第16話 結びに代えて
ライトノベルの20年は明らかにサブカルチャー、オタクカルチャーを変えたし、その逆もあったと言えると思います。2020年において、ライトノベルはアニメ原作の苗床にも見えるし、ネット小説は安価な娯楽として成立しているように見えます。出版社も、古典的な読書家というよりは、ライトな層、簡単に読める作品を読む層に向けて、作品を押したり、レーベルを創設していて、20年前において僕の中では全く時代遅れだった「純文学」が、20年の時を経て、今度は「僕の好きなライトノベル」が時代遅れになったのかもしれないですね。
僕は10年ほど前、学校の課題の中で、当時の十代の、読書が趣味の人々の大半がおそらくはライトノベルを読んでいて、これらの人は次のステップがない、という趣旨のことを書いた記憶があります。つまり、ライトノベルを嗜んだ人が、一般文芸にうまくステップアップする、ちょうどいい段階がない、ということなのですが、あれから10年を経てみると、ちゃんとライト文芸というステップができたし、それ以前に、当時の十代も、その次の十代も、自然と一般文芸に進む人は進んだらしい。結局、10年前の僕の懸念は、読書家という存在を甘く見ていたし、それ以前に、出版社も作家も甘く見ていたと言わざるをえないようです。
書く側の人間も、もう同人誌を作る必要もないし、公募に送る必要も、自費出版も商業出版も、全く意味を持たないような事態になって、これは僕にはどうしても受け入れられない部分ではあります。しかしそう、10年前にも、知り合いが「自分の書いたものが仲間内でも冊子になるといい気分になる」と言っていて、そんなことを目指すのか、と正直、ちょっと白けていたけど、今の僕になってみれば、それは幸せな時代だったし、アマチュア作家がまだ自己満足を簡単に得られる時代だったようです。今のアマチュア作家はみんな、数字を気にしている。数字が全ての世界でも、この世界にはまだ、誰も知らない公式や法則が眠っていると、僕は信じたいところです。
この一連のエッセイにおける作品の発表年代は、おおよそのもので、ピタリと正確ではありません。それは僕が自分が何を覚えているか、確認するようにして、おおよその記憶で書いているからです。このエッセイは記録ではなく、記憶そのものです。
最後にこういうネタを放り込むのもどうかと思いますが、僕が高校生の時、物語を書く仲間内で雑談をするとき、弓を使うのが得意な英雄は誰がいるのか、という話になった。しかし仲間内では誰も名前が上がらない。そこへ学校の教師の人がたまたま来て、その疑問をぶつけると「那須与一」という返事だった。僕たちはみんな笑いながら、那須与一は確かにすごいけど、ちょっと違うんじゃないの、という反応をしていた。さて、それから何年も経った時、平野耕太さんの漫画「ドリフターズ」において、なんと、那須与一は重要人物として登場してくる。これくらい、創作界隈の未来っていうのは、わかりづらいものなんでしょうね。
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(了)
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