ロスト

小欅 サムエ

ロスト

 暑い日差しが照り付ける、午後二時。うだるような暑さに心が折れそうになるも、天気予報によると、この晴天は長く続かず各所でゲリラ豪雨が発生するらしい。この暑さも、恐らく夕暮れには豪雨によって多少なりとも改善されることだろう。


「それにしても暑いな……」


 河川敷を一人歩いていた私は、誰に告げるでもなくそう言葉を漏らすと、徐に土手へと倒れ込み、目を瞑る。その拍子に青々と茂る雑草から漂う、何とも心地のよい若い香が鼻腔をつく。


 こんな風に、年甲斐も無く草原に寝転がるのは、一体何年振りだろうか。


 幼いころ、このような雑草の生い茂る場所は至る所に存在した。それこそ、綺麗に舗装された道を探す方が難しいくらいに、である。


 だが歳を取るにつれ、地面に横たわる機会は失われた。都心の会社に勤め、立派に妻子を持った私には、子どものように地面に寝そべる勇気はもう無かったのだ。


 衣服が汚れてしまうから。他人の目が気になるから。歳を取ると、起き上がるのには結構体力が要るから。そのような下らない理由で、私は童心を捨て去った訳である。今となってみれば、何とも浅薄な思慮だ。こんなにも、生命の息吹を感じることが出来るというのに。何と勿体ないことをしてきたのだろうか。


「ふっ……」


 自分自身に呆れ、失笑が口を衝いて零れ落ちる。その刹那、私の人知れない笑い声を掻き消すかのように、一陣の風が吹き抜けていった。


 ざわざわと、耳もとで細い葉が擦れて不思議な音色を奏でる。少しこそばゆさを覚え、目を薄く開けた私は日差しを手で遮りつつ、空を仰ぐ。羊が牧場を闊歩するかの如く、ふわふわとした白い雲が蒼天を飾る。


 ただし上空の風はかなり荒れているらしく、羊は羊でも、牧羊犬に追いかけまわされるタイプの羊に近いか。もしくは、祭りの露店などでよく見かける、綿あめ製造機の内部とも似ている。延々と白い糸状の水飴が出てくる、アレだ。


 思えば綿あめも、大人になってから久しく口にしていない。息子が小さかった頃は、よくキャラクターの描かれた袋に包まれた綿あめをせがまれたものだ。そのお零れを頂戴して以来となるから、もう数十年近くになるか。


 ただ、口当たりがふわふわとしているだけで、実態は単なる砂糖だ。大人になりこの事実を知ってしまえば、その魅力は大きく低下する。


 それでも何故か、とても美味しかったと記憶している。甘いだけであると知っているのに、今でもどこか御馳走のようにすらも思えてしまうのだ。不思議なものである。


 せっかくだ、この後息子に綿あめでも買っていってやろう。どうせ食べないとは思うが、この味を少しでも思い出してくれれば、プレゼントとして充分だ。


 すると、脳内へ思い出の味が広がると同時に、腹の虫が高らかに声を上げた。食いたいのならばもう少し黙っておけ、と心の中で腹の虫を叱責し、また静かに目を閉じようとする。


 だが、そんな私の行動を阻止する不逞な輩が出現した。


「ん?」


 陽光を防いでいた私の右手人差し指に、一匹のてんとう虫がどこからともなく舞い降りたのだ。つやつやとした赤い背中が、光を受けて宝石のように輝く。


 先ほどの強風に煽られ、その辺に生えていた草木から飛来してきたのであろう。しかし、無断で私の指に止まるとはいい度胸だ。


「おい、てんとう虫さんよ。老いぼれの指が枯れ枝に見えたか?」


 もちろん、私の言葉にてんとう虫が返答することはない。だが、何となく私の存在を見つけてくれたような気がして、話しかけずにはいられなかったのだ。決して気が触れた訳では無い。


 てんとう虫といえば、妻が私とのデートで最初に纏っていた服が、てんとう虫のような水玉模様だったか。朗らかな彼女に負けないくらい、強い赤と白の水玉模様の衣装は、今でも鮮明に覚えている。


 現在は個性的などと評されるのだろうが、当時では奇怪以外の何物でもない。周囲の目を気にした私は、初デートであるというのにも拘わらず恥ずかしさのあまり、彼女とほとんど会話をしなかった。まったく、思い返せば私は本当に矮小な人間だった。


 まあ、この件については結婚してからもずっと指摘されてきたし、つい先日も同じく言及されたので、そろそろ罪滅ぼしは済んだと思うのだ。いい加減、過去の罪から私を解放して欲しいものである。


「罪、なぁ……」


 この際であるから、もういっそのこと、あの時と同じような服を買ってみようか。未だじっとしたまま動かない、この指先に止まるてんとう虫にも負けないくらい、綺麗な赤い服を。


 もちろん、妻は着ないだろう。しかし、何となく……そう、本当に何となく、なのだが。彼女はそれを待ち望んでいるような、そんな気がするのだ。


 小さく溜息を吐き、綿あめのような雲、それにてんとう虫を交互に見つめる。これは何かの暗示なのかも知れないな、と心の中で嘯き、重い体を動かそうとした時であった。


「っ……」


 またも、大きなつむじ風が吹き荒れた。先ほどよりも弱かったのだが、不意をつかれた私は思わず目を瞑る。若草の香は吹き飛び、代わりに川の方から湧き上がる湿った土と水の匂いが周囲へと漂う。


 しばらくそのままじっとした後、耳に届いていた騒めきが消え去ったことを確認した私は、ゆっくりと瞼を開く。変わらず目の前の世界には青い空と眩い陽の光が映っており、何一つ変化はない。


 だが、私の指先に止まっていたてんとう虫はどこかへと飛び去り、上空を漂っていた雲は一つ残らず消えてしまっていた。まるで、世界の中から私の思い出だけが消え去ってしまったかのようである。


「消えた、か……」


 少し残念に感じつつも、身を起こして川の水面へと視線を移す。風があるせいで少々波立っているが、陽光をきらきらと眩しく乱反射している。その眩しさに目を細め、先ほどてんとう虫の止まっていた右手人差し指へと視線を落とす。


 不思議な偶然が重なったものだ。私の愛した二人との記憶が、今になって呼び起こされることになるとは。二人と同じように、雲もてんとう虫もどこかへ消えてしまったが、そのおかげで私の心には確かに、あの時の楽しかった記憶が蘇った。


 こうして地面に寝転んだおかげで、私は過ぎ去った日のことを思い出せた。二人との楽しい思い出を、楽しい気持ちで。


 最近は、二人の嫌な顔しか思い出せなくなっていたのだが、これで少しは頑張れそうな気がする。なにせ、私はいつも二人の笑顔に元気を貰っていたのだから。


「……よし」


 両頬を軽く叩いてゆっくりと立ち上がり、元来た道を引き返す。二人が笑顔になれるように、綿あめと、てんとう虫に似た水玉模様の服を買うために。

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