第2217話
「んー……やっぱり俺はスラム街よりもこっちの方がいいな」
「グルゥ? ……グルゥ!」
レイの言葉に、隣を歩くセトも同意するように喉を鳴らす。
スラム街から出てすえた臭いの類がなくなったのも、セトが嬉しそうにしている理由なのだろう。
それ以外にも、途中で屋台に寄るといったことをレイが言っていたのも、セトが喜んでいる理由だったが。
(にしても……)
周囲の様子を眺めつつ、スラム街で起きた出来事を全く気にした様子もない……どころか、気が付いた様子もない住人達を眺めながら、レイは今更ながら不思議な気分を味わう。
もしギルムの表通りにある店で、今日レイがスラム街で行ったような騒動を起こした場合、間違いなく大きな騒動となる。
それこそ、警備兵……いや、騎士が呼ばれてもおかしくはないくらいに。
今回そのようなことにならなかったのは、単純に騒動の起きた場所がスラム街だったからという理由以外のなにものでもない。
レイにしてみれば、それでいいのか? と思わないでもなかったが、スラム街にはスラム街の、そしてそれ以外にはそれ以外の、秩序というものがある。
だからこそ、その辺を歩いている者達の中には、スラム街で何が起きたのかといったことを気にするような者がいないのだろう。
もっともそれはレイが建物を燃やす時、上手い具合に周囲に燃え広がらないように配慮したというのも大きいのかもしれないが。
「さて、まずは……やっぱりマリーナの所には顔を出しておいた方がいいか」
今回の一件で、黒犬から道案内として紹介されたラザリアは、かなり役に立ってくれた。
もしラザリアがいなければ、それこそ敵のアジトがどこにあるのかを見つけるのにかなりの時間が掛かっただろう。
そうなれば、もし敵のアジトを見つけたとしても、ここまで多くの組織を潰すことが出来たとは思えない。
だからこそ、ラザリアを派遣した黒犬を紹介していくれたマリーナには、しっかりと感謝の言葉を言っておきたかった。
……黒犬を率いていた相手の件も話しておきたかったというのもあったが。
「グルゥ……」
「あー、ほら。安心しろって。マリーナのいる場所に行くにしても、その前に屋台には寄っていくから。それに、マリーナと会った後でも、美味そうな屋台があればそっちに寄るから」
そんなレイの言葉を聞き、セトは残念そうにしていた様子から、少しだけ元気を取り戻したように顔を上げる。
セトにしてみれば、マリーナと会えるのは嬉しい。嬉しいのだが……セトの身体の大きさから、マリーナのいる診療所の中に入ることが出来ないのが残念だったのだろう。
「今回の件が終われば、マリーナともまた気楽に会えるようになるだろうから、心配するなよ」
マリーナの家では、庭で皆が揃って食事をするのも珍しくはない。
そうである以上、セトがマリーナと会うことは容易に出来る。
……とはいえ、まだ暫くは湖や生誕の塔の護衛に回る必要がある以上、一体次にいつマリーナの家に戻れるのかは、レイにも分からなかったが。
そんなレイの考えを読んだのか、再度残念そうに鳴き声を上げるセト。
「お、あの屋台で売ってる串焼き……何か凄くいい匂いがしないか? ちょっと買っていくか。セトも食べるだろ?」
「グルゥ!」
数秒前に残念そうな鳴き声を上げていたとは思えないくらい、元気一杯な様子を見せるセト。
そんなセトの様子に、最初からそれを狙っていたとはいえ、レイも微妙な表情になる。
とはいえ、少し離れた場所にある屋台からいい匂い……食欲を刺激するような匂いが漂ってくるのは間違いのない事実であり、その屋台で売ってる串焼きを買わないという選択肢は、レイにはなかった。
(これは……タレが独自のものなのか)
串焼きは手軽に作ることも出来て、食べることも出来る。
だからこそ、肉の部位や質、焼く技術、味付けといった場所で大きく差が開く。
不味い屋台になると、それこそ一体何でそんなに不味い? と思うくらいに不味い串焼きを売っている。
……勿論、そういう屋台は当然のようにすぐ潰れる事になのだが。
だが、レイの視線の先にある屋台は、串焼きを焼いている匂いで食欲を刺激する。
(ウナギ屋とかでは焼いてる煙で飯を食えるとか、何かで見たか聞いたかした覚えがあったけど、この煙もそんな感じだな。……この世界の場合は、飯じゃなくてパンだけど)
そんな風に思いながら、レイはセトと共に屋台に並ぶ。
これだけ食欲を刺激する匂いを漂わせているのだから、当然のようにその屋台の前には行列が出来ている。
既に夕方と呼ぶに相応しい時間になっているので、仕事が早く終わった者の中でも少し空腹を感じている者が、この屋台から漂ってくる食欲を刺激する匂いを嗅げばどうなるか。
当然のように、少し串焼きを買ってみるかと思っても不思議ではない。
ないのだが……
「おい、割り込むなよ! きちんと並べ!」
「ああ? お前、誰に言ってるのか分かってるのか?」
レイとセトが屋台に向かって歩き出すのと、その屋台に並んでいた客の一人が自分の前に割り込んできた相手に注意するのは、殆ど同時だった。
仕事が終わったばかりで疲れており、空腹でもある。
それだけに、気が短くなっている者もいるのは当然であり……
「ああ? お前が誰だろうと関係ねえ! 皆が並んでるんだから、さっさと並べって言ってるんだよ!」
「てめえ……俺に向かってそんな口を利いて、後悔するなよ」
「そういうのはよそでやれ」
割り込んできた男の耳にそんな声が聞こえると同時に浮遊感。
次の瞬間、男は地面に倒れていた。
とはいえ、それを行ったレイは相手の身体を地面に叩きつける瞬間に軽く持ち上げたことにより、その衝撃を殺しているので、男が受けた痛みは殆どない。
だが……それでも、男が地面に倒されるなどという真似をされ、人前で恥を掻かされたのは間違いのない事実であり、それを理解すると素早く立ち上がる。
「てめえっ!」
「……てめえ? それは俺に言ったのか?」
「当たり前……って、そんな訳がないじゃないですか。失礼します!」
最初こそレイに向かって不満をぶちまけ、それこそ場合によっては殴ろうと考えていた男だったが、レイの側にセトがいるのに気が付き、目の前の人物が誰なのかを理解したのだろう。
レイに喧嘩を売った者がどうなるか。
それをギルムで知らない者はおらず、男も当然のように知っていた。
だからこそレイと戦いたいとは思わず、慌てて逃げ出していったのだ。
……その理由の中には、レイが食べ物に対して強い執着を持っているという噂を男が知っていたというのもあるのだろう。
「随分と素早い逃げ足だな」
走り去った男の背中を見送って、レイが呟く。
そんなレイのドラゴンローブを、セトがクチバシで軽く引っ張る。
セトが何を言いたいのかは、レイにも理解出来たので、頷いて行列の最後尾に並ぶ。
「えっと、その……俺の前に並ぶか?」
レイの前にいる男が、そう言ってくる。
その言葉に、レイは首を横に振った。
レイも別に並ぶのが好きな訳ではない。
それでも、今の流れで自分が列を譲って貰うと気まずい思いをする。
「気にするな。それよりも、この屋台は前からあったか? それとも最近やって来たのか?」
「どうだろうな、俺がこの屋台にやって来たのも、今日が初めてだしな。ただ、こんなにいい匂いがする屋台なら、前から気が付いていてもいいと思うが」
その台詞から、目の前の男は毎日この道を通っているのだろうというのは、レイにも予想出来た。
増築工事の件でギルムに仕事を求めてやって来た者の中には、自分に合った仕事を見つけてそれをずっとやる者もいれば、色々な仕事を行う者もいる。
毎日同じ場所を通っているのなら、恐らく前者なのだろうとレイにも予想出来た。
「そうなると、楽しみだな」
「おう。この匂いを嗅いだら、絶対に食いたくなったしな」
そうして会話をしている間にも列は進み、やがてレイの番になる。
出来れば在庫全てをあるだけ欲しいと言いたかったレイだったが、自分の後ろにも結構な人数が並んでいるとなると、まさか自分が買い占める訳にもいかない。
なので、取りあえず自分とセトの分で十本を購入したのだが……
「二本多いぞ?」
店主から渡された串焼きの数は十二本。
明らかに注文した数よりも多かったので、そう告げる。
レイとしては、串焼きの数は多ければ多い程にいいので、より多くの金を払うことに不満はないのだが。
「あ、それはお礼です。さっき割り込んできた人の件の」
「あー……まぁ、くれるのなら貰っておくけど、本当にいいのか?」
「ええ。ああいう人と他の人が喧嘩になると、最悪ここで屋台をやれなくなったりしますから。それを防いでくれたお礼だと思って貰えれば。それに……」
言葉を切った店主は、少しだけセトの方を見る。
そこには何かを期待するような視線を向けているセトの姿。
鋭い五感を持っているセトだけに、串焼きを焼く香りにはこれ以上ない程に食欲を刺激されたのだろう。
円らな瞳でじっとレイの持つ串焼きを見つめているセトを見れば、すこしくらいおまけしてやりたいと思ってもおかしくはない。
「悪いな。また見たら寄らせて貰うよ」
そう告げるレイに、店主は頭を下げる。
他の客の邪魔をしてはいけないと、レイは串焼きを持ったまま屋台の前から離れ、早く早くと期待の視線を向けてくるセトに、串焼きを一本渡す。
セトに一本渡しても、まだ残り十一本と多いので、冷めるよりも前にミスティリングに大半を収納してから、自分の分の串焼きを口に運ぶ。
「へぇ。……想像していたよりも美味いな」
肉を焼いている香りで既に予想はしていたが、レイの口の中に入った肉はしっかりとした噛み応えと、肉の脂、そして肉を覆っているタレの味が三位一体となって、ついついもう一口と串に刺さっている次の肉を口に運ぶ。
(ただ、ちょっと味が濃いな。……意図的にか? 仕事帰りの人が多いんだし)
汗を掻き、身体の中の塩分が少なくなっているので、少し塩気の濃いタレは余計に美味く感じるのだろう。
また、仕事帰りなので、この串焼きとエールを買って……といったような真似をする者のことも想定していてもおかしくはない。
「グルルゥ!」
早速一本食べ終わったセトは、レイにもう一本ちょうだい! と喉を鳴らす。
串焼きの旨さ……これぞ肉といった味を楽しんでいたレイは、手に持っていた串焼きの一本をセトに渡す。
そうして十分程。
レイとセトは、購入した十二本の串焼き全てを食べ終わった。
普通に考えれば、串焼きの一本や二本は夕食前の軽い腹ごしらえとしてはありだろうが、それが六本ともなれば、当然のように腹一杯になってもおかしくはない。
だが、レイとセトはその程度では腹八分どころか、腹一分になったかどうかといった程度だ。
ある意味では食事を幾らでも楽しむことが出来るのだが、そのような真似が出来るのはレイが金に困っていないから、というのが大きい。
「今日の日中は色々と面白くないことが多かったけど、この串焼きを食べる為の試練だったのかもしれないな。……少し言いすぎかもしれないけど」
「グルゥ? グルルルルルゥ」
レイの言葉に、セトは自分も同じように感じていると、そう鳴き声で示す。
普通に考えれば、散々暗殺者に狙われて、しかもダーブによってギルムの中にいると強烈な違和感に襲われることになり、結果的にスラム街にある裏の組織を幾つも潰すといったことになったが、それでもこの串焼きを食べる為だったらいいかと、ふとそう思ってしまう。
普通に考えれば、とてもではないがそんなことで納得は出来ないのだが。
「あ、レイ!」
セトと共に串焼きを食べ終わり、次の店に向かおうかと思っていたレイは、不意に名前を呼ばれて声のした方を見る。
そこにいたのは警備兵。
レイを見つけてほっとした様子を見せている。
「どうした?」
「どうしたも何も……お前を狙った暗殺者の件。結構口が堅い奴が多かったけど、それなりに情報を聞き出すことが出来たぞ」
「あ……」
そう言えば警備兵に暗殺者を押しつけていたな、と。本当に今更ながら思い出す。
レイは少しだけ申し訳なさそうな顔で、警備兵に向かって口を開く。
「悪い。もう組織潰した」
「……は?」
「あ、でも時間がなくて全部潰した訳じゃないから、まだ潰していない組織の情報は欲しいな」
「待て。待て待て待て。一体何の話だ? 組織を潰した?」
「ああ。ちょっとした成り行きでな」
「成り行きで、裏の組織を潰すのか」
「それも五つな」
「……ああ、そうか……」
レイの言葉に、警備兵はそれ以上は何も言えなくなるのだった。
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