第8話 薔薇と油像と聳える黒金
私の記憶の始まりは、聳える塔の元、ゴミ溜めの中からだ。
魔女を狩るような時代ではさして珍しくはない場所。
ありふれた、怨嗟と、憎悪と、死と、腐臭の物語。
酷い孤独と飢えと寒さの中、ネズミと蛆虫だけを友として、そして生存競争の相手として生きながらえた。
私を私たらしめるのは、染み付いた腐臭と獲物を見つける嗅覚だけだった。
幾度も燦然と輝く陽は昇ったが、影は相も変わらず揺るぎなく聳え、私は私の姿もわからぬままだった。
日がなゴミと呼ばれるそれらを頬張り、味も知らぬまま嚥下し、太陽に照らされていない大地を這いつくばりながら生きながらえる。
私にはそれこそが産まれてから十数年間の、否、私が私である前の一生であった。
そんなある日、私の穴蔵に奇妙なものが降ってきた。
それは薔薇の髪飾りと、魔女の軀。
それも、複数。
磔刑に処されただけでなく、墓穴など掘っても貰えない無様な生き物だった。
私は、恐ろしかった。
私と鼠と蛆虫以外の生物、それも私よりも大きな生物など生まれて初めて見たのだから。
特に住処にゴミを投げ込まれたことに対する怒りというものは感じなかった。
魔女の軀と恐怖心で私の庭は埋もれていったが、抗議する知能も言葉も立場もない。
私には恐怖しかなかった。
その物が苦痛で歪んだ顔をしていても、来世の安寧を願っていても、最後に神に縋っていても、私にはそれが、私を糾弾しているようにしか見えなかった。
私には何も無かった。
何者でもなく、誰でもない。
世界から私は除外され、ただ虚しく、産声を上げることもなく朽ちていく。
人間に産まれ落ちることが罪だと言うかのように。
それから黒い影はさらに黒く影を落とし、私の住処は魔女の死体で埋もれて行った。
昏い穴のそこで、私は、静かに息をしながら、軀に押しつぶされながら、誰にも知られることなく。
静かな何かが私を持ち上げるのを感じた。
恐怖は軈て、克服される。
住めば都とはよく言うが、私にとっては早くも捨て去りたい廃都となりつつあった。
暗闇の中で鈍く輝く、薔薇の髪飾りを握りしめて。
その時の私の内にはろくな食べ物も無く、骨と皮だけの肉体を支えるだけの感情が、渦巻いていた。
力強く踏み出した裸の足は、尖った岩がくい込み、赤く化粧を施される。
それでも気丈に聳える塔をめざし、山道に踏み込んで行った。
しかし、死にかけで食にも飢えていた私の体はいとも容易く崩れ落ちた。
人々が恐れる真紅に。
街へ行くための崖すら、私には遠かった。
行き倒れ、命つきかけた私の前にその人は現れた。
濡れた烏羽のように素晴らしい黒色の髪。
「大丈夫ですか?今、手当してあげますからね」
私は、またしても恐れた。
未知の現象、〈言葉〉と言うものが目の前に現れたから。
ただ、私には逃げることは叶わなかった。
できるのは紅く染った上に更に降り積もる雪に埋もれて、命の溢れる音を聞きながら、近づいてくる生物を眺めることだけ。
雑踏の音などとうに意識にはなかった。
私の恐れなど知らず、その人は私を家へと連れ帰り、風呂に入れて腐臭を落とし、暖炉の暖かさと健康的な食にありつける事の至福、そして寝床の温もりを与えた。
その食事の時にその人は私に名乗った。
「私は、〈炎の魔女〉リミエームです。あなたは…そうね、アンナ、アンナというのはどうかしら」
私の恐れは解きほぐされ、溶かされて言った。
炎に当たった雪のように。
じわりじわりと。
こうしてリミエームと暮らしていくうちに、いつしか言語を解するようになり、人と関わることを知り、魔術を知った。
リミエームは魔女だった。
私の母であり、魔術の師でもあり、そして何より命の恩人である。
私はリミエームに報いようとひたむきに努力をした。
「いいですか、アンナ。魔術は無闇矢鱈に使ってはいけません。使うなら、あなたや人の命の危機の時にだけ使いなさい」
私にはその言葉はよくわからなかった。
もちろん、手垢に塗れた辞書で言葉の意味を引くまでもなく、私の頭にはその言葉の定義一つ一つが懇切丁寧に保管されている。
言葉が難しくて理解できないという訳では無い。
言っている意味は理解はできても実感を得ることも納得することも無いのだ。
経験とただ知っているだけとでは全く違うことなのだから。
魔術を無闇矢鱈に使って痛い目を見るどころか魔術を使ったことすらない私にそれを納得しろというのは酷だろう。
でもリミエームを悲しませたくは無いので私はその言葉に素直に頷いた。
リミエームは嬉しそうに微笑んで、私の頭を撫でて授業の続きをした。
魔術とは才能の世界。
生まれによって左右される絶対の理。
運命はまた、私の前に立ちはだかった。
しかし、運命に屈するには私は幸せすぎた。
薔薇の髪飾りをトレードマークに私は名を上げていった。
しかし、それが巡り巡って牙を剥くなどその時の私には全く想像もつかなかった。
私の住処が埋もれたように、その街も魔女への弾圧は厳しかった。
理不尽に所構わず降りかかる死の火の粉。
それから逃れようとする者は混沌を覆い隠すための欺瞞に満ちた秩序を神とし、そしてその歪んだ安寧に身を委ね、自らよりも生の先をゆくものに死を押し付ける。
それで自らは安心しているのだ。
死や恐怖といった形の無いものから逃れるために自らの手で御しきれない恐怖と秩序を形作り、狩る側も狩られる側も、怯えるものは大きな影と熱に浮かされ、踊らされていた。
私の知るちっぽけな世界は悉く醜かった。
私の住処も、私の故郷も、何もかも。
ただ、一人を除いて。
リミエームは表では巨大な
街の人々は闇夜に炬に身を寄せるかのように彼女の元へ集まった。
虫のように集り、憎悪と狂信という欺瞞の炎に身を焦がして。
だが、炬は温め包みもするが、自らの姿を鮮明に映し出してもしまう。
爛れた傷口を、醜い体を、おぞましく、酷い自分を。
そしていつしか醜い自尊心を守るために憎み、粗を探すようになる。
私は知らなかった。
それを知るには人の心の内に潜む闇は深すぎた。
そんな闇はどんな辞書を引っ張り出して破れるまで目を通しても、浮かび上がってこなかった。
闇の中に闇がある故に。
悪意の中でしか悪意は悪意という貌を持たない。
ある日、奇妙な油像を手に持った中年の男が来たかと思うと、リミエームと私を魔女だと糾弾し、捕らえ、磔刑に処した。
私はそこでようやく悟った。
ひとつ、私の短慮な行動でリミエームを危険に晒したこと。
ひとつ、愛すべき隣人は裏切ったのだということ。
ひとつ、私はここで死ぬということ。
私たちは牢に入れられ、三日の投獄の後、街の広場で処刑されることが決まった。
髪を引っ張り、尊厳を踏みねじり、ヨダレを垂らしながら磔刑の準備を見つめるその男は今までの中で一番醜く見えた。
歪んだ正義が産んだどうしようもない
広場には親しかった隣人たちが所狭しと並んでいた。
私は諦めきれずに声を張り上げた。
「私は、私のことはどうでもいい。お願いだから師匠は…リミエームだけは見逃して!みんな、リミエームの事は好きでしょ!?リミエームは孤児を何度も救ってた!おばあさんの難病も治した!冷害だって対処したし、魔獣も退けた!」
「それがどうした。貴様らのような魔女がいるから世界の理が歪むのだ!身から出た錆ではないか!それを解決したなどと餓鬼の断食では無いか、馬鹿馬鹿しい。当たり前のことを善行らしく言い立ておって!いいか、卑しい魔女共!そもそも貴様らは産まれただけで世界が歪むのだ。【魔術】などという外法な技など使うから我々人類が被害を被るのだ!貴様ら下賤の血は罪を償うべきだ!死んだからと言って償いきれるものでもないが、慈悲だ。産まれ落ちた罪を、原罪を、死ぬことによって償うのだ!」
醜いものが吠える。
反論ですらない、妄信と狂信の戯言。
それに反抗する声は飛ばない。
それどころか人々は炬をもって狂信と炬の熱に浮かされ、私たちを殺そうとする。
リミエームが魔術で私の縄を解き、逃げる助けをしてくれた。
ただ〈炎の魔女〉の【魔術】は決して人々には向かなかった。
──そうすれば生き残ることも出来たのに。
「アンナ───生きて」
「──リミエーム…お母さん!置いてかないで!」
「ごめんなさい、あなたに魔女の責務を背負わせてしまった。ごめんなさい。私は駄目な母親ですね」
その言葉と共に槍が突き出され、身体中を串刺しにし、車輪が四肢を砕き、炎が身を包む。
〈炎の魔女〉が炎に包まれ、果てるのはなんと皮肉なことか。
炎によって生きるものは炎によって還る。
そして破滅の卵はその熱を持って孵化する。
私の手には薔薇の髪飾りとリミエームの灰と魔術だけが残った。
三ヶ月も魔術だけ、復讐だけを考えた。
言葉を見る度に、風呂に入る度に、寝床につく度にあの温もりが消えたことを再確認し、憎悪が焚べられる。
私の復讐は三ヶ月後に成就した。
他ならぬ私自身の手によって。
私こそが〈炎の魔女〉。
そう世界に焼き付けるように。
魔女と異端の僧侶の皮を剥がして、磔刑の燃えカスの骨を組み合わせた像に祈る愚者共と私の住処は悲惨な記憶とともに炎に焚べられた。
──新しい世界への供物として。
【焼け焦げた紅い記憶】
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