第九夜 はじめての……(お題:ソロ〇〇)
ふさふさ・艶々の真っ白な長い毛並みと、透き通った緑のビー玉のような瞳が美しい猫は、陶器で出来た新品の猫用ご飯皿の前にきちんと座ってはいた。───が、顔だけをぷいっと横に向けてしまっている。
「
『いやっ!』
「でも、ご飯は食べなきゃ」
『いっ! やっ!』
先日産まれたばかりの、成りだけは若猫の翠の全面拒否に、僕・
最初の二~三日だけは、仔猫用ミルクを人肌に温めて飲ませるように指導を受け、それは問題なく飲んでくれた。なのに、ドライフードをミルクでふやかして柔らかくした離乳食になったとたん、断固拒否の態勢に入ってしまったのだ。せっかく、肉球模様も可愛い高足の器まで新調したのに……。
「どうしてだい? 味とか気に入らない?───あ、でも、まだ一口も食べてないけど……」
『どうしてもっ! 翠、たべなくてもへいき』
翠育成総監督である腐れ縁の旧友・黒羽環によると、肉体を持って生まれた以上、食事の習慣は絶対に必要だとのことだった。だから、僕は黒羽───もといタマちゃんの指導の元、ミルク→離乳食→普通食の段階を踏もうとしていたのだけれど、第二段階で早くも挫折の予感。しかも、理由が解らない。
「
会話をしていることでも分かる通り、翠はただの猫ではない。過程はともかく、結果として『
『何か───といわれましても、我らが肉体を持って食事を必要としていたのは、千年近く前のことですから……。我が君には、この仔の気が不足しないよう、注意するようにとしか承っておりません』
僕が、何の霊的能力もない一般市民と少し違うとすれば、超常の現象に慣れ親しんでいるという事だろう。現にこうして、自分の部屋で掌サイズの朱い妖狐が同居していたりするのだから。
『茜ちゃん』と僕が呼ぶ妖狐・ミニは、総監督のタマちゃんが、僕の厄災除けに置いていった自分の配下(?)である妖狐の分身体だ。今は、翠の養育係も兼任している。
『ねぇねがきをくれるから、翠、たべなくてもへいき』
『食事は我が君の命です。食事をしないなら、気も分けてあげません』
さすが、妖狐といえど、子育てにおいて女性は強い。
断固とした口調(実は音声ではないのだけれど)で茜ちゃんが云うと、翠の顔がくしゃっと歪んだ。猫に表情筋はないけれど、それは子供達が叱られた時と同じ表情に見えた。
『わがきみ、ボクちがう。しらない。にぃにもねぇねも、きらいっ!』
翠はそう云い放つと、長いふさふさの尻尾を翻して、ひと跳びで窓の外へ───って、ここは三階っ!
慌てて立ち上がる僕に、茜ちゃんが冷静に云った。
『大丈夫です。眷属としては異質ですが、翠の潜在能力は高い。ここから飛び下りるぐらいは、何ということもないでしょう』
「それはそうかもしれないけど、翠はまだこの部屋から出たことないんだよっ! すぐに追いかけてっ!」
『それは出来ません。我が君の第一の命は、瑛士さまのお傍を離れないことですから』
そ…そんなぁ……。
僕では翠の追跡は出来ない。茜ちゃんだけが頼りだったのに───どうしよう……。
ここから先は、初めての外界に飛び出した翠自身が話してくれたことと、翠の追跡を抜かりなくしていたタマちゃんが教えてくれた出来事だ。翠が飛び出した直後、一分もしないうちにタマちゃんから『フォロー可能。自宅待機頼む』と、昭和の電報のようなメールが入ったので、僕はやきもきしながら、翠が帰って来るのをただ待っていた。
どうしてご飯を食べなければならないのか?───食べたいとは感じていないのに。
どうしてご飯が嫌なのか?───食べたこともないのに。
嫌なのに、どうしてにぃにとねぇねは意地悪をいうのか?
にぃにの部屋から飛び出した後、翠はぽつぽつと歩きながら、外の世界を初めて感じていた。
石のようなもので出来た四角い森。石のようなもので出来た道。沢山の人と沢山の金属の馬。道の両側には樹が並んで立っているが、灰色の埃を被って作り物に見える。───外は、翠が好きじゃない変な臭いに満ちていた。
翠は知らないことだが、河野瑛士の部屋は、ヒバの樹霊の加護がある御札で常に清浄な空気が保たれている。だから、都会の外界の大気を異質と感じるのは当然のことだった。
それでも生き物はちゃんと居て、沢山の鳥が木の上でおしゃべりをしているし、物陰から翠と似た生き物が見ている。けれど、誰も翠の傍には寄って来ない。誰も、にぃにやねぇねのように話し掛けて来ない。
それでも、すぐに二人が待つ部屋には戻りたくなくて歩いていると、風の中に優しい緑と水の匂いを微かに感じた。その匂いがするところであれば、少しは落ち着けるかもしれない。そう思って、翠は初めて自分の足で一生懸命走った。
辿り着いたのは、大きな動く水があって、道から外れた斜面に木や草がいっぱいある所。
見渡すと、遠い場所に金属で出来た大きな水を渡る為の物があって、その上を金属の四角い蛇が大きな音を立てて通っていた。
それでも、その不快な音は随分遠くて気に掛けるほどではなく、それよりも緑と水の匂いに触れていたくて、一休みすることにした。
にぃにの部屋から、さほど遠くに離れたつもりはないが、なんだか酷く疲れてしまったのだ。
あの変な臭いがまだ鼻の奥に残っているし、灰色のべたべたする埃が体に貼りついている。それに、にぃにやねぇねやにぃにの部屋から感じていた優しい気が、どこにも感じられない。そのことが思いがけず心細く、自分が頼りなくなった気がした。
ともあれ、緑と水のある所に来て落ち着いたので、汚れてしまった毛皮の毛繕いをしながら、少し冷静になってことを考えた。
ほんのちょっと外に出ただけで、翠は自分が守られていたことが判った。閉じた小さな世界であるあの部屋が、翠を守っていたのである。悪い気に触れさせない為に、翠が戸惑うほどの異質な外に触れさせない為に。
『でも、どうして? ボクが仔供だから? だからご飯もたべろっていうの? いやなのに……』
返事を期待しての呟きではなかった。が───思いがけず近い場所から、知らない声の返事がある。
『ご飯が嫌だって?
いつからそこに居たのか、体の小さな雉猫が日向ぼっこをしていたのだ。やや荒れた毛皮からしてそれなりの歳の猫のようだし、猫語での話し掛けだったが、問題なく理解出来た。
『ボク、ミルクしかのんだことないの。ご飯は臭くていやなの』
初めて普通の猫と話すことにドキドキしながら、まだ裏も表もない翠は正直に答えた。
見知らぬ雉猫は、閉じていた片目だけを開け、翠をしげしげと見る。そして溜め息混じりに、仕方がなさそうに云った。
『坊や、成りは大きいけど、もしかしたら赤子なんだね。仕方がない。ちょっとこっちにおいで』
全く動く気配のない雉猫からは、害意は感じられない。
それだけではなく、何か───何かとても大事なことのような気がして、翠はそろそろと自分より小さな雉猫の傍に近づいた。
『わたしは、最後の仔供を亡くしたばかりでね。乳が張って辛いんだ。だから、わたしを楽にしておくれ』
雉猫は、翠の前に無防備に腹を晒し、翠が一度も得た事がない母猫の母乳を与えてくれた。
温かな母猫の肌の温もり。
乳房から与えられる、優しい匂いの温かな乳。
一度もそれを経験した事がないのに、翠は両手で雉猫の乳房を刺激しながら、夢中で飲み続けた。
『いいかい、坊や。わたしもご飯を食べなきゃ乳は出ない。坊やも乳を卒業したら、ご飯を食べなきゃ、体が丈夫にならない。坊やは男の子だからね。ちゃんと食べて大きくなって、大切な奥さんや仔供を守れるようにならなきゃ』
乳を飲み続ける翠の毛繕いをしながら、小さな雉猫は本当の母親のように云い聞かせた。
温もりや本当の母乳を味わいながら翠が感じていたのは、いつか何処かで感じていたことのある、脈動する優しい生命の音だった。
すぐ傍にあった筈の生命の音。
いつの間にか消えてしまった───翠の中に吸い込まれてしまった。
乳を与えてくれた雉猫に、言葉に詰まりながらそう云うと、彼女は喉を鳴らして笑いながら云ったのである。
『莫迦だねぇ、そんなことを気にしていたのかい?』
そんな、二匹の猫の親子関係を越えた、温かな交流を見ていたモノがいた。黒羽環が、自分の目として送り込んだ一つ目・三本足の鴉である。
鴉は、もう大丈夫だと状況を見極めると、自らの主と
その後、初めての大冒険(家出)から戻った翠は、大人しく出されたご飯を食べるようになった。
「ありがとう、ご飯を食べてくれて」と、僕が云うと、『やくそくしたから───にぃに、ご飯をありがとう』と答えてくれた。
養い親である僕・瑛士と茜がその約束を知るのは、もう少し時間が経ってからのことである。
『坊や、それは当たり前だよ。わたしのように沢山の仔供を産んでも、大人になるのは少しだけ。沢山産まれて沢山死んで、少しだけが大人になって子供を産む。それが繋ぐということだよ。わたしはもう歳だから、次の仔供は無理だろう。最後に産んだ仔達も亡くなったけど、坊やがあの仔達が飲む筈だった乳を飲んでくれたから、あの仔達の生命は坊やに繋がったのさ。だから坊やも、きっと───』
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