第1966話
「……は?」
屋敷の主人の口から、間の抜けた声が出る。
実際、本人は何が起きたのかをまだ理解していないのだろう。
まさか、自分に向かってどこからか短剣が投擲されるなとどいうのは、完全に予想外だったといったところか。
もっとも、強制捜査に参加した警備兵や冒険者達にしてみれば、散々犯罪の証拠を見つけているのだから、その辺りの理由で屋敷の主人が狙われてもおかしくはない。
それこそ、多くの犯罪を重ねておきながら、それでよく自分が狙われると思っていなかったというのが、寧ろ驚きだった。
「さて、ようやくおでましかしらね」
手甲に弾かれて廊下に落ちた短剣を眺めつつ、ヴィヘラは嬉しそうに……それこそ、心の底から嬉しそうに告げる。
もしヴィヘラのことを知らない者であれば、それこそその美貌に目を奪われ、心を奪われてもおかしくはない程に、美しい笑顔。
だが、ここにいる者の殆どはヴィヘラがどのような人物か知っている以上、そんなヴィヘラの笑みを見ても畏怖を抱く者はいても、見惚れる者は……実は、それなりにいた。
美人というのは、それだけ人の目を引き付ける能力を持っているということの証でもあるだろう。
もっとも、その笑みを浮かべた本人は周囲の様子を気にせずに、短剣の飛んできた方に向かって素早く走る。
部屋の外に向かって走り出したヴィヘラだったが、部屋の中にいた者達がその後ろ姿を見送り……そこで、ようやく屋敷の主人が我に返る。
床に落ちている短剣を見て、そこで改めて自分が命を狙われたということに気が付いたのだろう。
不意に、その場に座り込む。
「え?」
そう疑問の声を上げたのはレイだったが、他の面々も何故いきなり座る? といったような疑問を抱いたのは間違いない。
だが、部屋の中にいる全員に視線を向けられた屋敷の主人は、自分の現状……腰が抜けた状況を理解すると、顔を真っ赤にしながら口を開く。
「わ、わ、私をどこか別の部屋に運ぶんだ!」
羞恥と怒りの混ざった声で叫び、それでようやく周囲にいたメイドや執事達も我に返ったのだろう。
床に座っている自分達の主人を抱え、その場から立ち去る。
……その際に他のメイドや執事がレイ達に向かって礼儀正しく一礼したのだが、その様子がどこかチグハグな感じを受ける。
自分の仕える主人が腰を抜かしているのに、何故そのように優雅な一礼を? と。そう思ってしまうのだ。
「あー……取りあえず、昨日の屋敷と同様にこの屋敷に護衛というか刺客というか、そんな感じの奴はいたみたいだな。幸いにも、数は少ないみたいだけど」
屋敷の主人やメイド、執事、兵士といった者達が消えた後で、レイが雰囲気を変えるように告げる。
そんなレイの言葉で、他の者達も我に返ったのだろう。今の一連の様子について、それぞれ喋り始める。
「けど、まさかこの状況で狙ってくるとは思わなかった。……そもそも、何であの男が狙われたんだ? あの男を殺すなら、それこそ今でなくても時間は十分にあった筈だ」
「言われてみれば、そうですね。……わざわざレイがいるような時に殺そうとするなんて、それこそ自殺行為以外のなにものでもないかと。そうなると、今でなければならない理由があった?」
警備兵の言葉に、部屋の中にいた者全員の視線が一点に向けられる。
即ち、地下空間に続く階段に。
「けど、何でだ? 別にこの階段が見つかったからって、今すぐに殺さなければならないって事にはならないだろ」
「そうか? 強制捜査で結構な犯罪の証拠が出てきた。だとすれば、このまま捕まる可能性が高いんだから、それなら今のうちに……と、そう考えてもおかしくないと思わないか?」
その警備兵の言葉を聞けば、納得出来る者も多い。
実際に警備兵達は今日の強制捜査が終わったら、見つけた証拠からこの屋敷の主人を捕らえるつもりだったのだから。
そして警備兵に捕らえられて詰め所に連れて行かれた場合、暗殺する際の難易度は劇的に上がってしまう。
それなら、今のうちに始末したおいた方がいいと、この屋敷に入り込んでいた刺客がそう判断しても、おかしくはないだろう。
「けど、なんであの男を始末する必要があるんだ? あの様子を見る限り、この隠し階段については何も知らなさそうだったぞ? なら、別に危険を冒してまで口封じをする必要はないと思うんだが」
警備兵の一人のその言葉に、確かにといったように皆が頷き……
「それなら、この子に詳しいことを聞けばいいんじゃない?」
扉から聞こえてきた声に、気配を察していたレイ以外の者達が驚きの視線を向ける。
そこにいたのは、ヴィヘラ。
ただし、その手には気絶した子供が一人抱かれている。
「あ」
その子供を見て、思わず声を上げたのはレイだった。
何故なら、その子供がレイに見覚えのある人物……正確には、昨日隣の屋敷を強制捜査した時に、警備兵を襲っていた子供だったからだ。
結局地下空間で見失い、後を追おうにもピンクの触手の一件があった為に、その場から退却してそのままになっていたのだが……
(もしかして、あの地下空間からこの屋敷に逃げ込んだのか? その隠し階段を使って)
だとしても、屋敷の主人を殺そうとする理由は存在しない。
そんな疑問を抱きつつ、レイはヴィヘラに声を掛ける。
「で、どうだった?」
何が、具体的にどのような意味でどうだったと聞いた訳ではないのだが、レイとヴィヘラであればそれで十分に話は通じた。
「そうね。予想していたよりも少し小粒だったかしら。けど、この年齢として考えれば将来的には有望ね。……もっとも、この子がこの先どのような人生を歩むことになるのかは、私にも分からないけど」
子供でこのような仕事をやっているのだから、明らかに何らかの訳ありなのは間違いない。
自分の腕の中にいるこの子供が、これから先どうなるのか。
ヴィヘラは、それが少し楽しみなようで、若干の心配もあった。
もっとも、その子供を引き取って……とまでは、考えてもいなかったが。
「子供か」
何だかんだと甘いところのあるランガやダスカーのことを考えると、恐らくは引き取られてエッグに預けられ、諜報の方にまわされるのではないか。
そんな風に思いつつ、レイは頭を切り替える。
「さて、それでだ。……一応地下の空間に向かう階段はあるんだから、このまま行ってみるか?」
「ちょっ、レイ!? いきなり何を!?」
レイのその一言に反応したのは、当然のように警備兵。
地下にある空間は危険だと、そう主張したのはレイだ。
だというのに、何故この状況で地下に向かおうとするのかと、警備兵がそんな疑問を抱くのも、当然だった。
だが、慌てている警備兵とは違い、レイは特に動揺した様子もなく口を開く。
「言いたいことも分かるけど、地下空間は調べておく必要があるだろ。一応そっちで様子を見てきて貰ったみたいだが、それは本当にすぐに戻ってきたんだろ?」
「いや、だが、それは……」
レイの言葉に警備兵が何かを言おうとするも、レイはそんな相手に分かっていると頷く。
実際、警備兵達がピンクの触手によって被害を受けたりしないように、地下空間を見つけたら出来るだけその空間内にいないようにと言われていたのは、レイも知っている。
それでもレイが地下空間に行くと言ったのは、念の為に本当に自分でもその地下空間が昨日と同じ場所なのかというのを確認しておきたいというのもあったし、何より……
「はい。この子をお願いね。意識が戻ったら多分暴れるから、今のうちに縛っておいた方がいいわよ」
気絶した子供を警備兵に渡しているヴィヘラ。
そのヴィヘラの視線は、子供を渡した後はすぐに隠し階段の方に向かっている。
警備兵達が何を言おうと、そしてレイが何を言おうと、どうあっても地下空間に向かうというのを決めている表情。
もっとも、それはヴィヘラと一緒に行動しているレイだからこそ理解出来ることであって、警備兵達にはそこまで詳しくヴィヘラの表情を読み取ることは出来ない。
……とはいえ、今のレイの言葉や普段のヴィヘラの言動を考えれば、ヴィヘラが何を考えているのかというのを予想するのは難しい話ではない。
この辺、警備兵も何だかんだとヴィヘラとの付き合いがあるのが影響しているのだろう。
レイや警備兵に視線を向けられたヴィヘラだったが、特に気にした様子もなく、そのままレイの方に近づき……
「さて、レイ。じゃあ行きましょう。触手が出てくるかどうかは分からないけど、取りあえず行ってみないと何も起こったりはしないでしょうし」
「そんな訳だ」
ヴィヘラに対する返事の代わりに、警備兵達に向けてそう告げる。
こうなったヴィヘラを止められるか? と、そんな意思を込めてのレイの言葉に、警備兵達も何も言えなくなる。
レイが本気になれば止められるのでは? という思いが警備兵達にない訳でもなかったが、レイも無理にヴィヘラを止めようとは思っていない。
何より、地下空間を自分で確認してみたいという思いがあったのも、また事実なのだ。
だからこそ、ヴィヘラと共に隠し階段に向かって進む。
そんな二人を、警備兵達は黙って見送る。
ここで止めても、言葉では無意味だろうし、実力行使というのは論外だと、そう理解している為だ。
また、地下空間の様子を出来るだけ詳細に確認しておくのは、警備兵達にとっても利益となる行動だったというのも大きい。
そうして結局誰も止めるようなことはなく、レイとヴィヘラの二人は地下空間に続く階段を向かって降りていく。
「てっきり誰か止めるかと思ったんだけどね」
階段を降りながら、ヴィヘラが小さく呟く。
レイはその言葉を聞きながら、相手には見えないだろうと思いつつ、ヴィヘラの後ろを歩きながら、首を横に振る。
「あの地下空間を調べるのは、絶対に必要なことだ。そうなると、少しでも情報は集めておきたい……といったところなんじゃないか? 実際、あの地下空間については、殆ど情報らしい情報がないし」
「この屋敷にはいなかったけど、他の屋敷にはどこかこの地下空間について知ってる人がいるのは間違いないんでしょ? なら、そっちを捕まえればいいんじゃない?」
実際に赤布達を引き連れて地下空間にやって来た者がいる光景を見ているだけに、レイもそんなヴィヘラの言葉は納得出来た。
そうして会話をしつつ階段を降りていき……やがて、唐突に地下空間に出る。
「……どう? 昨日来たのと同じ場所?」
周囲を見回したヴィヘラが、レイに尋ねる。
レイもまた同じように周囲を見回すと、その言葉に頷きを返す。
「ああ。これだけ広い地下空間が、その辺に幾つもあったりする訳がない。間違いなく昨日俺が見たのと同じ場所だな。……幾つか上に続く階段があるのも、それらしいし」
常人よりも高い視力を持つレイだからこそ、自分達が下りてきた場所から向かいの壁に上に続く階段があるのが理解出来る。
ヴィヘラもまた、現在は人間以上の能力を持っている為か、そんなレイの視線を追って納得したように頷いた。
「なるほどね。……こうして見ると、本当に広いわね。どうやってこんな空間を作ったのかしら。もしかして、上に屋敷を建てるよりも前に、この空間があったとか?」
「どうだろうな。こんな空間があれば、それこそ屋敷を建てる時に見つかるだろうし、そんな場所にこういう立派な屋敷を建てるとは思えないけど」
地下にこれだけの空間があるのであれば、建物を建築する際に地面が陥没する危険もある。
そうであれば、このような地下空間があるのに建物を建てるとは、とてもではないがレイには思えなかった。
「あ」
ふと、ヴィヘラが小さく呟く。
その声にヴィヘラの方を向くと、その顔は横を見ている。
そんなヴィヘラの視線を追ったレイが見たのは、数人の警備兵が階段から姿を現した光景。
向こうもヴィヘラの姿に気が付いたのか、驚いているのがレイにも分かった。
「多分、あの警備兵がいる場所でもここに続く隠し階段を見つけたんだろうな」
「そうね。まぁ、この辺り一帯の屋敷に同時に強制捜査を行ったんだから、それを考えれば同時にこの地下空間に下りてきても不思議じゃないってことでしょ」
警備兵が手を振ってくるのに対して、レイとヴィヘラもまた手を振る。
それを確認した警備兵は、レイ達の方に近づいてくる様子もなく、すぐに自分が下りてきた階段を戻っていく。
レイ達が下りてきた隠し階段を見つけた警備兵もそうだったが、ピンク色の触手の一件もあるので、この地下空間を確認したらすぐに戻ってくるようにと言われていたのだろう。
レイやヴィヘラなら触手に襲われても対処出来るので問題はないのだが。
「さて、取りあえずどうする? もう少しここを調べてみるか?」
そう尋ねるレイに、ヴィヘラは頷きを返すのだった。
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