雪の陽気

あざらし

第1話

 わお、と知らず声が出た。

 カーテンを引くと、そこは雪国でした――なんて、アパートの二階から見渡せる範囲はたかが知れているけど、それにしても一面が白く染まった景色を見たのはいつぶりだろう?

 昨夜はおそろしく寒かった上に風も強くて、雪でも降るんじゃないのとは思っていた。積もるほど降るというのは、驚きだ。このあたりはあまり降雪に馴染みがない。

 吐息で曇った窓ガラスに、人差し指で雪と書いた。あめかんむりの向こう側で、庭先の寒椿の枝がしなり、積雪を振り払って大きく跳ねる。わたしはぶるりと身震いをした。着込んだ丹前の首元を寄せる。当然のことながら今日も相当に冷え込んでいる。水道の水で顔を洗うと、冷たすぎて痛いくらい。

 キッチンシンクでやかんに水を溜めて、コンロに掛ける。湯が湧くまでのあいだに食パンを切り分け、トースターのスイッチを入れる。お気に入りのマグにインスタントコーヒーの粉末を入れようとして、封を切る前に思いとどまった。

 今日はコーンポタージュにしよう。シンクの抽斗をごそごそとやり、奥の奥からぺちゃんこに潰れたパッケージを引っ張り出す。ちょうどひと袋だけ残っていて、なんとなくラッキーを拾った気分。そうしている間にやかんが汽笛を鳴らした。

 いつもと少しだけ違う朝食を摂りながら、携帯端末の電源を入れる。メールボックスには何の知らせも入っていない。路線状況を調べてみると、どうやら最寄り駅から大学までの電車はかろうじて走っているらしい。淡い期待の芽はしゅんとしぼんだ。マグを大きく傾けて飲み干し、わたしは上着を脱いだ。

 雪の積もっているところを歩くので、靴は濡れても平気なものにしないといけない。となるとわたしはスニーカーを履くしかなくて、それならデニムを合わせることに決めた。カジュアルになりすぎるのを避けて上着はステンカラー、防寒が不安だったので、中に白のハイネックニットを着た。教材を入れた学校用のトートを肩にかけて姿見の前に立つ。まあ、悪くないと思う。


 玄関の扉を開けて、わたしは思わずマジか、と呟いた。寒い、というか、びっくりするくらい風が冷たかった。もう一枚くらい下に何か着たらよかったかもしれない。とはいえ戻るのは面倒くさい。いま思うと部屋はあたたかかったんだなあなどと思いながら、鉄骨階段をかんかんと下りる。

 さいわい天気は回復して、庭の積雪は眩しいくらい光っていた。目を細めて見ると、まだ少しの汚れもなく、誰の足跡もついていない。普段は毎朝庭の手入れをしている大家さんも、今日はまだ部屋に籠もっているみたい。わたしはなんとなくうずうずとして、寒椿の下から庭の中心までに足跡を付けた。戻るときは後ろ向きに、たったいま自分が付けたスニーカーの跡に足を重ねる。行きっぱなしで戻った様子のない足跡を、誰か不思議に思ったら楽しい。

 門から外は残念ながら、すでに自動車の轍が積雪に線を引いていた。平均台のようにその上を歩く。雪の結晶と、それが溶けてもういちど固まった氷の粒が、小気味よくさくさくと砕けていく。足音がよく聞こえた。それで、町の朝がとても静まり返っていることに気付いた。あたりには人の姿も見えない。一限の授業に出るときはたいていいつも静かだけど、いつも以上に静かだ。雪が音を吸ってしまったのか、もしかすると雪のせいで人が眠りについたままでいるのかもしれない。誰もいないのをいいことに、わたしはピンク・フロイドの『ピロー・オブ・ウィンズ』を口ずさんだ。低く低く抑えた声が、風のハミングと嘘みたいに調和した。

 駅までの道に公園がある。小さな市民公園といった風情で、いちょうの並木が売りだけど、いまはすっかり裸になってしまっている。めぼしい遊具も備わっていない。角の方にスプリング遊具がふたつあるくらいだ。シロクマとユキヒョウ。確か、もとはパンダとトラだった。脱色された公園に用事のある人はそういないと見えて、積もった雪は新品だった。

 時間があれば寄っていってもよかった。携帯の表示を見て諦める。

 駅のそばまで来ても、なお人影はまばらだった。日頃からあまり混雑しない一限目に間に合う電車が、いつもよりいっそう空いている。先頭車両のいちばん端のシートに腰を下ろす。わたしが座るのを待って、電車は滑るようになめらかに動き出した。窓の外で風景が移っていく。移り変わっているはずなのに、見た目は白いばかりで代わり映えしない。まるで同じところをぐるぐる回っているみたい、そう思っているうちに、まどろんでいた。


 少しだけ眠って……大学前の駅名がアナウンスされたのが聞こえて、わたしは飛び起きた。トートをひっ掴み、あわてて電車を降りる。

 駅の地下から大学の校内へ、直通で繋がっている通路がある。トンネルみたいに薄暗い通路を通り抜けると、れんが造りの校舎に雪が積もっているのが見えた。

 ビーコンヒルのすてきな街並みをミニチュアにして、それをまた引き伸ばしたみたいな、普段の学内にはそういう野暮ったさが見え隠れしていた。それが白く彩られてみると、けちのつけようがないくらいきれいに見えた。細やかな雪がノイズを覆い隠してくれている。

 わたしは新雪をさくさくと鳴らしながら二号館に向かった。大学生は一限目をこれでもかと嫌うから、この時間の校内はひと気が薄い。今日みたいな日はもっとだ。人がいないのがいいなと思った。わたしは人嫌いなわけじゃないけど、風景に映り込む人影はどこか興ざめしてしまう。そういう意味ではわたしだって邪魔者だ。背中を押すように、冷え切った風が通り過ぎる。さくさく鳴る音を急がせて、わたしは二号館のドアをくぐった。

 校舎の中は外観と違って現代的なつくりをしている。コンクリートの壁と生あたたかく調整された室温、リノリウムの床をスニーカーで踏んで歩くと、均質化された摩擦音が響いた。

 講義室に入るまで、誰ともすれ違わなかったし、誰の姿も見なかった。もしかすると今日は休講で、その連絡がわたしにだけ来ていないのでは、ほのかな不安が芽生えていたけど、講義室にはすでに教授が待っていた。

 若い教授はわたしを見つけると相好を崩した。

「おはよう」

「おはようございます。ええと」

 わたしは室内を見渡し、首をかしげる。

「今日って、授業ありますよね」

 広い大講義室の座席はどこも埋まっていなかった。教授は困った様子で笑い、「そうなんだけど」と言った。

「来たのは、きみだけ」

「由々しき事態ですね」

 わたしは窓際の、いつも座っている席にカバンを置いて、窓を覆っているカーテンを少しだけ引いた。校内の人影は依然少ないままで、増えそうもない。

 教授はわたしの席の前まで歩み寄り、窓の外に視線を飛ばした。

「自習にするって言ったら、きみは怒る?」

 申し訳なさそうな声に、わたしは少しだけ考え、答えた。

「怒りませんけど、怒るふりをします」

「いい性格してるなあ」

 教授は苦笑いをして、机の上にプリントを一枚置いた。この環境学では毎時間の終わりに、講義の内容をわかりやすくまとめたプリントを配布している。その今日の分だった。

「今日は自習にします。……で、来週はここの範囲をやるから。このプリントを持ってれば来週は来る意味ないかもね。出席も、次回は取らないつもりだし」


 気温が少しずつ上がっている。空は冴え冴えと青く、雪は穏やかに溶けつつある。

 わたしは環境学の講義室を離れて、中庭の方に来ていた。その中心に立派なモミの木が、何かの記念碑のように一本だけ立っている。積雪は柔らかくなって、風は凪ぎ、モミに乗っかった雪もしずくを落とし始めた。じき、もういくらか日が高く昇れば、いつもどおりの朝が帰ってくるだろう。

 わたしだけの朝は終わる。

 振り返ると、一直線に付けてきた足跡に、ひびが入っていた。

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