第1870話
ブルーイットと別れたレイとエレーナの二人は、そのままケレベル公爵邸の中にあるエレーナの部屋にやって来ていた。
もっとも、この屋敷にエレーナの部屋は幾つも存在しており、その中で客を迎える部屋の一つなのだが。
……実際には客を迎える部屋の中でも最上級の部屋だったのだが、レイはそれに気がついた様子はない。
「どうぞ」
「……そう言えば、何だか久しぶりに見た気がするな」
ソファに座ったレイに紅茶を出したアーラを見て、レイはそんなことを呟く。
実際、ケレベル公爵邸にやって来てから、レイはアーラと会う機会は殆どなかった。
アーラはエレーナの護衛騎士団を率いる団長として、やるべき仕事が文字通りの意味で山となっており、それを片付けるのに忙しかったというのもある。
結果として、何度かレイと顔を合わせることもあったが、エレーナに比べればその頻度は恐ろしく少なくなっていたのだ。
アーラもそれは理解していたのか、笑みを浮かべる。
「そうですね。書類の処理が忙しくて、レイ殿と会う機会もどうしても少なくなりまして……」
「なら、今はもういいのか? いや、俺はアーラの淹れた紅茶を飲めるから嬉しいけど」
アーラの紅茶を淹れる技量は、それこそ非常に高い。
レイから見れば、他の人とやっていることにそう違いがあるようには思えないのだが、紅茶の味は明確に違うのだ。
もっと紅茶に詳しい者であれば、色々と細かい違いが分かるのだろうが……レイの場合は、淹れられた紅茶を飲むくらいはするが、自分で紅茶を淹れるといったことはしない。
日本にいる時も、精々ティーバッグを使って紅茶を飲んだことがあるくらいだ。それも何度か、といった程度。
自販機で売っている、缶やペットボトルの紅茶……いわゆる、紅茶風飲料とでも呼ぶべき物はそれなりに飲んだことがあったのだが。
そんなレイであっても、美味いと断言出来る紅茶を淹れられるのが、アーラなのだ。
正直なところ、アーラはエレーナの護衛騎士団の団長という地位よりも喫茶店のような店で働く方が天職なのではないか。
そんな風に思ってしまう。
とはいえ、アーラがここまで紅茶を淹れる技量が上がったのは、第一にエレーナに美味しい紅茶を飲んで貰いたいからというのがある。
そうである以上、エレーナの側にいられなくなるような仕事をするとは、アーラがどれだけエレーナに好意を抱いているのかを知っているレイには思えなかったが。
「レイ殿にそう言って貰えると、私も頑張った甲斐がありますね。……それで、エレーナ様。これからするお話は私が聞いても?」
アーラがエレーナに尋ねると、尋ねられたエレーナはレイに向かってどうする? と視線を向けてくる。
「アーラもいてくれて構わない」
もしここにいるのがアーラ以外の……それこそ、レイのよく知らない相手、もしくはそこまで親しくない相手だったりすれば、レイは一緒に話を聞くのを許可するような真似はしなかっただろう。
それこそ、レオダニスやブルーイットのように、それなりに親しい相手でも断った筈だ。
だが、アーラとは知り合って数年が経つということもあってその性格も実力も十分に知っているので、ここで断るという選択肢は存在しなかった。
そんなレイの考えを察したのか、アーラは少しだけ嬉しそうにしながらエレーナの隣に座る。
……一瞬、本当に一瞬だったが、レイはもしかしたらアーラが嬉しそうにしているのは自分の言葉に喜んだのではなく、エレーナの隣に座れたからなのでは? と思ってしまうが、取りあえず違うと自分に言い聞かせて、改めて口を開く。
「まず第一に、俺は黒狼という暗殺者に狙われていた」
レイの口から黒狼という言葉が出た瞬間、エレーナの隣で嬉しそうにしていたアーラの表情が固まる。
アネシスが第二の地元というアーラだけあって、当然のように黒狼という名前は知っていた。
それがどれだけ危険な暗殺者であるのか、それを知っているからこそアーラはこのように固まったのだろう。
「正直に言わせて貰えば、よく無事でしたね」
「そうだな。実際に黒狼は強かった。けど、暗殺者というのが黒狼の真骨頂だろうに、何故か俺を襲った時は正面から攻撃してきた。普通に暗殺者として徹していれば、俺も危険だったのは間違いないんだろうけどな」
それこそ、日常の中でどのような手段を使って命を狙ってくるのか分からないのだ。
そうなれば、レイであっても精神的に消耗してもおかしくはない。
なのに、黒狼はそのような手段を使わず、正面からレイに挑んできたのだ。
何故そのような真似をしたのかは、レイにも分からない。もしかしたら、黒狼本人にも何らかの確固たる理由がなかったのかもしれない。
(もしかしたら、肉まんの一件で俺が日本から来たと、本能的に悟ったからとかか? ……可能性はあるかもしれないけど、どうだろうな)
結局のところ、肝心の黒狼がその辺の事情について何も言わずに死んでしまった今、その辺りのことを考えても意味はなかった。
「運が良かったんですね」
「そうだな。それは否定しない。黒狼が正面から挑んできたから、こっちも勝てたんだし」
アーラの言葉に、レイは短くそう返し、言葉を続ける。
「で、その黒狼が暗殺者である以上、誰かから情報を貰って行動していたのは間違いない。エレーナに頼んで、ケレベル公爵家でその辺の情報がないかどうかを確認して貰ってきた訳だ」
「……それを、私が聞いてもいいのですか?」
アーラのそんな疑問に、エレーナは問題ないと頷く。
エレーナにとって、アーラは小さい頃からの自分の親友にして、最も信頼するべき相手なのだから。
そしてエレーナの手足となって動く護衛騎士団の騎士団長という地位にあるというのも、これからする話は聞いておいて貰った方がいいと判断していた。
「そうしてくれ。……さて、まず端的に言えば、黒狼との仲介役を専門的にしている者がいるらしい。その者の拠点も、聞いてある」
「さすがだな。……けど、そこまで分かってるなら、それこそケレベル公爵家として手を打ってもよかったんじゃないか?」
最大戦力と言ってもいいエレーナがいなかったのは間違いないが、ケレベル公爵騎士団を率いるフィルマがいる。
戦力として足りないということは、まず考えられなかった。
その状況で、何故黒狼を野放しにしておいたのか。
そうレイが思ってしまうのは当然だろう。
だが、エレーナはレイの言葉に首を横に振る。
「黒狼の仲介役をしているのは、アネシスにある裏の組織の中でも最大勢力の者なのだ」
「あー……なるほど」
アネシスは、ミレアーナ王国の中では王都に次ぐ都市として知られている。
当然のように、そのような都市の裏で最大勢力を誇る者となれば、そう簡単に処分するという訳にもいかない。
裏の組織だからこそ、当然のように様々な罪を犯してはいるが、同時にその組織があるからこそ、無秩序な騒動になっていないというのも、間違いのない事実なのだ。
もしどこかの組織がアネシスの裏の世界を纏めていなければ、それこそ群雄割拠といった状態になり、自らの組織がアネシスの裏の世界の覇権を握ろうと、多くの組織同士で抗争が行われてしまうだろう。
また、アネシス以外からやってきた犯罪者達に対して、抑止力としての一面もあった。
このアネシスというミレアーナ王国第二の都市を治めるというのは、綺麗事だけではどうにもならないことでもある。
レイが拠点としているギルムでも、その手の裏の組織は幾つもあって、領主のダスカーはその組織の存在を許容している。
その辺りの事情を何となく察したレイは、エレーナの言葉に反論することは出来なかった。
思うことは勿論あるが、黒狼の一件でその不満を露わにしたところで、どうなるものでもないのだから。……レイがこのアネシスで裏の組織を立ち上げる、といった真似をするのであれば話は別だったが、当然のようにレイにそんなつもりはない。
だが、そうなると現在の状況で不味いと思うこともあった。
即ち、その組織を今までケレベル公爵家として見逃していたのであれば、そこにレイが攻め入るというのは、不味いのではないかということだ。
「安心しろ。今回は幾ら何でもやりすぎた」
レイの考えを読み取ったかのように……いや、ようにではなく、実際に読み取ったのだろうが、エレーナがそう告げる。
今回の一件は、ケレベル公爵家として許容出来る範囲を超えていた。
レイは、ケレベル公爵家の客人という立場にあるのだ。
そのレイを黒狼が殺そうとした。
これは、ケレベル公爵家にとって完全に許容範囲を超えていた。
今回は偶然レイが黒狼に勝ったが、それはあくまでもレイだったからだ。
もし黒狼に狙われたのがレイでなければ、その者は死んでいた可能性も高い。
そうなれば、その人物を客人として迎えたケレベル公爵家の面目は完全に潰されていただろう。
「なら?」
「うむ。その件もあって、父上から許可を取るのに時間が掛かったのだ。……攻めるぞ。向こうが何を考えてこのようなことをしたのかは分からぬが、だからといってこのまま何もしないという選択肢はない。……行けるな?」
答えが分かった上でそう尋ねるエレーナに、レイは当然と頷く。
黒狼と殺し合いをし、ブルーイットと模擬戦を行った。
それでも、今のレイにはまだ体力の余裕があり、これからすぐに戦うと言われても即座に問題ないと答えていただろう。
「当然だ」
「ふむ、そうか。……だが、今は休め」
「……は?」
てっきりすぐに出撃するのかと思っていたレイだったが、エレーナの口から出てきたのは、予想外の休めという言葉。
一体何故? と、そう疑問に……そして不満に思うのも当然だろう。
「冗談か?」
「違う。考えてもみろ。まだ明るいうちに騒動を起こせば、当然のようにそれは多くの者に見られる。そうなれば、余計な行動を起こす者もいるだろう。そうならないよう、夜に攻め込むのだ」
エレーナの言葉に、レイは若干納得出来ないものを感じたが、それでもここがアネシス……ケレベル公爵領である以上、その意思を無視することは出来ない。
いや、本当に我を通そうとすれば出来たのかもしれないが、今はエレーナの言葉に従った方がいいだろうと判断したのだ。
それでも、エレーナの言葉に感じた疑問を口にする。
「今回の件は、言ってみれば見せしめに近いものだろ? なのに、それをやるのがケレベル公爵家の者だと示さないでいいのか?」
「示すさ。ただし、同時に一般市民に対しては騒動を起こしたいとも思わない。だからこそ、夜に攻め込む訳だ。幸い……という言い方はどうかと思うが、今夜攻め込む予定の場所は裏の世界ではかなり有名な場所らしくてな。他の組織の者達も、何か動きがあったら知ることが出来るように見張りを置いているらしい」
「あー……なるほど。その連中に事情を知らせて貰う訳だ」
「そうなる」
明確にケレベル公爵家の者達が攻め込んだということを知らせずとも、攻め込む場所を見張っている者達が自分達で勝手に情報を広めてくれる。
おまけに、そのような者達が広める情報というのは、当然のように広がるに連れて派手になっていくのが一般的だ。
であれば、ケレベル公爵家が攻め入ったということが、どのくらいまで派手な情報となってアネシスの裏の世界に広まるのか。
それを聞いたレイは、若干不謹慎だと思いながらも、少しだけ楽しみになってしまう。
……もっとも、その戦いにレイが参加するということは、当然のように深紅の噂も広まるということなのだが、それはレイにとっては今更の話だった。
既にベスティア帝国との戦争や、それ以外にも様々な理由で深紅について広まっている以上、気にしても仕方がないと判断するのは当然だろう。
「取りあえず話は分かった。……それで、今回の襲撃に参加するのは誰だ? まさか、俺とエレーナ、アーラだけってことはないだろ?」
「基本的にはその通りになる。ただし、攻め込む場所から逃げ出されないように、周辺を兵士達に囲んで貰う。……もっとも、攻め込む場所が攻め込む場所だ。当然のように、脱出する為の隠し通路といったものが用意されている可能性は高いだろうがな」
「あー、そういうのは普通にありそうだよな。そっちはどうするんだ?」
脱出路と言われてレイが思い浮かべたのは、それこそ地下通路から離れた場所にある家に出たり、涸れ井戸に繋がっていたりといった光景だった。
もっとも、エルジィンには魔法やマジックアイテムという存在がある以上、レイが思っているのとは違った脱出方法があってもおかしくはなかったのだが。
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