平衡の果て

時と空の最果てに……

 凍てつく氷原は拡がる。無限の彼方にまで拡がっているかに見え、白一色に染め上げられたそれは果てなき凍結の連鎖と言える。

 空もまた白い。しかしその白は雲などではない。拡がる空一面が完全な白の彩りを表現していたのだ。だがその白の背景の中に薄い灰色がかった球体が見えていた。月のように見える。その月のようなものは全部で三つ見られる。彼方に山脈があるのだが、その直ぐ上に一つ、そこから天頂付近に向けてほぼ等間隔に並んでいた。最後の一つ――天頂付近にあるもの――は何と三分の一ほどが欠けている。まるで何者かにかじり取られたかのように見える。

 山脈上空より天頂に向けて並ぶこれら三つの月は、この世界の衛星と言った所か。静かに浮かぶ そのさまに、しかし生気の様なものは全く見られなかった。

 果てしなき白一色の世界は、天も地も全てに一切の躍動が見られない。この世界は完全に“死んで”いるように思わせる。


 静かだ――底知れぬ静寂が その世界を覆っていた。

 

 ふと見ると黒いものが氷原を移動しているのが分かった。それは余りにも小さく白い背景の中に容易に呑み込まれてしまいそうにも見えた。それは何なのだろうか?

 視点を寄せてみる。


 人間だった――少女のような姿をしていた。十五、六歳くらいの年齢に見える。ほっそりとした顔立ちをしていて、鼻と口は小振りだ。身長は比較するものが見当たらないので判然としないが、あまり高くはないと思われる。髪は白銀に輝いていて、長く真っ直ぐなそれは腰の辺りまで伸ばされていた。そして肌は白い、しかし周辺の世界の白さとは一線を画していた。瞳の色は分らない。目を閉じているからだ。だが足取りに覚束なさなどは全く見られず、しっかりとしたものだ。

 黒い喪服の様なドレスを着ていて、腰の辺りは まるでコルセットで締め付けた様に細く締まっていた。あまり防寒性は高そうにも見えない装いに見える。氷原の気温が定かでないので分らないのだが、周辺にある物体の凍結具合から氷点下は確実だと思われる。


 少女は寒さを感じないのだろうか?


 ドレスの黒さは周囲の白に対し著しい対極を現し、故にそれが彼女の存在を際立たせていた。少女は確たる存在感をその氷原で表していたのだ。


 今、たった一人で氷原を歩いていて、他に人影は見られない。この世界で動く者は彼女しか見られない。 彼女以外に何一つ見られない。


 何故、少女は こんな所を歩いているのだろうか? たった一人で、何のために?

 何処から来たのか、何処へ向かっているのか?


 彼女は何者なのか?



 巨大なコブの様なものが少女の行く先に現れた。数は多い、一定の方向に規則正しく並んでいるようだ。少女は立ち止まってそれらに顔を向けた。

 “それら”は巨大なものだった。それぞれ全高にして三十m近くはありそうだ。全て凍り付いているのが分かる。よく見ると“それら”には脚のようななものが見られる。うずくまるように折りたたんでいたので遠目には分らなかったのだが、それは生物の脚のように見えた。

 “頭部”らしき所に牙の様なものが見られる、二本ある。その間から管みたいなものが伸びていた。鼻のようなものに見える。

 “それら”は象、或いはマンモスに似た姿をしている。何らかの生物である事は確実だ。それがこの地で隊列を組むようにしてうずくまっているのだ。動きを一切見せないそれは骸の群れとしか思えない。


 群れを築いて移動していたのか? しかし群れは やがて力尽き、この地で果てたというのだろうか? だが この規則正しく隊列を築いたまま朽ち果て凍結している姿は、何処か妙にも思える。


 如何にして群れの全てが絶命したのだろうか?


 何かに襲われたのか? 表面が厚い氷に覆われていて今一つ正確な観察ができないので断言はできない。外傷らしきものは一切 見られず、よって何かの襲撃があったとも考え難い。

 疫病なのか? 或いは餓死? 寒冷化が進み食糧不足となった事は考えられる、しかし――――――


 それでも この規則正しい骸の隊列は異常なもの思えた。


 まるで進んでいた群れに急激に冷気が襲いかかり、一瞬にして全てを凍りつかせたかのように見えるのだ。そんな妄想が拡がる。

 

 少女は頭を下げ、再び歩き出した。彼女は そのまま進む。群れに対し二度と振り返る事はなかった。関心など大して無かったのかのように、その顔の中に一切の表情は読み取れなかった。



 暫くすると小高い丘が少女の行く手に現れた。彼女は真っ直ぐ歩き続け、その丘を登り始めた。そして程なく“それ”と対面した。


 “それ”は樹木だ、樹木にしか見えない姿をしている。丘の頂上付近に唯一本 生えていた。いや、そびえていると言った方がいいのだろうか? それは極めて巨大で、天を覆わんばかり、高さを一見して測ることはかなわない。幹の幅もかなりのもので、百mは下らないのではないか? 枝の拡がりも……やはり一見して測れるものではなかった。世界そのものに聳え、天上を貫かんばかりの存在感だった。


 しかしその巨大な姿よりも注目すべきものがあった。

 樹木は凍結もせず、枯れてもいなかったのだ。それどころか青々とした緑黄の葉を繁らせ、生命に満ち溢れている姿を顕していた。それは全てが凍結した白の世界に比して異常とも言える姿だった。

 少女は樹木の眼前に立ち止まる。


 世界樹――何処からともなく そんな言葉が浮かんでくる。それ程の威容だった。

 そして、その威容より声が響き渡った。


「至ったか、<因果の使徒>よ」


 樹木は言葉を操る。重厚なる響きは世界の全てを震わせるかのようだった。だが少女は臆する風を一切見せず、厳として己がおもてを威容へと向ける。そして口を開いた。


「然り、<現界の識体>よ」


 小さな口より放たれる声は乾いたハスキーなものだった。外観に反して、仰々しい言葉づかいをしている。

 <現界の識体>という名が、世界樹を指すらしい。


 少女は世界樹と対峙するかのように立ち、そして世界樹と会話を行う。この巨大なる樹木には、どうも思考し会話する能力があるらしい。


「満足したか、因果の使徒よ」


 世界樹は語りかける。<因果の使徒>という名が少女のものらしい。


「満足などというものはない。我は摂理の代行者であり、その任に感情の入り込む余地はない」


 少女は応えるが、言葉の通り そこには一切の感情の存在もうかがえない。


「無情なるかな、汝・因果の使徒よ。数多ある命の嘆きを聞き遂げぬのか?」


 轟っといった感じで一陣の風が吹き過ぎた。それは暴風の如き激しさを持っていた。丘一帯に降り積もっていた積雪を一瞬にして吹き飛ばすほどの勢いがあったのだ。

 いや、薙ぎ払ったと云った感じだ。


 少女は、しかし微塵もひるむ様子を見せず応える。


「現界の識体よ、繰り返すが我が任は摂理の代行である」


 少女は顔を上げる、世界樹を正面から見据える姿勢を取る。但し、未だ目は閉じたままだ。


これは多元の機構からくりの下に築かれた、複相世界ののりなり。我は無限に分かれいずる万象の世界に対しのりを示すしるべなり」


のりなるか? この万物が、滅却への途を強いられたさまが――」


 世界樹は言葉を切る、その声はいささか震えていた。

 世界の全てを覆う凍結の有り様を指して、“滅却への途”と世界樹は評したのである。


しかり、万物は変転の流相の中に在る、例外はない。複相世界に数多ある万物に課せられし定めだ」


 白の空に何かが現れた、それは渦の様なものを形成させつつある。それは雲などではない、空間そのものが渦を巻きつつあるものだった。


「現界の識体よ、世界内存在たる汝に この真理を悟るのは難儀なのかもしれぬ。しかるに、汝ら世界内存在もまた識ることができたはずだ」


 少女は噛みしめる様に語りかける。


「複相世界は例外なく無秩序への途を進むもの。無秩序の極大の果てに万物は熱的平衡を向え、静寂の淵に眠り落ちるのが定めなのだ」


 少女は首を回す。世界樹を眺め渡しているかのようだ。


「この法則を汝らの一部は識り得たはずだ。世界内の個々の地に於いては、成程 無秩序の抑制は可能だ。事実 汝らは己が地に秩序をもたらしはした。然し――だ。それは他の世界に無秩序、即ち熱的力量を捨て去る事により ようやく実現するものだ」


 上空の渦は更に激しさを増している。


「究極に於いては、複相世界全体の無秩序を増大させる事には変わらない」


 少女は言葉を切る。その間隙を突くように世界樹は言葉を差し挟む。


「因果の使徒よ、されどそれは知在りし者の自然なる振る舞いなるぞ」


 世界樹は、抗議する様に云う。


「否、世界は一つに非ず。復相世界は数多に重なり、そして無限に連なる。現界の識体よ、汝らが進めし秩序維持の方策は畢竟ひっきょう、復相世界の全てに影響を及ぼすのだ。それはいずれ復相世界を束ねる<多元曼荼羅>の全てを破壊する事に繋がるのだ」


 渦の中に閃光が走った、雷鳴の如き轟音が響く。


「多元曼荼羅は内包する復相世界の生成流転の上に築かれる宇宙秩序の制御機構。故にこそ一つの世界の滅却は必然の定め――例外はない。滅却あればこそ新たな世界は築かれ、そして曼荼羅は廻り万象の進化は続く――」


 風が吹く、少女の髪が乱される、世界樹の葉が散らされる。


「それでも我らは“命”――命在る者。自らが生きんと欲するのだ!」


 地面が揺れた、世界樹の周りから無数に蔓の様な物が飛び出してきた。


「抗うか、何処までも? もはやこの地に未来さきはないぞ」


 冷酷とも言える響きを伴った声だった。


「応とも、抗い挑む。其は我らがサガ、我らが自然、我らが摂理なるぞ」


「繰り返す、最早 此の地に未来さきはないのだぞ?」


「それでも我らは挑むのだ、何故ならば――」


 世界樹は言葉を切る、そして――――


「これこそが命なるものなのだ!」


 激しく叫んだ。呼応するように蔓が跳ね上がる。


「未来永劫たる絶対不変などない! 万物が変転の流相の中に在るのならば、それは摂理にも当て嵌まる! 我は自らが属せし宇宙せかいの再生を果たす。これは我に連なる現宇宙 全ての知――そして命の悲願だ!」


 蔓はうねり、衝撃波すら発してくうを奔り、一斉に少女に襲いかかった。


「フム、のりの変革を望むのか、それもまた一興」


 静かな笑みを浮かべ、事もなげに言う少女、ここで初めて目を開いた。蔓が一瞬 怯んだ様な挙動を見せた、明らかに少女の開眼に反応したのだ。

 その瞳、それは注目せざる得ないいろどりを示していた、それは――――


 それは、黄金だった。黄金に輝く瞳だったのだ。輝きはいや増しに上がり、少女は激昂するような貌を表す。そして天をつんざくかのような叫びをあげる。


「因果よ、真実を示せ!」


 そして両の腕を高く上げた。呼応するかのように上空の渦より雷光の如き光の筋が走り、瞬く間に地に打ち付けられた。それは世界樹と少女を等しく巻き込む。

 辺り一面は激しい白色の閃光に包まれ、何物も見分けるは叶わぬ白い闇が出現する。


 そして――――


 そして全ては消えてゆく――――



 凍てつく虚空が拡がる、虚空のみが拡がる。そこには星も何もない、素粒子一つさえ見られず、ブラックホールさえもが蒸発し去った世界だ。

 それは全てが平衡を迎えた無秩序の極限、宇宙の成れの果て。力はすべからく等しくなり、流れは消失。一切の変化を生み出すことは叶わぬ終局の果て。

 もはや動くものなど何ものもない。生も死も、物質も放射も、時と空が生み出した平衡の中に散らされ滅し去りし世界。やがて時と空も微塵へと消え果てるだろう。


 無限に重なる多元宇宙の中で、その世界が寿命を終えようとしていたのだ――――

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平衡の果て @bladerunner2017

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