第2359話

 その鹿を初めて見たケンタウロス達の口からは、驚きの声が上がる。

 それだけ鹿の角が大きく、衝撃的だったのだろう。

 なお、当然の話だがレイとセトは鹿が集落に入ってくるよりも前に到着しており、鹿が入ってくる場所からは離れた位置で待機していた。

 鹿がセトを怖がる以上、そのようにするのは仕方がなかったのだ。

 ……相変わらずセトは鹿に怖がられることを残念そうにしていたが、今の状況を考えれば無理に自分が鹿に近付こうとするのは、意味がないと理解したのか、大人しく距離をとっている。

 レイはそんなセトを撫でながら、鹿に向かって駆け寄っていくファナの姿を眺めていた。

 尚、鹿と親しいもう一人……アナスタシアの方は、現在地面の上に布を敷いて完全に熟睡していた。

 アナスタシアにしてみれば、精霊の卵を地面から掘り出すという行為をするだけで消耗した体力、精神力、魔力……それ以外にも様々なものを、少しでも回復させようとしての行為なのだろう。

 嬉しそうに自分に頭を擦りつけてくる鹿……その角に当たらないように注意しながら頭を撫でているファナを眺めつつ、レイとしてはアナスタシアは本当に大丈夫なのか? としみじみと思う。

 もう少ししたらアナスタシアを起こし、精霊の卵の力を使ってドラゴニアスの本拠地がどこにあるのかを、探して貰う必要がある。

 だというのに、今のアナスタシアの状況では、とてもではないがそのようなことが出来るとは思えない。


(ポーションは……いや、別に怪我をしてる訳じゃないから、ポーションを使っても意味がないのか?)


 高価なポーションの中には、精神を安定させたりする効果がある物もある。

 それを使えば、あるいは……と、そう思わないでもなかったが、実際にはそれで本当に効果があるのかどうかと、そんな風にも思ってしまう。

 それこそ、下手にポーションの類を使うよりもこのまま眠らせておいた方が、アナスタシアにとってはいいのではないかと。


「ありがとうございます」


 眠っているアナスタシアを眺めていたレイだったが、不意にそんな声が聞こえてくる。

 そちらに視線を向けると、そこには先程まで鹿を撫でていたファナの姿。

 そのファナが、レイに向かって頭を下げていたのだ。

 ファナにしてみれば、鹿達の為に色々と手をつくしてくれたレイには、感謝の言葉しかない。

 最悪、鹿がドラゴニアスに喰い殺されていたかもしれないところを、救って貰ったのだから。

 もしくは、鹿が林の外にいても、ドラゴニアスがやって来たのを知れば逃げ出して、そのまま戻ってこない可能性もあった。

 その辺りの事情を考えると、やはりレイには感謝の言葉しかない。


「気にするな。この鹿がいれば、お前達も移動する時に助かるんだろ」


 そう告げるレイだったが、実際にはどうしても移動方法がない場合は、それこそエルジィンにいた時のようにセトの背中に三人で乗ったり……場合によっては、ケンタウロスに乗せて貰うという方法もあった。

 だが、鹿が乗せてくれるのならそれに越したことがないというのも、間違いのないことだった。


「それでも、ありがとうございます。この子達が無事に私のところに戻ってきてくれたのは、レイさんのおかげですから」


 そう言い、再度頭を下げるファナ。

 その様子からは、鹿達を本当に可愛がっているというのが見て取れる。


(とはいえ、この鹿をギルムに……いや、エルジィンに連れていくのは……どうなんだろうな。ドラゴニアスの死体の件を考えると、エルジィンとこっちの世界の間では色々と問題がありそうだし)


 死体が翌日には使い物にならなくなってしまうのは、それこそドラゴニアスだけで、それ以外の生き物は問題なく暮らせる……もしくは、死体になっていなければ何の問題もなく暮らせるのなら、鹿をエルジィンに連れていくような真似も出来るんだろうけど。

 そう思いつつも、レイは取りあえず今はその件には触れない方がいいだろうと判断し、ファナに向かって頷く。


「その鹿達は、ドラゴニアスが襲ってきたから林の前から逃げ出したが、最終的には自分達で判断してまた林に戻ってきたんだ。それを思えば、アナスタシアやファナが一体どれだけ慕われているのかは、考えるまでもないだろ」

「……一応、俺が面倒を見てたんだけど……」


 レイの耳に、鹿の面倒を見ていたケンタウロスの声が聞こえてくる。

 とはいえ、その声はあくまでも口の中で呟いただけだった以上、聞こえたのはレイとセトくらいのものだったろうが。


(酒は少し奮発してやるか)


 実際、そのケンタウロスのおかげで鹿がしっかりと戻ってきたという一面もある以上、レイとしてはそのケンタウロスの苦労に報いることはするつもりだった。

 襲ってきたドラゴニアスは結構な数だった以上、ケンタウロスとしてもそれを知った時は生きた心地がしなかった筈だ。

 そう思えば、やはり今回の殊勲の一人であるのは間違いない。

 ……もっとも、レイとしては出来れば逃げた時に何らかの手段で集落に情報を送って欲しかったというのが正直なところだが。


「それで、アナスタシアの様子はどうなっている? 見た感じでは、ぐっすりと眠ってるようだが」

「ピー……」


 レイの言葉を聞いていた一頭の鹿が、アナスタシアの方に向かって歩き出す。

 アナスタシアという名前を理解したのか、それとも単純に周囲を見回して眠っているアナスタシアの姿を見つけたのか。

 それはレイにも分からなかったが、ともあれ一頭の鹿はアナスタシアの側まで移動すると、その場に座り込む。

 アナスタシアを起こすのであれば問題ではあったが、眠る邪魔をしないのであれば、レイとしても鹿を特にどうにかするつもりはない。


「どうやら、ぐっすりと眠ってるみたいだな」

「はい。……けど、いつまでもアナスタシア様を眠らせておくような真似は出来ないんですよね?」


 深刻な雰囲気でそう告げるファナ。

 仮面を被っているので、ファナの表情を確認することは出来ない。

 だが、今の状況を考えればファナがアナスタシアのことを考えているのは明らかだ。

 レイもそれは分かっていたが、だからといってこのまま自然と起きるまでアナスタシアを眠らせておくような真似は出来ない。


(あの精霊の卵の件も、何とかする必要があるしな)


 アナスタシアから少し離れた場所に置かれている、精霊の卵。

 魔力を察知する能力や、精霊を見ることが出来ないレイであっても、その黒い円球の存在から何らかの力を感じることは出来る。

 ……実際、そのように感じるのはレイだけではないらしく、ケンタウロス達も精霊の卵にはあまり近付かないようにしていた。

 そんな中で唯一の例外が、ドルフィナだ。

 当初は精霊の卵から発せられる力に恐怖したのだが、精霊の卵が特に何らかの行動を起こすような真似をしないというのを知ると、興味深そうに観察している。

 それでも精霊の卵を刺激した場合にはどのようなことが起きるか分からない以上、実際に手を出すような真似はせず、観察だけに留めていたが。


「ザイ、ちょっといいか?」

「どうした?」


 鹿の件は取りあえずこれでいいだろうと判断し、レイは次にやるべきことを考えてザイに声を掛ける。

 ザイは当然のように自分に声が掛けられると理解していたのか、特に驚く様子もないままレイに近付いてくる。

 レイが林の外に向かっている間にある程度休むことが出来たのだろう。ザイはいつ敵が襲ってきても対処出来るように武器を手にしており、油断なく周囲の様子を確認していた。


「アナスタシアが起きたら、すぐにでも行動に移る。今のうちに、テントとかを畳んで俺が収納しやすくしてくれ」

「分かった。……正直、今日のうちに片を付けるというのが本気だとは思わなかったけどな」

「当然のように本気だぞ」


 レイにしてみれば、精霊の卵が採掘された関係で狂乱したかのようなドラゴニアスがやって来る可能性が高い。だからこそ、今日のうちに片付けたいのだ。

 ……それ以外にも、何だかんだとこっちの世界に来て相応に時間が経っているというのもある。

 ギルムの増築工事の件を考えるとアナスタシアとファナを見つけた以上、出来るだけ早くそれを知らせてやりたいという思いがあるのも事実だった。


「そうか、分かった。なら、俺の方でも準備は進めさせて貰う」


 レイの言葉に納得したのか、それともこれ以上言ってもレイが考えを変えることはないと判断したのか、それはザイと話していたレイにも分からなかったが、ともあれザイはレイの前から立ち去ると、ケンタウロス達に呼び掛けて野営地として使っていたこの集落を引き払う旨を伝える。

 何人か……特に採掘作業をしていた者達は急なザイの言葉に面白くなさそうではあったが、レイがそう言ってる以上、結局はそれに従うしかないというのも事実だ。

 何しろ、食料の類は基本的にレイのミスティリングに収納されているのだから。

 ……もっとも、それよりもケンタウロス達が素直にザイの指示に従ったのは、ここでレイの言葉に逆らって、折角貰える筈だった酒を貰えなかったりしたら……という思いもあったのだろうが。

 そうして忙しくテントや採掘作業に使っていた道具を片付け、後はこの集落に残っていた物で何か使えるような物を選んでいく。

 集落の生き残り達が何か不満を言ってもおかしくはなかったが、既に集落が壊滅している以上、ここに残る訳にはいかないというのは生き残り達も理解しているのだろう。

 そして当然のように自分達がどこに行くのかと言えば、それこそレイ達と一緒に行くしか出来ない。

 そうなると、少しでも自分達の待遇がよくなるようにと考えるのは当然だった。

 また、もうここに戻ってこない以上、何かをここに残していっても、それこそいずれ使い物にならなくなるだけだ。

 であれば、それを有益に使ってくれる相手に渡した方がいいのは、当然だった。

 そうである以上、自分達の価値を少しでも高める為に、積極的に手伝い始める。


「それで、私達はどうするの?」


 いつの間にか近くまでやって来ていたヴィヘラの言葉に、レイは林の方を見る。


「取りあえず見張りだな。ドラゴニアスは倒したばかりだから心配はいらないと思うが、もしかしたらまた追加でやって来るかもしれないし」

「そう? ……まぁ、来るなら来るでいいんだけど。ただ、どうせなら金の鱗のドラゴニアスが来て欲しいわね」


 ヴィヘラにとって、銀の鱗のドラゴニアスはそれなりに満足出来る戦闘相手なのは間違いない。

 だが、銀の鱗のドラゴニアスよりも金の鱗のドラゴニアスの方が強い以上、どうせならそちらと戦いたいと思うのは当然のことだろう。


「俺に言われてもな。……今までの経験から考えると、金の鱗のドラゴニアスはかなり数が少ないみたいだし。ただ、本拠地に行けば金の鱗のドラゴニアスが……いや、場合によってはもっと強力な個体がいる可能性はあるぞ」


 実際、敵の本拠地である以上、ドラゴニアスの親玉は最低でもいるだろう。

 そして親玉がいるとなると、その護衛もいる筈だった。

 親玉の護衛となれば、当然のようにドラゴニアスの中でも極めて強力な個体が務めている筈だった。


(いや、親玉というか……女王といった方が正確なのかもしれないな)


 レイが見たところ、ドラゴニアスの習性には蟻や蜂に似たものが感じられる。

 そうである以上、ドラゴニアスの頂点に立つ存在は、女王蟻や女王蜂といったような……女王ドラゴニアスとでも呼ぶべき存在である可能性が高いと思えた。

 勿論、それはあくまでもレイの予想であって、何か証拠があっての事ではない。

 もしかしたら、レイの予想とは全く違う存在がボスとして本拠地にいるという可能性も十分にあった。


「結局のところ、今は待つしかない訳ね。……戦闘訓練でもしたいところだけど、それは止めておいた方がいいかしら」

「そうだな、止めておいた方がいいだろ」


 採掘作業をしていた者達は、皆が揃って疲れている。

 多少休んだので、ある程度は回復しているが……ここでヴィヘラとの戦闘訓練を行おうものなら、それこそ体力に限界がきかねない。

 見張りをしていた者なら、まだある程度の余裕はあるだろうが……見張りが戦闘訓練を行う訳にもいかないだろう。

 一応、セトが周囲を警戒しているとはいえ、それで他のケンタウロス達が見張りをしなくてもいいという訳ではないのだから。


「もう」


 自分で見張りをしていた者達との模擬戦は止めておいた方がいいと言いながらも、レイがそれに賛成をすると、少し不満そうな様子を見せる。

 そんなヴィヘラの様子に笑みを浮かべつつ、レイはこれからのことを考えるのだった。

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