第2172話

 ぐしゃり、と。周囲に肉の潰れるような音が響く。

 それを行ったのは、四十代程の一人の男。

 そして殴られたのはまだ若い……それこそまだ二十代にもなっていないような、若い女だ。

 美人ではなく可愛いと表現されるような顔立ちをしているのだが、現在その頬は腫れており、口からは血が流れている。

 ただの女であれば、顔を殴られれば泣き喚いてもおかしくはない。

 だが、その女は口の端から血を流しながらも、目の前にいる男を睨み付ける。

 女の目にあるのは、その可愛らしさとは裏腹の凶悪なまでの殺意。

 外見と似合わない視線で男を睨む。

 それでも女が自分に手を出すことはないと知っているのか、男は殺気を込められた視線を向けられても特に怖がる様子はない。

 それどころか、余計に女に対する苛立ちを露わにして叫ぶ。


「何だ、その目は! 貴様は自分の立場が分かっているのか? 出来ませんでしたじゃない。やるんだよ! 何の為にお前のような女を飼ってやってると思うんだ。こういう時の為だろうが!」


 男が叫ぶが、女は全く堪えた様子もなくそれを見る。

 そしてお互いに睨み合ったまま数十秒が経過し……やがて、女が口を開く。


「無理よ。相手は深紅のレイよ? 異名持ち相手に、私一人で何が出来ると?」

「これは、ヴィーン様からの要請だ! やるやらないじゃなく、やるしかないんだよ!」

「……もしやれと言うのなら、私だけでは無理。もっと人を……それも腕利きを集める必要がある」

「それが出来ないから、お前にやれと言ってるんだ。……いいのか? お前がやらないということは、俺もお前の弟の薬を買う必要はなくなるんだぞ?」


 ぎんっ、と。

 男を睨んでいた女の視線に込められた殺気が、一段と強くなる。

 今までは女に殺気を込められた視線を向けられても、特にどうこうということはなかった男だったが、今の視線は違う。

 我知らず、数歩後退る。

 だが、自分でも後退ったということには気が付いておらず、今はただ自分が決して目の前の女に気圧されている訳ではないと言い聞かせながら、再び拳を振り上げる。

 再び部屋の中に響く、ぐしゃりとした音。

 女は先程以上に唇から血を流しているが、それを拭うでもなく男を睨み付け、口を開く。


「ランタに万が一のことがあったら……貴方は生かしておかないわ」

「そうか? なら、そっちもしっかりと仕事をするんだな。忘れるなよ? お前の弟は俺が用意する薬がなければ、長く保たない。そして俺はお前の仕事の結果を見て、購入する薬の量を決める」


 そう言われると、女は何の反論も出来なくなる。

 そもそも、そのような条件で契約を了承したのは、女なのだから。

 ……女にとって不幸中の幸いだったのは、目の前の男が自分の身体に興味を示さなかったことか。

 お陰で、貞操はまだ何とか守られている。


「分かったわ。けど、せめて十分な人数とまでは言わないから、ある程度捨て駒に使える者達は用意してちょうだい。レイにはセトという従魔もいるのよ。私一人でどうにか出来る相手じゃない」


 女は、自分の実力を理解している。

 その辺の相手なら実力で何とかなるし、本性を隠して男受けのいい外見を利用すれば、自分よりも多少腕が上の相手であっても何とか出来る。

 だが……レイとセトという一人と一匹は、色仕掛けでどうにかなる範疇を完全に超えている。

 ましてや、レイやセト以外にも紅蓮の翼のパーティメンバーがいるし、パーティメンバーではないが姫将軍の異名を持つエレーナや、エレーナの護衛のアーラといった者もいる。

 そんな中でレイを狙うというのだから、自分だけでどうにか出来る問題ではない。

 男もそれは分かっているのか、少し考え……銀貨数十枚が入った袋を女に渡す。


「スラム街にいる連中なら、それで何とかなる筈だ。……ギガント・タートルの一件でレイに感謝している者も多いが、春になってからスラム街に来た連中なら、その金額でどうとでもなる筈だ。その連中を使って肉の盾にしろ」


 肉の盾という、あまりにも率直な意見に若干眉を顰めた女だったが、それ以上は口に出さない。

 目の前の男の機嫌を損ねるのは、女にとっては不利益なことでしかないのだから。


「分かった、それでやってみる。……けど、いいの? もしレイに危害を加えたとなれば、ギルムの上層部も動くわよ? そうなったら、危なくない?」

「ふん、まさかフランソワに私の心配をされるとは思わなかったな」


 女……フランソワが命令を受けたことで気分がよくなったのか、先程殺気のこもった視線に数歩後退ったことなど忘れたかのように、男はからかうように声を掛ける。

 だが、フランソワはそんな男の言葉に不機嫌そうに返す。


「別に私はトリパーラの為にやる訳じゃないわ。あくまでもあの子の……ランタの為にやるのよ」

「それは構わない。俺の役に立ってくれれば、それで十分だ。それにヴィーン様の覚えが目出度くなれば、色々と利益も大きい。そうなれば、結局お前の弟の薬もより多く手に入る。それで文句はないだろう?」


 そう言われれば、フランソワとしても反対する訳にはいかない。

 自分に残った唯一の家族たるランタを生かす為には、トリパーラの用意する薬が必要なのだ。

 その薬を少しでも多く得る為にもなると、そう言われれば、フランソワとしてはそれに否とは言えない。


「そうね。……じゃあ、早速スラム街に行ってくるわ。今なら夜だし、スラム街の中でも後ろめたい事情のある人は動いてるだろうし」


 そう言いながら、フランソワはトリパーラの部屋から出て行くのだった。






「うーん……あのクラゲ達を調べたいわね」


 夜の湖を漂い、レイの近くで懐くような姿を見せていたクラゲが湖に戻っていくと、アナスタシアが小さく呟く。

 アナスタシアの目から見ても、今のクラゲはとてもではないが通常のモンスターには見えなかった。

 ……もっとも、この湖が異世界から転移してきた湖で、そこにいるモンスターは魔石を持っていないという時点でとてもではないが普通のモンスターとは呼べないのだが。


「無茶を言うなよ、無茶を。あのクラゲは見ての通りかなりこっちに友好的な存在だ。そんな相手を不愉快にするような真似をしたら、それこそ面白くないことになるぞ」


 あのクラゲは友好的な存在ではあるが、だからといって攻撃力が低いとは限らない。

 もしかしたら、かなり高ランクのモンスターである可能性もあった。

 そんな相手を無意味に怒らせるような真似をした場合、一体どうなるか。

 少なくても、レイはそれを試してみたいとは思わなかった。

 ……いや、そのようなことがなくても、自分に懐いてくれる相手を不愉快にさせようなどとは、やはりレイには思えない。

 アナスタシアもレイの言葉に何か感じることがあったのか、渋々といった様子で頷く。


「分かったわよ。……でも、あのクラゲが私に懐いてくれるようなことがあったら、少し研究してみても構わない?」

「それは……まぁ、俺に止められることじゃないけど、正直なところを言わせて貰えば、止めておいた方がいいと思うけどな」


 あのクラゲは、その外見に見合わず一定以上の知能を持っているように思えた。

 そうである以上、もしアナスタシアが何らかの理由で友好的な関係になり、そして研究をさせて欲しいと言えば、その言葉を理解する可能性は十分にある。

 だが、相手の理解がレイやアナスタシアの思っているような理解ではない可能性がある以上、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、場合によっては大きな問題になる可能性があった。


「それに、アナスタシアはウィ……いや、今の研究対象があるだろ。あの研究対象を十分に研究していないのに、それでも別の研究対象に目移りするのは、正直どうかと思うぞ」


 皆のいる前でウィスプと口にしそうになったレイは、何とかそれを誤魔化す。

 別にレイの話を盗み聞きしている者がいるとは思わないが、それでもここにいる冒険者達は、皆が相応の実力を持った者達なのだ。

 何かの偶然でレイの言葉を耳にしたという者がいても、おかしくはない。

 だからこそ、レイは迂闊にウィスプという言葉を口にしないようにしながら、話を誤魔化したのだ。

 そんなレイの気遣いを理解したのかどうかは分からなかったが、それでもアナスタシアは若干不承不承ではあるが、その言葉に頷く。


「そうね。……残念ながら、そうなるかしら。ただ、あのクラゲがかなり魅力的な研究相手だというのは、間違いないのよ」

「それを俺に言われてもな。それに、この湖の研究はアナスタシア以外にもやっている奴がいるから、取りあえずそっちは任せてもいいんじゃないか?」


 え? と少しだけ驚きの表情を浮かべたアナスタシアだったが、この湖の調査は必須である以上、研究者を派遣してくるのは当然だった。

 そのような真似をすれば、湖について知っている者がどんどん増えることになる。

 それはアナスタシアも分かっていたが、それでも湖の調査をする必要がある以上、避けて通れない道だった。

 ……とはいえ、研究者達も一番重要なのは、自分の研究のこと。もっと具体的には、自分の知的好奇心を満たすことだ。

 もしこの湖について誰か他の者に話した場合、その罰として自分はもう二度とこの湖にやって来ることは出来ないかもしれない。

 そして、自分の代わりに別の誰かがこの未知の塊とでも呼ぶべき湖を調査し、様々な秘密を知る可能性があった。

 また、もし自分がここに来ることが出来たとしても、この湖に来る研究者が増える可能性がある。

 そうなれば、結果として自分が疑問を抱いたことをその研究者が解き明かしてしまう可能性があった。

 それは、研究者にとって面白くない。

 そんな真似をするくらいなら、この湖について話さない方がいいというのが、多少の差異はあれども、研究者の性だった。

 ……だからこそ、アナスタシアも自分の助手たるファナ以外に、あの地下空間とウィスプの件を教えるつもりはなかった。

 もっとも、異世界から者や物を転移させる能力を持つウィスプは、この湖よりも圧倒的に機密度が高いので、アナスタシアに依頼したダスカーもその件を他の誰かに話すことは許さないだろうが。


「ともあれ、あの光るクラゲには妙な真似をするなよ。俺もアナスタシアに危害を加えたくはないからな」

「……分かってるわ」


 若干不承不承ながらも、アナスタシアはレイの言葉に頷く。

 レイがそこまで言うのであれば、自分はこれ以上何も言わない方がいいだろうと、そう判断して。

 アナスタシアの様子を見て、取りあえずこれで光るクラゲにちょっかいを出すような真似はしないだろうと判断したのか、レイは話題を変える。


「アナスタシアは何の研究者なんだ? やっぱりモンスターについての研究なのか?」

「え? そうね。……具体的に何かと決まっていた訳ではないわ。興味のあるものを次々に研究していくといったところかしら」

「……それは、また」


 いわゆる、天才型とでも呼ぶべき研究者なのだろう。

 ウィスプの研究を任されただけに、てっきりモンスターについての研究が専門なのかとばかり思っていたのだが。


「あら、言っておくけど人間ならともかく、私はエルフよ? 人間よりも長い寿命を持っているんだから、それだけ学ぶ時間も多いの。そういう意味では、エルフは研究者向きかもしれないわね」


 アナスタシアの言葉に、レイは納得する。

 一を聞いて十を知るといった天才の類もいるので、必ずしもエルフの方が研究者に向いているとは言えないが、全般的に見た場合は、やはり学ぶ時間の長いエルフの方が研究者として有利なのは間違いないだろう。


「そういう意味では、エルフって羨ましいな」


 そう告げるレイだったが、レイの身体はゼパイル一門の技術によって作られており、具体的に寿命がどれくらいなのかはレイ本人も知らない。

 だが、この世界にやって来てから全く背が伸びていないことを考えると、普通の人間と同じ寿命と考える方が無理だろう。

 また、レイの仲間の中でもエレーナ、マリーナ、ヴィヘラの三人は明らかに人間以上の寿命を持つ。

 そういう意味では、レイ達は色々な意味で人外の存在だと言ってもいいのだろう。


「そうね。ただ、寿命が長ければ長いなりに、悪いところもあるのよ? 例えば、私は好奇心が強いから、こうして森の外に出て来たけど、エルフの中には長く生きていることで精神が摩耗して好奇心が全く存在しなくなった者も少なくないわ」


 その説明に、レイはうわぁ……と微妙な気分を味わう。

 レイにしてみれば、折角の長い寿命を持っていても、それでは意味がないと思えたからだ。

 ……グリムという存在を知っているからこそ、余計にそう思ったのかもしれないが。

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