第1920話
「これは……また、随分と頑張ったわね」
土壁を見たマリーナが、感心したように呟く。
まさか、ここまでの土壁を作ったとは、思ってもいなかったのだろう。
「うわぁ……」
マリーナの教え子のメールも、目の前に広がる土壁を見ながら感心したように声を出す。
メールにしてみれば、これだけの土壁を作るのに一体どれだけの労力が必要なのかと、それこそレイの魔法の実力に驚いていた。
……実際には魔法でも何でもなく、魔獣術によってデスサイズが習得した地形操作のスキルを使ったのだが。
マリーナはそれを理解しているが、メールはレイの仲間という訳でもないし、ここに到着するまでの間に、マリーナの弟子をやっているのは春までだという話も聞いている。
つまり、レイの秘密を話すべき相手ではない以上、デスサイズのスキル云々というのは一切話すことなく、レイの魔法だと誤解させておく必要があった。
「そんなに褒められると、少し照れるな。……こうして見る限り、土壁を登ってきたコボルトは今のところいないか」
話を逸らす為に、レイはそう告げる。
もっとも、それだけの理由ではなく、実際にその辺りの事情も知っておく必要があったのだが。
こうして見る限りでは、コボルトが土壁を乗り越えた痕跡はない。
……あくまでも今レイが見えている範囲での話である以上、完全とは言えないが。
ともあれ、こうしてマリーナが……そしてメールが来た以上、この土壁がより強固なものになるのは確実だった。
「そうみたいね。……もっとも、土壁の向こうには何匹かいるみたいだけど」
精霊魔法、もしくはダークエルフとしての感覚からか、マリーナのその言葉に、レイもまた頷く。
「らしいな。けど、この土壁が登れないとなれば、すぐにギガント・タートルの方に行くだろ。……向こうは大変になるかもしれないけど」
「え? この向こうにコボルトがいるんですか!?」
レイやマリーナとは違い、壁の向こうにコボルトがいるというのが分からなかったのだろう。メールは二人の会話を聞き、慌てたように周囲を見回す。
「いや、だから土壁の向こうだって。こっちを見てどうするんだよ」
メールの様子に、レイは呆れを込めてそう告げる。
改めて、本当にこの人物で大丈夫なのかという思いがレイの中に湧き上がってきたが、マリーナが大丈夫だと言ってる以上は任せるしかないというのが正直なところだった。
そんなレイの考えを読み取った訳でもないだろうが、マリーナが自分よりも頭一つ分程小さいメールの頭を撫でながら、口を開く。
「さて、じゃあまずはやってみましょうか。……ほら、緊張しないの。何度も言ってるけど、メールは精霊魔法の使い手としては間違いなく一人前よ。後はただ、その能力を普段から発揮出来るようにするだけ。……いい?」
「……はい」
マリーナの言葉にメールは小さく返事をし、意識を集中する。
その様子を見ていたレイとセトだったが、マリーナがレイの手を引っ張ってメールから離れた場所に移動する。
当然ながら、セトもレイと共に移動し、メールの周囲には誰もいなくなった。
「何で離れるんだ?」
「あの子は、近くに人がいるとあまり集中出来ないのよ。その辺りは、少しずつどうにかしていく必要があると思うんだけどね」
「それは、また。……一応聞いておくけど、メールって冒険者だったりするのか?」
「ええ。もっとも、見ての通り人見知りが激しいから、パーティーを組むようなことは出来ずにソロで活動してるんだけど」
「いや、ソロって……無理じゃないか?」
レイが見たところ、メールは精霊魔法特化と呼ぶべき存在だ。
正確には、その精霊魔法をどれだけ使いこなせるのかは分からないが、少なくて身体の動かし方は素人……とは言わないが、近接戦闘を得意とするようには見えない。
(マリーナみたいに、すぐに精霊魔法を発動させられるのなら、精霊魔法一本でも問題ないんだろうけどな。いやまぁ、マリーナは弓も使えるけど)
だが、こうして見ている限りではメールが精霊魔法を発動させるのには相応の時間が掛かっている。
このような状況でソロの冒険者というのは……不可能ではないが、相当に厳しい筈だ。
(もし俺がメールのように精霊魔法しか出来なかったら、それこそ向こうから攻撃を受けないように隠れた場所から精霊魔法を使って敵を倒すか……もしくは、いっそのこと討伐依頼は一切受けないで、採取とかの依頼専門になるかだろうな)
レイの場合は性格や稼ぎの多さ、そして何より魔石を必要としている為に、そのような選択肢は採れなかったが、ソロでメールのような能力しかないのであれば、そのような選択肢が最善となるだろう。
「レイ、見て」
そんなレイの考えを中断させたのは、マリーナの声。
その声に、マリーナの見ている方に視線を向けると、そこではいよいよメールの精霊魔法が発動しつつあった。
まず生み出されたのは、水の塊。
それこそ、まるでスライムか何かのように空中――地上から一m程の高さの場所――で水が蠢いていていた。
「へぇ」
空中に浮かんでいる水を見て、レイの口から感嘆の声が出る。
その水の大きさはそこそこのものがあり、レイが見たところでは二十五mプールを満杯にするくらいの量はあるように思えた。
マリーナから才能があるという話は聞いていたが、それでもまさかここまでとは思っていなかったというのが、レイの正直な思いだった。
そんなレイの様子を見て、マリーナは笑みを浮かべて視線を向ける。
言葉には出さないが、だから言ったでしょう? と、そう視線で言ってるように思える様子だった。
そんなマリーナに、レイは自分の見る目のなさを反省しながら小さく頷きを返す。
セトも、レイの側で空中に浮かんだ水を興味深そうに眺めている。
二人と一匹の視線の先で、メールは水の精霊にお願いをして空中に浮かんでいる水を動かす。
その水は土壁の上に着地すると、そのまま吸い込まれるようにして土壁に吸収されていく。
とはいえ、メールが精霊魔法で呼び出した水の量では、全ての土壁に染み渡らせるには到底足りない。
その辺はメールも分かっているのだろうが、今のメールの実力で呼び出せる水の量は、それが限界だった。
「ふぅ……えっと、マリーナ様。次は……どうしましょう? 一旦全部の土壁に水を吸収させますか? それとも今の分だけでも風の精霊を呼び出して凍らせた方がいいんでしょうか?」
凍らせるのに風の精霊? とレイは疑問に思ったが、濡れた時に風が吹くと冷たく感じるのを考えると、凍らせるという意味ではそう間違っていないのだろうと、取りあえず様子を見る。
「そうね。取りあえず水の精霊とのやり取りはそれなりだったから、次は風の精霊を見せてちょうだい」
「は、はい!」
マリーナの言葉にメールはそう返事をすると、再び集中して精霊に呼び掛け始める。
すると水を呼び出す時よりも素早く、周囲は強く冷たい風が吹き始めた。
「水の時に比べると、随分と効果が出るのが早いな。これは、メールが風の精霊との相性がいいからか?」
「違うわ」
レイの言葉に、あっさりとマリーナは断言する。
まさか、そのように断言されるとは思ってもいなかったレイは、マリーナに確認の視線を向ける。
だが、レイの視線の先にいるマリーナは、特に冗談を言っているようには思えない。
「違うって、どういうことだ? 実際、水の時よりも風が吹き始めたのは早いだろ?」
「それは間違いないわ。けど、風と水のどちらがメールと相性が良いのかと言われれば、それは水よ。……これは単に、レイの前で精霊魔法を使うのに緊張して、戸惑っていたのが少しだけ慣れたからね」
「慣れ?」
「そう。レイの前で精霊魔法を使うのに、まだ慣れていなかったということでしょうね。……結果として、きちんと意識を集中して精霊に語り掛けるまでにある程度の時間を必要としたのよ」
「……本当に冒険者としてやっていけるのか? 人が見てるからって攻撃とかをするのに時間が掛かるようだと、それこそモンスターや盗賊の類に襲われたらどうにもならないと思うんだが」
改めてメールがソロである理由には納得したレイだったが、それにしてもこれは酷いというのが正直な感想だった。
マリーナが指導しているのだから、能力そのものは決して悪い訳ではないのだろう。
だが、メールの問題は能力以前にその気の弱さこそが最大の原因だった。
それこそ、ギルド職員に話し掛けたりといった真似が出来るのかどうかも、非常に怪しい。そう思ってしまうのは、決してレイの気のせいだけという訳ではないだろう。
「それはあるけど、性格は変えようと思えば変えることが出来るでしょ。それこそ、メールだってその気になれば性格を変えるといったことは出来る筈よ」
そうして二人が話している間にも、周囲に吹く風は急速に冷たくなっていく。
レイはドラゴンローブがあり、マリーナは精霊魔法が使える為に特に気にした様子はないが、もしここにそのように自分の周囲の気温を無視出来ない者がいれば、恐らく寒さに歯を震わせていたことだろう。
見て判断することは出来ないが、それでも土壁が凍り付いているのは、ほぼ確実だった。
そして数分後……土壁を凍らせることが成功したと判断したのか、メールはマリーナの方に視線を向け、珍しく満面の笑みを浮かべる。
普段は気弱そうな表情を浮かべていることの多いメールだったが、それでもやはり顔立ちが整っているだけあって、見ている者の気持ちを暖かくするのは間違いない。
「どうでしたか? 結構頑張ったんですけど……」
「私に出来を聞くよりも、自分ではどう思ったの? 上手くいったと思った?」
「えっと……はい。精霊が私のお願いを聞いてくれたのが分かりました」
「そう。なら、それでいいわ。……後は、その性格をどうにかすれば、問題はないんだけど」
「うっ」
喜んでいたところに、マリーナの口から出た一言。
それはメールに現実を思い出させる。
「それは、その……追々といったことで……」
「そうね。幸いダークエルフの寿命は人間よりも長いし、追々といった感じでもいいかもしれないわね。……けど、今度、また今度、そのまた今度……なんて風に言ってたら、いつまでも変わるようなことは出来ないわよ?」
マリーナのその言葉に、ふとレイは日本にいた時のことを思い出す。
長期休暇の時に学校から出される宿題。
それを今日からやろう、やっぱり明日からやろう、いや明後日から……そんな風に考え、結局夏休みが終わりに近くなって、遊ぶ暇もないくらいに忙しくなる。
今のメールと当時のレイとでは、似ているようで似ていない状況だろう。
「まぁ、取りあえず今日はよく頑張ったと思うわ。……さて、本来なら他の場所もメールにやって貰おうと思ってたんだけど、私がやった方が早そうね。メールも多少は精霊魔法のコツについて分かったみたいだし」
下がっていなさい、と。
そうレイとメールの二人に告げたマリーナは、土壁の近くまで移動すると意識を集中する。
その行為そのものは、メールとそう変わらない。
だが、メールと違うのは集中してから精霊に語り掛けるまでの時間。
圧倒的に、メールよりもマリーナの方が早かった。
その差は、直接的な精霊魔法の技量の差と言ってもいい。
「うわぁ……」
メールの口から出たのは、感嘆の言葉。
とてもではないが、自分では無理な速度での精霊魔法の行使に、感心することしか出来ない。
「お願いね」
そんな短い一言で水が生み出される。
それも、メールが生み出した水の量とは、明らかに違うと一目で分かる量だ。
やがてその水は一直線の棒……いや、水の蛇か何かのような形となって、土壁の上に待機し……やがて、着地する。
結果として、生み出された水は無駄なく土壁に染みこんでいった。
メールが行った時は、そこまで綺麗に水が染みこむといったことがなかったし、土壁以外の場所に水が漏れたりもした。
それを考えると、マリーナの精霊魔法の使い方はメールとは比べものにならないくらいに上手いと言えるだろう。
また、その規模も大きく違う。
メールの場合は土壁の一部にしか水を染みこませることが出来なかったが、マリーナは土壁の全てに一気に水を染みこませたのだ。
そうして水を十分に染みこませたと判断したら、次にマリーナが行うのは風の精霊に呼び掛けることだった。
……これもまた、メールとは違う。
メールの場合は周囲に……それこそ少し離れた場所にいたレイ達にも、その冷たい風は届いていた。
幸いにして、レイ、マリーナ、セト共にその程度の風は特に気にしなかったので影響はなかったのだが。
ともあれ、マリーナが使った風の精霊魔法は、周囲に全く影響を与えることがないままに……土壁の全てを完全に凍らせたのだった。
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