空気伯爵と綱渡り人形

倉沢トモエ

硝子瓶

第1話 硝子瓶(一)

 風は水平線の向こうから、轟々と吹き付けてまいりました。

 穏やかな満月の晩、と、やんごとのないどなた様もが〈欠けたることもなしと思えば〉、安穏としておりましたこの宵ですが、穏やかな晩などとはとんでもない。風を読んだ腕のいい漁師たちは早々に陸に上がり、家で酒をなめて寝ていたのですから、たずねる相手を間違えたのでしょう。

 月はたちまち黒雲にかき消され、辺りは闇、また闇。


「なんてこったい、コンコンチキの、こんちきしょうめ」


 誰も見てはおりません。

 誰も聞いてはおりません。

 梅の花びらのような口から、そんな悪態。


「こんなことじゃあ、おかに着けるかわかりゃあしないねえ……おっと、」


 手明かりもない中、足もとが波にすくわれそうになるのを、ひょい、っと、かるい足取りで避けました。


「やれやれ、前が見えやしないよ」


 それが一等難儀である模様。

 誰も見てはおりません。

 しかしひとたびごらんになれば、なんという奇態とあきれることでしょう。


「コンコンチキめ」


 さっと、顔をひとなですれば、あやしく光る、金色の目。

 そんな猫目が、見事な猫踊りで、ひょいひょいと。

 渡っているのは、荒れ狂う海の上。

 そればかりか、叩きつける雨と風でさわさわと泡だつ上におりますのに、当の憎まれ口は、ちいとも濡れてなどいないのです。

 その姿。

 稚児髷に結った前髪は風に揺れ、金糸銀糸とまではいかないが、緑と橙と赤とで見事な牡丹の花模様。

 そこをきりりとたすき掛け。

 大事な裾は端折って、まア、ここには久米の仙人も居りはしないからいろ気は気にせず、黒の下穿きと足袋という姿。

 ははあ、これはとんぼ返りに綱渡り、娘軽業のなりだ。緋色の風呂敷背負って、嵐の海を歩いて渡るとは、これまたどんな趣向だと申すのでしょう。


「このまま夜が明けちまったら、」


 流木が波に飛ばされ、勢いを増して来たのを避けました。


「どこへ流れてゆくのやら、だ」


 向かう方角はこちらでよいのでしょうか。それもそのうち見失うよう。


「やれやれ、難儀だねえ」


 こんな晩、かしこい魚は水の底で大人しくしているものです。


「だけど、あたしたちには今晩しかなかったよ。アメンボほどにも身が利きやしないときたけれど」


 遠くに明かりが揺れているのは、やんごとなき方々の客船です。

 宵のくちには、花火を上げたり、めでたいものでした。


「くわばら、くわばら」


 ゆめ油断めさるな。

 今は遠く見えるその船の明かりも点いたり消えたり、大波に揉まれて上へ、下へ。


「ご用心、ご用心。

 ……なあに、万事あたしに任せて待っておいで。どうせみなさまがたは、沈んでサメのえさになったりはしないのさ。

 長く待たせは、しないつもりさ。いちかばちか、陸に着きさえすりゃあ、こっちのもんだよ」


 くるりと背を向け、行く先のくらやみを見据えます。

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