を噛んだ。


 呪いがなんだ――こんなものッ!


 ところが……再び向かってくるユーリィをもう一度なんとかしようとした俺に、リリティアが悲鳴を上げた。


『――い、いかんリヒト! お前の左手は駄目だ――ッ!』


『……え』


 身を躱すには遅すぎた。ユーリィの右手を掴んだ俺の左手から――黒い靄が溢れ出し――。


「ギ、アアアアァァッ――!」


『え……あ、あぁ……ッ』


 絶叫するユーリィの右手、俺が掴んだ場所がシュウシュウと音を立て――『腐敗していく』。


 な、なんだよこれ――俺が、俺がユーリィを――呪っているのか⁉


 咄嗟に振り払おうとしたけれど、俺の手はまるで石のように硬く、指先すら動かない。


『そんな――だ、駄目だ! 手が動かない、放せないッ――リリティアッ、ユーリィが――!』


 そのあいだも、ユーリィの絶叫は止まらない。


 黒々とした腐敗が彼女の腕をじわじわと登っていくのも止まらない。


 混乱した俺のなかで、耐えがたい恐怖が膨れ上がる。


 このままじゃ、ユーリィが――!


『い、嫌だ――止めろ、放れろよこのッ――! ユーリィッ! う、ああ……リリティア、俺、俺どうしたら――!』

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