14.元勇者アレクサンドル
心臓を、鷲掴みにされたような気がした。
これまでぼんやりと、半ば夢見ているような心地だったのに、一気に全身から血の気が引く。
悪魔に、正体が露見した?
――冗談じゃない。今までの努力が水の泡だ。
「……何のことだ?」
俺はすっとぼけたが、自分でも声が震えているのがわかった。
「何のこと? 何のこと、じゃと? ……ふふ、ふふふ、あはははははは!!」
一瞬、きょとんとした悪魔娘は、だらしなく玉座に腰掛けたまま腹を抱えて笑い出した。
爆笑。涙が出るほど笑い転げている。
「そんなもの、一目瞭然よ。ほれ、自分でも見てみぃ」
悪魔娘が俺の横を指でなぞると、そこにはいつの間にか、姿見があった。
そして、俺は見た。
見てしまった。
――俺がいる。
それは、げっそりと痩せこけた男だった。茶色の髪、日に焼けた肌。その目は落ちくぼみ、しかしぎらぎらと異様な光をたたえている。鍛えに鍛えた前世の見る影もなくなっていたが、紛れもなく、俺がよく知る俺自身――『勇者アレクサンドル』の姿だった。
何より異様だったのは、俺の身体は虫食いのように、至るところに穴が空き欠けた状態で、それを青く半透明な部分が補っていることだった。
まるで――魔族の肌のような、青色が。
「なっ……」
ここは物質が不安定な魔界。
そして俺は――誰がなんと言おうと、勇者アレクサンドルだった。
『あなたのような人がここに来るのは珍しい』
出会い頭のオディゴスの言葉が、不意に脳裏をよぎる――
「お主は何者じゃ? 名乗るがよい」
絶句していた俺は、問われて我に返る。
慌てて周囲に視線を走らせるも、広間はぐるりと壁に囲まれていた。――俺が通ってきたはずの回廊は、どこにも見当たらない。
逃げられない。
「ふふふ、
甘ったるく、怖気が走るような吐息が俺を撫でた。
いつの間にか、悪魔娘がすぐ隣にいた。
「…………」
どうする。どうすればいい? この得体の知れない悪魔を、どうすれば――
「ふっふっふ。だんまりか」
にやりと笑った悪魔は。
「――【黙秘を禁忌とす】」
とてつもない重圧、強制力が俺を襲った。
「……俺は、アレクサンドル。人族の勇者だ……」
勝手に俺の口が、動き出した。
「……そして、今は、魔族の王子でもある……俺は魔王に敗れ、気づけば生まれ変わっていた……」
馬鹿な! やめろ!!
俺は口に手を突っ込み、無理やり動きを止めた。
だが手遅れもいいとこだ。俺が一番隠したい部分は、すでに話してしまった。
「ほう! 転生体か。これほど原型をとどめた例は、初めて見るのぅ」
悪魔は俺の周りを歩きながら、しげしげと興味深げな目を向けてくる。
「魔王に敗れた、と言ったか……なんぞカニバルの呪いでも食ろうたんじゃろ」
――魂喰らいの邪法。
「だがお主は消化しきれなかったか。驚くべき我の強さよ。人族もなかなか侮れんのぅ……して、ここには何をしに来た?」
「…………」
「【妨害を禁忌とす】」
「ぐぅ……ッッ」
必死で抗ったが、手が勝手に――
「角が生えて……魔界入りすることに……俺は力を求めて、きた……魔王を倒すための力を……!」
クソが……ッッ!
「哀れよのぅ。そしてなんと健気な。それほど魂が擦り切れても、新たな生を受けてもなお、魔族への憎しみは忘れられんか。もう前世のこともほとんど思い出せんじゃろうに」
「……何を、言っている。俺は、覚えているぞ」
「ほう? ならばお主はどこで産まれた? 生まれ育った故郷の名は?」
「そんなもの――」
俺は答えようとして、固まった。
黙秘を禁じられたにもかかわらず。
村の名前が、出てこなかった。
――いや、馬鹿な。そんな馬鹿な。
「両親の名は?」
おふくろはおふくろ、親父は親父だ。名前は――
「…………」
「親しい友人の名は?」
「……クレア」
そうだ。そしてその父親、パン屋のセドリック。
「恩師の名は?」
どの恩師だ? 孤児院の先生か? 修道会の師範か? 聖教国の教官か?
「……教官の、ミラルダ……」
出てきた名前は、ひとりだけ。
俺は、空恐ろしくなった。記憶は、ある。流れは思い出せる。だが、名前の多くが思い出せないということに。
記憶が、虫食い状態だった。それは、まるで――
「…………」
姿見の映る、俺の姿。
「気づいたか。哀れよのぅ」
くすくすくす、と笑い声。
「まこと、定命の者は見ていて飽きんのぅ。健気で、滑稽で。……さて、もう黙ってもよいぞ」
「……お前は、何者だ」
強制力は消えた。だが俺は問うた。
「沈黙を許せばさえずるか? まあよい。我が名は――」
玉座に腰掛け、奴は答える。
「――我が名は、アンテンデイクシス。禁忌の魔神なり」
魔神。
魔界に君臨する、支配者たちの称号。
その厄介さと悪辣さは――悪魔、どころでは、ない!
「……さぁて、お主をどうしてくれようか」
ぺろりと、舌なめずりして。
「カニバルの奴めが結んだ協定があるからの。我らは可能な限り魔族に協力せねばならぬ」
「……魔神のくせに、魔族に従うのか」
「従う? 何を馬鹿なことを。我は協定を尊重するだけじゃ。我らにかしずき、力を乞うは魔族の方じゃろう。もっとも、彼奴らのおかげで、魔界には力が流れ込み、かつてなく活気に満ちておる。領地を富ますは支配者の義務ぞ」
つまらなさそうに頬杖をつくアンテンデイクシス。
そして、その極彩色の瞳が、愉悦に歪む。
「……人族が、それも復讐に燃える勇者が、素知らぬ顔で魔族の王子になりすましておる。大事じゃのう、これは一大事じゃ。連中に突き出せば、面白いことになりそうじゃ。そうは思わんか」
俺が、最も恐れていることを。
「……やめて、くれ」
「やめろと言われれば、むしろやる。我は禁忌を司る者ぞ?」
「だが、どうせ逆に『やれ』と言われても、やるんだろ?」
「当たり前じゃ。そっちの方が面白いんじゃから」
どっちにせよダメじゃねえか。ふざけんなよ。
……いや。
「なら、もっと面白ければ、いいのか?」
この短い邂逅でも伝わってきた。
こいつは、飽いている。
このカビ臭い宮殿で、腐っている。
「ほう? なんぞあるか?」
目を細めるアンテンデイクシス。
「まさか、我と契約しろとでも言うつもりか? くだらん保身じゃの」
「……お前に相応しい契約者とは、どんなやつだ」
「決まっておる。禁忌を犯す者よ。それも生半可ではない禁忌を」
「ならば、」
俺は、アンテンデイクシスの顔を覗き込んだ。
「俺以上に、相応しい者はいない。俺は、勇者だ。人族を守り、闇の輩と戦う者だ。そうでありながら、俺は魔族の王子でもある。その地位を確たるものとするため、俺はこれから、無辜の人々を見捨てるだろう。踏み台にするだろう。彼らを蹂躙し、切り捨てるだろう。守るべきものを自ら殺める、その禁忌に手を染めるだろう」
ああ、そうさ。
ずっと考えていた。
最終的に魔王国を滅ぼすつもりでも。
その過程で、それは決して避けられないと。
「――であると同時に、俺は魔王子だ。魔王の意志を継ぎ、王国に身を捧げる者だ。そうでありながら、俺は滅びをもたらす。俺に仕える部下たちの忠誠を踏みにじり、この体の父と母を裏切り、兄弟姉妹を血祭りに上げるだろう。王子として生まれながら、国を傾け滅ぼす逆賊となる、最大の禁忌に手を染めるだろう」
俺に期待するプラティも。
なんだかんだ言いながら面倒を見ているソフィアも。
ナイトエルフや獣人の側仕えたちも。
全員、まとめて裏切って地獄に叩き落すつもりなのだ、俺は。
「勇者として、魔王子として。人族として、魔族として。俺はありとあらゆる禁忌に手を染める」
血を吐くような想いで、俺は問うた。
「魔神よ。俺以上に、相応しい契約者はいるか?」
――アンテンデイクシスは、玉座に腰掛け直した。
「…………確かに、お主ほどの逸材はそうおるまい。それは、認めよう」
だが、と足を組みながら、魔神は言う。
「だが、足りん。この我を、魔神を動かすには、足りん。お主の契約者としての格が見合う、それだけの話じゃ。我を動かしたくば、相応の対価を差し出さねばならん」
魔神を納得させるだけの、対価を。
「言っておくが、我はカニバルのように浅ましくはないぞ? お主程度が差し出せる力なぞいらん。そんなもの腹の足しにもならん。お主の魂の器もいらん。そんなボロをもらっても困るでな。もっと魅力的で、我をときめかすものを差し出してみよ」
俺が、禁忌の魔神に差し出せるもの。
それも、力や俺自身の魂以外で、か。
そんなもん、ひとつしかないだろ。
「俺は、お前に禁忌を差し出す」
――何? と怪訝そうな顔をよそに、言葉を続ける。
「俺は、ダークポータルを破壊する」
「……は?」
「どうやるかはわからない。いつやるかもわからない。だが、魔族の力を削ぎ、魔王国を滅ぼすために、俺は必ず、やる。だからそれに、協力しろ」
アンテンデイクシスの、華奢な肩を掴む。
「魔神でありながら。魔界の支配者の1柱でありながら。協定に砂をかけ、魔界の富を損ない、己の尊厳と地位に泥を塗る。想像してみろ。現世に降りた悪魔たちが、還るべき場所失ってどれほど絶望し、嘆き悲しむか」
毒を流し込むように、俺は語る。
「――その禁忌を犯す機会を、お前にくれてやる」
揺れる極彩色の瞳。
「……馬鹿なことを申すでない」
パシッ、と俺の手が払いのけられた。
「世迷い言を抜かすな。この我が、ダークポータルの破壊に協力するだと? あれのおかげでどれほどの力が流れ込み、この魔界が活気づいたかわからんか。しかも魔神として、協定を反故にする? さらには可愛いひよっこ悪魔たちを苦しめる? ……そんなこと、我が尊厳と名声が地に落ちるではないか――」
もじ、と太ももをこすり合わせるアンテンデイクシスは。
「――なんと甘美な」
赤らんだ頬に手を添えて、うっとりと溜息をついた。
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