水の回廊
詩悠
第1話
「美結」
呼ばれて目が覚めた。低く、落ち着いた声。私の大好きな声。誰の声か知らないけれど。
小さい頃から、たまに聞こえる不思議な声は私の名前を呼ぶだけで、他に何か語りかけてくるような事は無いし、周りに他の人がいる時に聞こえる事もない。直接、頭に響くその声は親や祖父、親戚、先生、知ってる他の誰の声とも違うけれど、私に安心感を与えてくれるし、どんなに深く眠っていても、聞こえた瞬間に目が覚める。しかも、目覚めはいつもすっきりしていて、この声に呼ばれた朝は2度寝も遅刻もした事がない。
目が覚めて、時計を見るとまだ、6時40分。アラームが鳴るまでに、後20分もある。けれど、眠気は全く無くなっていたし、久しぶりに聞こえた不思議な声に気分は良かった。今日はなんだか良い事がありそうな気がする。ここ最近、気分が落ち込み、やさぐれ気味だったのを思えば、2度寝なんかして、折角の気分の良さを台無しにしたくない。
カーテンを開けると、夏の空はすでに明るく、まだ早朝なのに、すでに外は暑そう。昨夜も熱帯夜の予報が出ていたから、温度を高めに設定したエアコンは一晩中、動いていて、静かにしている分には過ごしやすい部屋の中から、動き出した街並みを眺めた。学校はもう夏休みだから、学生は歩いていないけれど、会社が遠くにあるのか、スーツを着た人達がぽつぽつ歩いている。後は犬の散歩をしている人、ジョギングしている人…早朝でも割と人はいるんだなぁなんて、暢気に眺めていたら、バターの美味しそうな匂いが漂ってきた。
匂いに釣られて、リビングに顔を出す。
「パパ、ママ、おはよう」
「おはよう」
「おはよう、美結。早いわね。もうご飯食べる?」
「うん、食べようかな。顔洗ってくる。」
父が食べている、ふわふわのオムレツを見ながら、母に応える。
背を向けたリビングからは
「本当に一人で大丈夫なのか?」
と、問う父の声と
「もう高校生なんだから、大丈夫よ。空港までは私が送って行くし、向こうは母さんが迎えに来てくれるから」
と、返している母の声が聞こえる。
もう何度となく繰り返された両親の遣り取り。過保護だなぁと思いつつ、ゆっくりと、洗面台へと向かう。
8月に入って直ぐにあった部活の練習試合での事。コートの後方に入ったシャトルを何とか打ち返した所までは良かったが、体勢が崩れた状態から、左足を踏み出した瞬間、ふくらはぎに強烈な痛みが走り、倒れた。
直ぐに受診した整形外科での診断はアキレス腱炎。バトミントンをする選手には多い怪我らしい。一応、3週間の安静を言い渡された。そのため、その後の練習試合にも、部活の合宿にも参加出来なくなってしまった。
アキレス腱炎は軽いと3週間程度で治るが、重症化しやすく、そうなると治るまでに半年、1年と掛かると脅されてしまい。学生で、まだ若いからアキレス腱断裂までは悪化しないだろうけど、重症化しやすい怪我だから、くれぐれもこれぐらいなら大丈夫!と自己判断しないようにと診察してくれた医師に言われている。
急に予定の無くなった夏休み。怪我で歩き難くもあるし、動くと痛いし、不貞腐れ気味というより、思いっきりやさぐれてる私を見かねた母の提案で今日から母の実家に一人、行く事になっていた。
一人で飛行機に乗るのは初めてだから、父が心配してるんだけど…母の実家に行くのは毎年の事だし、一人でも大丈夫なんだけどな。過保護な父は心配で堪らないらしく、母や私と何度も同じ遣り取りを繰り返していた。
「気をつけてね。おばあちゃんとおじいちゃんによろしく。行ってらっしゃい!」
「うん、行ってきます。」
空港の出発ロビーで母からの見送りを受ける。母は随分と心配そうで、父に「大丈夫よ、もう高校生なんだから。」なんて言ってたけど、母自身もちょっと過保護っぽい。祖母が、向こうの空港まで来てくれる事になっているし、私が一人なのは出発ロビーから飛行機、そして到着ロビーまで。テレビでだって、小学校低学年の子が一人で乗って、おつかいしているのに。過保護ぶりが、ちょっと情け無くもあり、恥ずかしくも思いながらゆっくりと出発ゲートまで歩く。飛行機の指定席に無事に座り、ほっとひと息つく。自分で思ってたより、肩に力が入っていたのかも。ふくらはぎが痛かったというのもある。
でも、まぁ、私の両親が過保護ぎみなのはしょうがないかなとも思う。
私は一人っ子だが、母は私を産む前に一度流産し、その上、双子を死産している。私の生まれた後にも一人流産しているから、もし、全員生まれていたら、我が家は随分と賑やかだった事だろう。まぁ、私の前に3人も子供がいたら、私が生まれていたかは疑問だけど。
たいして大きな怪我も病気もした事が無かった両親にとって、立て続けに流産と死産を経験したこはとてもショッキングな事だったらしい。それはそうだろうと思う。その経験は2人に大きな影響を遺し、私に対する過保護ぶりも仕方ないかなぁと思わなくもない。まぁ、その過保護ぶりに甘えてる私が言えた事ではないのかも知れないけどね。
ほんの僅かなひとり旅、見るとはなしに外をぼーっと見ていた。
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