茶色いウサギ精神病院

 眠りすぎて頭がずきずきと痛む。それでもまだ眠い。眠り続ける。そして何日眠っただろうか。もう今日が何日の何曜日かまるで分からない。

部屋の隅に置いてあるおまるに胃の中のものを吐き出す。胃液しかでなかった。口の中が胃液のせいか酸っぱい。これまた部屋の隅に置いてある桶からヒシャクで水を汲み口の中をゆすいだ。そこへ、年老いた茶色い身体のうさぎが杖をついてやってきた。

「タヌキ君だね、ちょっといいかな」

「はあ」

「まあ、そこに座りなよ」

 相変わらず脳の中で声が聞こえる。余計な考えを払いのけるために頭をぶんぶんと振り回すと端っこにちょこんと座った。

「今日は天気がいいねえ」

「はあ」

「こんな日はお団子でも食べたくなるね」

「うん」

 ウサギ先生は懐から団子を取り出すと、タヌキに勧める。ウサギはその中の一つを取るとひょいと口に入れた。

「うまいねえ。どうだいタヌキ君」

「先生?」

「ここはどこなんですか?」

 ウサギはほうっと一息ため息をつくと言った。

「ここは茶色いウサギ精神病院だよ」

 精神病院と聞いて思わずつばを飲み込む。あの精神病院! 心を病んでしまったという人がいくあの場所! はあはあと息を吐く。あまりのショックに息がうまくはけないのだ。

「僕はここで院長をやっている」

「僕の病気は何ですか」

 ウサギ先生は脇に転がっていたわらを手に取りしばらくいじくっていたが、やがてタヌキの目を見据えると言った。

「君の病は統合失調症だ」

「統合失調症って?」

「聞こえないはずの物が聞こえたり、ありえない考えに囚われたりすることだ。まあ他にもいろいろと症状はあるんだけどね」

 力がほうっと抜ける。

「だけど心配しなくて良い。きっと君のことを治してあげる。だから気落ちしないで」

 もう話を聞く力が無かった。横になって目をつむる。相変わらず自分のことを罵倒する声や監視する声が聞こえる。何がなんだか分からない。何も分からない。


 もういやだ。もういやだ。もういやだ。


 僕は精神障がい者だ。気がおかしくなってしまったんだ。なんで? なんで? なんで僕が? 声が聞こえる。何も感じない。何も聞こえない。透明な空気だ。


 タヌキくんは気落ちしました。

 タヌキくんは涙を流しました

 タヌキくんは寝ようとしています。

 タヌキくんは社会の生ゴミです

 タヌキくんは社会の粗大ゴミです

 どうですか? 気持ちは? タヌキくん?


 黙れ黙れ黙れ黙れ!


 耳をふさぐが相変わらず声が聞こえてくる。精神がどんどんおかしくなっていく。

 もう辞めてくれ!


 苦しい! 苦しい! 苦しい!


 そして月日は流れに流れていく。病に冒されても無情に時だけは過ぎていく。セミの鳴き声がやみ、鈴虫の鳴き声が聞こえたかとおもうとそれもしばらくして鳴かなくなった。そして窓に雪が積もり始めた頃。ウサギ先生がまたやってきた。

「どうだね。調子は?」

「相変わらずです」

 ウサギ先生は半紙に筆で何かを書いている。

「自分の事を攻撃する声はまだ聞こえるかい?」

「はい」

「辛いかい?」

「はい」

「先生?」

 ウサギ先生は懐から人参を取り出しぽりぽりとかんでいる。

「何だね?」

「僕は生きていてもいいんですか? 何で生きているんですか?」

 ウサギ先生はふっと黙った。

「健康じゃ無くなったらその動物の動物権は無くなると思っているのかい?」

 今度はタヌキが黙る。ウサギ先生は優しいほんわかする目でタヌキを見る。

「君も生きていいんだ! 堂々と生きなさい!」

「分かりました・・・・・・」


 次の日から歩いて少し大きな家に移った。外は一面雪景色だった。しばらく雪景色に見とれていると、ウサギ先生が、

「そろそろ行こうか」

「はい」

 家の中はトイレと水を飲む桶のほかは何も無かった。床にはいくらか布団が敷いてある。

「こっちこっち」

 ウサギ先生が手招きする。隣に寝ている雀に挨拶をする。

「今日から君たちの仲間が増えるから、よろしくね」

 雀は軽くうなずくと布団を頭から被った。何人か同じように床に布団を敷いて寝ころんでいた。黒茶色の毛並みをした狐のハック。片方の耳が垂れていた。

ハックはいつも筆を持ち半紙に何かを書いていた。なんとなくのぞき見をした。ハックがそれに気づき声を出す。

「気になるかい」

「別に」

「そうか・・・・・・それならいいんだ」

 ハックが半紙の束に顔をうずめた。やっぱり気になる。

「ごめん。やっぱり気になるよ」

「そうなんだ。それならそうと早く言えば良いのに」

「うん」

「これは詩だよ。僕の感情を紙に書き残しているのだ」

「なんでそんなことをしているの?」

「書きたいからだよ。僕という存在をこの世に紙の一片でも残せたらってね」

「見るかい?」

 無言で半紙を受け取る。


 『冬の日』


 かあーん かあーん

 どこかで金属を叩く音が聞こえる

 おっかーさん! おっかーさん!

 どこかで子どもが母親を呼ぶ声が聞こえる

 夕焼け小焼けのまた明日

 どこかで子どもたちが遊び青春している声が聞こえる

 僕は・・・・・・ 僕は・・・・・・

 ある病室で持病を抑える薬を飲みながら下界の音を聞く

 こころがしーんとむなしくなるんだ

 こころがしーんとむなしくなるんだ

 今日も一日が過ぎていく


 その詩を読んだときに心に衝撃が走る。

「ふーん」とタヌキはつぶやく。それが精一杯の行動だった。詩を返す。

「どうも」

 ハックの目はきらめいていた。それから布団の中に戻る。やがて心にふつふつと怒りが沸いてきた。(こいつはなんでこんなお気楽なことをやっているんだ!)

「勝手にしろ!」

 怒りを吐き出すと自分の布団にもぐりこんだ。相変わらず幻の声が聞こえてくる。怒り、憎しみ、苦しみ、嫉妬、様々な感情がごちゃ混ぜになる。

「苦しい。苦しいよ。おっかさん!」

 あえぎながらはるか昔に生き別れになったおっかさんを呼ぶ。


 しばらくの月日を部屋で過ごす。ハックはいつも目をきらきらさせて半紙にいつも何かを書き込んでいた。その姿を見ているうちに苦しくなってくる。脳を流れる血液がどろどろと熱くのたうちまわっている感じがする。苦しい。苦しい。苦しいよ。苦しいよ。自分が苦しんでいるのにあいつは楽しんでいる。楽してる。僕は夢をあきらめなくちゃいけないのにあいつは楽しく夢を追っている。怒り、憎しみなどの真っ赤な感情がわき上がってくる。いつしか、


 ハックが憎い。ハックが憎い。ハックが憎い。

 ハックが目をきらきらさせて筆で詩を描いている!

 ハックが鼻歌を歌っている!

 あの気楽者のハックが憎い!

 ハック! ハック! ハック!

 ああ、ハックの全てが憎い!


 四六時中ハックのことばかり考えている。病気のことなんかそっちのけだった。さいわいハックのことを考えているときは何も声が聞こえなかった。ハックが憎い。僕が障がいで苦しんでいるのにハックは遊んでいる。


 許せない。許せない。

 ぶっ殺してやろうか


 そればかりかんがえていた。


 おえっ。


 びちゃびちゃと何かが口からどぼっと布団に流れ落ちる。下水道を流れている生臭い水のようにつーんと鼻につく。布団に生ゴミのような臭いゲロを吐いたのだった。そのままゲロまみれの布団に顔をうずめ悔しくて苦しくて憎くてずっと泣いていた。

 おかしくなる。思い切り笑いたくなる。泣きたくなるような苦しさのあまり笑いがこみあげてくる。ゲロまみれの身体で腐った魚のような酸っぱい臭いをまき散らしながらそして泣きながら、あはは、あはは、とずっと笑っていた。


あっはっは! あっはっは!

あっはっは! あっはっは!

口から朝食べた味噌汁がどぶっとあふれ出た。

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