異世界の草原

第2239話

「これは……」


 レイは周囲に広がっている光景を眺めると、短く呟く。

 半ば勢いで空間に空いた穴に飛び込むといった真似をしたレイだったが、本人としては多少は無茶であっても、それが致命的であるという認識はない。

 何しろ、現在のレイの身体はゼパイル一門の技術の総力を掛けて作られたものなのだ。

 そうである以上、このような行為をしても問題はないと、そうレイは判断していた。


「草原、だな」


 周囲に広がっている光景を眺めながら、そう呟く。

 地下空間に存在した穴から見た時から、ここが草原であるというのは分かっていた。

 そのような状況で分かりきったことを口にするのはどうかと思わないでもなかったが、周囲には何も存在しない草原であるのは間違いない。

 ……そう、見渡す限り草原以外は何も存在しないのだ。


「……アナスタシアとファナはどこにいるんだ?」


 地下空間の中に、アナスタシアの姿はなかった。

 だからこそ、もしかしたらこの世界にやって来たのではないかと思い、異世界に通じていると思われる穴の中に入ったレイだったが、見渡す限り草原しかないここには、アナスタシアとファナの姿はどこにもない。


「というか……ここは本当に異世界なのか?」


 草原しか存在しない現状では、この世界が本当に異世界なのか、それとも実はエルジィンのどこか別の場所なのか。

 そんなことも、レイには分からなかった。


「取りあえず……」

『どうするのじゃ?』

「うおっ!」


 不意に聞こえてきた声に、レイの口からは驚きの声が漏れる。

 慌てて周囲を見回すと、そこには穴の向こう側からこちらの世界を覗いているグリムの姿がある。


「グリムか。……この穴越しにでも会話が出来るんだな」

『うむ、どうやらそのようじゃな。うーむ、興味深い。何がどうなってこのようなことになったのかは分からんが……あるいは、そちらの世界はあのリザードマン達がいる世界ではないのか?』

「それは……いや、その可能性は十分にあるか」


 ウィスプが異世界からゾゾやガガ達のようなリザードマン達を転移させたのだとしたら、この世界はゾゾやガガがいた世界である可能性もある。

 もしくは、水狼がいた世界という可能性もある。


「ともあれ、この世界にアナスタシアとファナがいるのは、間違いないと思うか?」

『状況証拠から考えれば、そうなるじゃろう。現に、あの地下空間にはおらんのじゃからな』

「……けど、見渡す限りどこにもアナスタシアとファナの姿がないんだけど」


 レイから見る限り、この辺りはかなり広大な草原で、多少の木は生えているが、アナスタシアやファナがいれば見逃す筈もない。

 だというのに、レイから見る限りでは二人の姿はどこにも見えなかった。

 レイが……正確にはセトと水狼がウィスプの異常を感知してから、レイが地下空間にやってくるまでの時間は、それなりにあった。

 だが、それでもこの広い草原の中を移動して、見えない程に遠くまで移動出来るかと言われれば、その答えは否だ。

 特にいきなり空間が異世界と思われる場所に繋がったとなれば、それこそ慎重になってもおかしくはない。


(あ、でもアナスタシアなら好奇心に刺激されるまま異世界に向かってもおかしくはないか?)


 アナスタシアの性格を考えれば、それこそ自分やファナの身の安全を考えるよりも、自分の好奇心を最優先に考えてもおかしくはなかった。

 その好奇心の強さ故に、アナスタシアは優秀な研究者となっているのだから。


『レイ? どうしたんじゃ?』

「いや、俺のいる場所から見る限りでは、アナスタシアのいる場所は分からない。グリムもちょっとこっちに来てみてくれないか? 俺は無理だけど、グリムなら何かを感じることが出来るかもしれないし」

『……難しいな』

「え?」


 レイはグリムのその言葉に驚く。

 グリムのことだから、すぐにでもこちらの世界にやってきてアナスタシア達を探してくれるのではないか。

 そう思っていたのだが、その予想が完全に外された形だった。


「何でだ?」

『何故と言われても、この空間の維持をしているのが儂だからじゃよ。もし儂がそちらの世界に行くと、この穴を維持する者がおらず、最悪の場合は穴が閉じてしまう可能性がある』

「……つまり、グリムはそこから動くことは出来ないのか?」


 そう尋ねるレイに、グリムは首を横に振る。


『いや、違う。出来ないのは、そちらの世界に向かうことだけじゃ。こちらの世界においては、儂も自由に動ける……という訳ではないが、それでもある程度自由に動くことが出来る』


 グリムの説明は、レイにとって安心させることが出来たものではあった。


「ならいいけど。……それでも今までのように自由に動くことは出来ないんだよな?」

『それは残念ながらそうじゃな。……しかし、今までのように自由にというのは間違いないが、ある程度自由に動けるのは間違いない。幸い、儂の研究室とこの地下空間は繋がっておるしな』


 グリムの様子から、その言葉が嘘ではないというのはレイにも理解出来てほっとする。


「なら、いいけど。……それでも、そうなるとやっぱり他の奴に知らせるのは難しいな。知らせられるとすれば、グリムのことを知ってる奴だけか」


 元々、この地下空間について知ってるのが限られた者達だけだというのは、この場合レイにとって幸運だったと言えるだろう。

 ともあれ、アナスタシア達を連れ戻すまではこの空間の穴は維持する必要があった。

 そして現状でそれが出来るのは、グリムだけだ。

 勿論、世界を探せば他にも同じような真似が出来る者がいる可能性があったが、その相手を見つけるのに、多くの時間が必要となる。

 また、当然そのような希少な人材を連れてくるとなれば、相応の報酬が必要だ。

 その辺の事情を考えると、やはりグリムにやって貰った方がいいのは間違いない。


(問題は、この空間の維持をグリムがやってるというのを出来るだけ知られないようにすることだけか。……この地下空間に何か異常があったというのは、俺とセト、それに水狼の様子を見れば明らかだから、恐らくダスカー様にも報告が行く筈だし)


 ゴブリンの集落の件や、研究者の一件もそうだったが、基本的に騎士からは毎日のように報告書が出されている筈だった。

 その辺の事情を考えれば、騎士がセトと水狼が感じた異常の件を……更に、レイがセトに乗ってその異常のある場所に向かった件を報告しないとは思えなかった。

 また、ダスカーが恩義を感じているアナスタシアが行方不明になっているという点も、この場合は大きい。

 アナスタシアがいなくなったというのを、ダスカー相手にいつまでも隠せる筈もない。

 そもそも、アナスタシアとファナは毎晩野営地に戻っているのだ。

 だとすれば、今日に限ってもどらなければ、騎士が……いや、野営地にいる全員がそれを疑問に思ってもおかしくはない。

 特にアナスタシアは、その美貌から野営地にいる面々からの人気が高い。

 セトと水狼の一件があった後で帰ってこないとなると、それで疑問に思うなという方が無理だった。


「俺はこっちの世界でアナスタシア達を探そうと思うんだけど、その穴を維持するのって大変か?」

『そうじゃな。そこまで大変といったことはない。片手間というところじゃな』

「……随分と簡単に言うんだな」


 レイにしてみれば、異世界と繋がる穴を維持するというのは、それこそかなりの技量が必要なように思える。

 馬鹿げた魔力を持っているレイであっても、炎の魔法にしか適性のないレイにはそのような真似は出来ない。

 グリムがそう言うのであれば、レイとしてはその言葉を信じるしかない。

 何しろ、相手はゼパイルが生きてる時代から存在している――生き続けているのではなく――グリムだ。

 そのくらいの技量はあっても、おかしくはなかった。


『ともあれ、この穴の維持は儂に任せておくがいい。レイはいなくなった二人を探してくるのじゃ』

「……また、随分とアナスタシアとファナに拘ってるな?」


 元からレイもアナスタシアとファナを探しに行かないという選択肢はなかった。

 だが、グリムがそこまで積極的にアナスタシアとファナを探しに行って来るように言うとは、レイにとって予想外以外のなにものでもない。

 レイのことを孫のように可愛がっているグリムだけに、レイと親しい相手……エレーナやマリーナ、ヴィヘラといった者達がいなくなったら、そのように言ってもおかしくはないのだが。


『ふむ、そうじゃな。あのアナスタシアというエルフと……仮面を被っている者が研究している姿を、儂も何度か覗いている』

「それは……まぁ、グリムなら見つかるようなことはないと思うけど、アナスタシアは精霊魔法の使い手だからな」


 レイの中では、精霊魔法といえば強力で万能な魔法という印象が強い。

 当然のように、マリーナが使っているからだ。

 ……一応、マリーナの精霊魔法が平均的なものではなく、凄腕の精霊魔法使いだというのはレイも分かっているのだが、それでもやはりどうしても印象というのは強烈だった。


『取りあえず儂が見つかってはおらんから、安心するといい』

「グリムなら当然か。で、覗いているうちに情が移ったとか?」

『似たようなものじゃよ。アナスタシアの方は優秀な研究者じゃ。それこそ、儂から見てもな』

「あー……うん。だろうな。その辺は俺にも何となく理解出来る」


 ダスカーからも優秀な研究者だという言葉は聞いていた。

 だからこそ、グリムの言葉にも強く納得出来る部分がある。


「なるほど。同じ研究者同士としてか」

『そうじゃな。それに、儂にはあのウィスプがどうやって異世界と繋げているのか分からなかった。じゃが、アナスタシアは偶然か計算かは分からんが、こうして異世界と繋げている』


 グリムの言葉には、純粋な敬意がある。

 アナスタシアがエルフであっても、生きていられる時間というのは人間や獣人、ドワーフより多くても、アンデッドのグリムと比べれば比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに少ない。

 グリムが生きているのかどうかというのは、別にしてだが。

 ともあれ、研究者としてはアナスタシアよりも圧倒的に長い経験を持つグリムですら不可能だったことを、アナスタシアはやってのけた。

 そのことに、グリムが敬意を抱くのは当然だろう。


「分かった。なら、アナスタシアとファナの二人は俺が探してくる。……とはいえ、周囲を見る限りだと草原がどこまでも広がってるんだよな。セトがいれば、空を飛んで移動出来るんだけど」

『ふむ、待っておれ』


 短く告げたグリムが素早く呪文を唱えると、地下空間の中に不意にセトが姿を現す。


「グルゥ!?」


 地上にいた筈が、突然地下空間にいたことに驚き、周囲を警戒するセト。


(あー……うん。まぁ、そうだよな)


 以前にも、レイはグリムに頼んで転移魔法を使って貰ったことが何回かある。

 そんなグリムにしてみれば、地上にいるセトをこの地下空間まで転移させるくらいは容易に出来るのだろう。


「グルゥ……グルゥ! グルルルルゥ!」


 警戒しながら周囲の様子を確認していたセトは、空間に空いた穴の先にレイがいることに気が付く。

 実際にはその穴の側にはグリムもいるのだが、今のセトにとってはグリムよりもレイの方が優先されたのだろう。

 嬉しそうに鳴き声を上げつつ、セトは異世界に続く穴に向かって突っ込んでいく。


「うおっ!」


 レイは自分に向かって突っ込んできたセトを受け止めようとするが、体長三m程もあるセトだ。

 そんなセトの姿を完全に受け止めるような真似など出来ず、セトに半ば押し倒されてしまう。


「グルルルゥ、グルゥ、グルルルゥ」


 地面に倒れたレイに、セトは嬉しそうに顔を擦りつける。

 セトにしてみれば、得体の知れない危険な場所にレイを向かわせてしまったのだ。

 それだけに、こうしてどこかに転移させられたかと思えば、そこにレイがいたのだから、それでセトに喜ぶなという方が無理だった。

 それでも数分も好きにさせておけば、やがてセトもレイに甘えることが出来て満足したのか、レイから離れ、周囲を見回し……改めて、ここがどこなのか分からなくなる。


「セト」

「グルゥ?」


 周囲を見回していたセトは、レイから声を掛けられてそこでようやく我に返り、ここはどこ? とレイに尋ねる。


「ここは異世界だ。……まぁ、地球じゃないみたいだけど」


 正確にはレイもこの異世界がどこなのかというのは、分からない。

 だが、それでも何となくではあるが、ここが地球ではないという感じがした。


(地球……日本で周囲の様子を見てここまで一面の草原となると、北海道とか? もしくは外国ならこういう場所もあるかもしれないけど)


 そう思いながら周囲を見回していたレイは、不意に馬が……それも背に人と思われる存在を乗せた、騎兵と思われる数騎の存在を見つけるのだった。

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