第3話 数学者は怯えながら道をたどる 2
書店から出ると雨が降っていた。天気予報を見てこなかった数渡は、傘もカッパも持ち合わせていなかった。空はどっしりとした鉛色の雲に覆われ、そこからしとしとと降る雨はしばらく止みそうにない。数渡は不快に思いながら店前の駐輪場に置いてある自転車に近寄り、カゴの中にカバンを置いてからポケットの中のカギを探った。
その時、車道をまたいだ反対側の歩道にふと白色の傘が目に入る。その傘のもとで揺れる髪の色を見た時、数渡ははっとした。亜麻色だ。白い傘を持ったその女性は、数渡の方は見向きもせず、そのままスタスタと歩いて行ってしまう。
「ねえ、ちょっと待って!」
数渡は叫んだが、少女には届かなかった。数渡は通行人が驚くのも構わず歩道橋を全力で上り始めた。その間に少女は角を曲がり、どんどん離れていく。数
渡が歩道橋を渡り終える頃には少女の姿は彼の視界から消えていた。数渡は少女が通っただろう道筋を予測しながら後を追った。道を進めば進む程、無意味なことのように思われた。容赦なく降り注ぐ雨がさらに数渡の足取りを重くした。
だが少女が向かっている行先は数渡には予想ができた。この方向であれば間違いない。地元の人ならば誰でも知っている場所だ。そうこうしている内に道が開けた。そこは案の定、駅だった。噴水に時計台もある、おしゃれな駅だ。普段ならば、駅前のロータリーにはタクシーやバスが行き来し、下校する学生や駅前の塾に通う学生がたくさんいるはずだ。
だが、今日の駅は様子が違った。人影が全く見当たらない。バスもタクシーもまるで乗り捨てられていってしまったかのようにただそこに止まっていた。学生の姿もない。聞こえるのは雨がしとしとと降る音と、噴水の音だけだ。鉛色の空とそこから生まれる雨粒がその空間を制しているようだった。そこに唐突に現れる少女の白い傘は優美な一輪の花のようで、傘を持つ少女は澄んだ黒い瞳で数渡の姿をとらえていた。数渡はしばしその絵画のような光景に見惚れていた。駅の構内へと続く階段の前で傘を片手に凛と立つ彼女は誘っているようなのに、どこか近寄りがたかった。数渡は勇気を出して彼女にゆっくりと近づき、彼女の目の前で立ち止まって視線を返した。胸が高鳴る。雨で濡れているはずなのに、体が火照ってくるのを感じる。なぜだか逃げ出してしまいたい気持ちになる。先に口を開いたのは少女の方だった。
「どうして、私を追ってきたの?」
それはとても冷淡な口調に聞こえた。抑揚の乏しさがそれを助長していた。数渡はきまりが悪くなって、視線をそらした。
「ごめん、気を悪くしたなら謝る。でも、君に訊きたいことがあって・・・」
「あなたは好きで付いてきたの?」
少女に言葉を遮られ、数渡は次の言葉を続けられなくなった。心臓の脈打つ音が聞こえる。足が震える。言葉が何も出てこない。視線ももう合わせられなくなっていた。
少女はくるりと数渡に背を向けた。傘をそっとたたみ、構内へと通じる階段を上り始めた。数渡の心臓は今にも飛び出しそうだった。少女の黒い革靴が立てるコツコツという音と合わさって、何とも奇妙なリズムを刻んでいる。少女は同じ歩調で最後まで登り切り、数渡の視界から消えた。
数渡は少女の姿が見えなくなるまで、遂に指一本動かせなかった。唯一動かせたものと言えば、少女が階段を上る時に下着が見えないだろうかと期待して動かした視線ぐらいのものだ。濡れた白い制服がやけに重く感じる。しばらくしてようやく心臓が落ち着いた。足の震えも止まっていた。数渡は少女のことをまるで、子どもの頃に読んだファンタジー小説に登場した魔女のようだと感じた。美しい容姿に変身して男を惑わし、近づいてきた男を魔法にかける。魔法にかけられた男は身動きを一切封じられるのだ。果たしてそんな魔女について行って自分は生きて帰れるのだろうか。
しかし、数渡にとってそんな不安はどうでもよかった。それよりも、今彼女を追っていかなければ一生彼女に会えなくなってしまうのではないかという不安が強く彼の心の中に湧き立った。数渡には彼女に会えなくなることがなぜだかとても怖いことのように思われた。
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