第1868話
黒狼と戦い終わり、レイとエレーナは真っ直ぐにケレベル公爵邸まで戻った。
ケレベル公爵邸で門番をしていた男達は、出て行く時は嬉しそうにしていたエレーナが深刻な表情をしているのを見て、デートで何か失敗をしたのではないかと、そう判断する。
それでもその件について何も言わなかったのは、妙なことを言って上から叱られたくないと、そう思ったからだろう。
エレーナ・ケレベルという人物は、ケレベル公爵家において絶大な人気を誇っている。
それだけに、迂闊に茶化すようなことを言った場合、エレーナのファンに酷い目に遭わされる可能性があった。
……実際、以前そのような真似をした人物がネチネチと上司に嫌みを言われたり、メイドに陰口を叩かれ、無視されるといったことをされているのを見ている以上、切迫した状況ではあった。
そんな訳で、大人しく沈黙を保った門番は、そのまま大人しく仕事を続ける。
一方、門番にそのような思いをさせているというのを知らないまま、レイはケレベル公爵邸に用意されている自分の部屋にいた。
エレーナと一緒にいないのは、黒狼の一件についての情報を得る為に、諜報を司っている者達に会いに行っている為だ。
レイの場合はエレーナと親しい関係にあるとはいえ、ケレベル公爵家の部外秘とも言えることを知ることが出来る筈もなく、その為にエレーナが戻ってくるまで部屋で待っているのだ。
いつもであれば、人を待つくらいは全く問題なく時間を潰すことが出来るのだが、今はどうにもそのような気分にならない。
当然、レイも何故自分がそのようなことになっているのかは、理解していた。
(黒狼の一件が後を引いてるのは間違いないだろうな)
殺したい程に憎んでいる相手ではなかった。
それこそ餌付けをしたりして、親しくなっていると思えたのはレイだけではなかった筈だと、そう信じたい。
それでも、自分を本気で殺す為に襲ってきた以上、レイとしてはそんな相手に大人しく殺されるという選択肢はなかった。
……ただ、正直なところそれだけであれば、ここまで後を引くことにはなっていなかっただろう。
問題なのは、やはり黒狼が自分と同じ日本から来たと思しきこと。
少なくても、横浜中華街という、レイがエルジィンにやって来てから恐らくは一度も口にしたことがない言葉を発したのだ。
そして、母親と一緒に食べた豚の角煮まんをもう一度食べたいと。
そこまで言っている以上、黒狼が日本から来た人物であるのは、間違いのない事実のようにレイには思えた。
レイが黒狼について思い出していると、不意に扉をノックする音が聞こえてきた。
一瞬エレーナが戻ってきたのかとも思ったが、扉の外に感じる気配はエレーナのものではない。
もっとも、エレーナのものではなくても、知っている相手の気配ではあったが。
「入ってくれ、ミランダ」
「……よく、私だと分かりましたね」
レイの担当をしているミランダは、扉を開けて少し驚いた声で言う。
まさか、自分が名乗る前から自分が誰なのかを当てられるとは、思ってもいなかったのだろう。
「気配がミランダのものだったからな。……紅茶を持ってきてくれたのか」
ミランダが持つお盆の上に紅茶と干した果実、一口サイズのサンドイッチがあるのを見て、レイは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「そういう能力は、羨ましいです」
「そうか? まぁ、冒険者とかになって命懸けの戦いを繰り返していれば、自然と身につく技能だけどな」
「……そこまでして覚えたくはないですね」
あれば便利な能力だとは思うが、その為に命懸けの戦いをしろと言われれば、ミランダは即座にいらないと答えるだろう。
そこまでして、欲しい能力という訳でもないのだから。
レイもそれは分かっているので、特に気分を害した様子もなく、そうだろうなとだけ短く呟く。
兵士や騎士であればまだしも、ただのメイドが覚える必要はない技能なのは間違いない。
いや、当然あればあった方がいいのは事実だったが、命を危険に晒してまで得たいと思わないのは当然だった。
「それで、ミランダがここに来たってことは、エレーナから何か伝言でも持ってきたのか?」
「はい。ちょっと時間が掛かりそうだと」
「そうか」
ミランダの口から出たのは、レイにとってはある意味で予想出来ることでもあった。
黒狼について倒したのはともかく、ケレベル公爵家だけが持っているだろう情報というのは、そう簡単に渡していいものではない。
諜報を司っている者達が素直に情報を話さないのか、もしくは手続き上の問題か……はたまた、それ以外の問題という線も考えられる。
元々すぐに情報を得られるとは思っていなかったレイは、ミランダが持ってきた伝言を聞いても特に苛立ったりはしない。
そもそもの話、ミランダはエレーナからの伝言を持ってきてくれた相手なのだから、そのミランダに八つ当たりのような真似をするというのは、みっともないことだという認識がレイにはあった。
「ですから、これらを食べていて下さい、と」
「ああ、それで問題はない。……まぁ、ちょっと量が少ないような気もするけど」
ミランダが持ってきたのは、普通の人が食べるのであればそこそこの量ではあったが、大食いのレイにとっては、それこそおやつ程度のものでしかない。
そうである以上、それこそミランダが持ってきた料理を食べても、腹一杯になるということはないだろう。
(いやまぁ、紅茶と一緒に持ってきたってことは、お茶菓子って認識で持ってきたんだから、それはそれで構わないんだけど)
そんな風に考えていると、部屋の中にあるテーブルの上にミランダが持ってきた紅茶や食べ物を置いていく。
「では、何かあったら呼んで下さい」
そう言い、ミランダは一礼すると部屋を出ていく。
こうして一人で部屋に残され、それで紅茶を飲みながら適当に食べていろと言われたレイは、どうせなら一人じゃなくてミランダと一緒に食べたり飲んだりしてもよかったのに、と。
そんな風に思いながらも、レイの担当という形になっているミランダだったが、それ以外にも仕事は色々とあるのだろうと判断し、ソファに座ると紅茶を口に運ぶ。
紅茶を飲んで、初めてレイは喉が乾いていたことを知る。
普段であればこのようなことはなかったのだろうが、やはり黒狼の一件で本人にも自覚はないが、色々と思うところがあった……と、そういうことなのだろう。
「もしかして、エレーナもその辺を考えて、こうして紅茶とかを用意してくれたのか?」
呟き、何となくそれが正解のような気がして、レイは再び紅茶を一口飲む。
「うん、美味い。……サンドイッチも、普通に店で売ってるのよりも美味いしな」
恐らくゲオルギマが作ったのだろうサンドイッチは、それこそ具材は煮込んだ肉や野菜、ちょっと珍しいものとしては魚の干物を解したものがパンに挟まれている。
具材そのものはそこまで珍しい代物ではないのだが、それでも不思議な程にレイの舌を楽しませる。
具体的にどのような工夫をしているのかは、レイにも分からない。分からないが……それでも、ただ美味いということだけは間違いなかった。
サンドイッチだけではない。
干した果実の方も、干す時、もしくは干し終わった後にどのような工夫をしているのか、普通に店で買った物よりも格段に味は上だ。
(まぁ、干した果実……ドライフルーツの場合は、食材の味がダイレクトに出るから、恐らく果実の質そのものがいいんだろうけど)
そんな風に考えつつ、レイは日本にいた時に自分で作ったドライフルーツを思い出す。
(あれ? 干し柿ってのも、分類的にはドライフルーツになるのか? 一応乾かしているけど)
レイの家には柿の木があったが、それは甘柿ではなく渋柿の木だ。
食べる為には渋を抜く必要があり、その方法の一つが干し柿だった。
他にも柿のへたの部分を焼酎に浸し、空気に触れないように袋の中に入れ、一定期間放っておいて渋を抜くという方法もある。
後者はともかく、前者の干し柿は干しているだけにドライフルーツと言ってもいいのではないか。
ドライフルーツの正式な定義を知らないレイとしては、取りあえず干しているのでドライフルーツに入れてもいいだろうと判断し……急激に家で作った干し柿を食べたくなった。
干されたことにより、干し柿は強い甘みを持つ。
渋いお茶と一緒に食べるのが、レイは結構好きだった。
「とはいえ、この世界に柿はないしな」
呟き、思い出した干し柿の代わりという訳ではないが、ミランダの持ってきたドライフルーツの味を楽しむ。
楽しみ……ふと、日本にいた時に食べた干し柿を食べたいと思ったのは、これもまた黒狼の一件があったからではないかと思う。
日本を知っている相手に会ったことにより、故郷を恋しく思っているのではないかと。
(まぁ、今更だけど……ん?)
黒狼や日本について考えていたレイは、部屋に近づいてくる気配に気がつく。
だが、それはエレーナでも、ミランダでもなく……何故ここにいるのかが分からない人物だった。
そうして、やがてその人物はレイの部屋の前に立つと、乱暴に扉をノックする。
「おう、レイ。いるか? いるよな? いるって聞いてるぞ」
「ああ、いる。いるから、あまり乱暴に叩くな。入っていいぞ、ブルーイット」
そんなレイの言葉に、無造作に扉が開かれ、筋骨隆々の男が姿を現す。
それは、アネシスに来たレイが知り合った貴族の一人で、貴族としては珍しくレイと気が合うという……本当に希少な存在だった。
もっとも、エグゾリス伯爵家の次期当主という立場にいながら、護衛も付けずに街中を出歩く型破りな人物だ。
だからこそ、レイと気が合ったとも言えるだろう。
「おう、やっぱりいたな」
「いたけど、何で俺が部屋にいるって分かったんだ?」
「あの、ミランダとかいうメイドに会ってな。何だか微妙にレイの元気がなかったようだったから、元気づけてやってくれって言われたんだよ」
「……ミランダか」
ミランダは、ただのメイドだ。
少なくても、今回の一件の詳しいところまでは知らない筈だった。
ましてや、レイが黒狼を殺したという話も、当然知らないだろう。
それでもレイの担当を任されており、ケレベル公爵家の中では、エレーナ以外に一番レイと接している時間が長いのはミランダだろう。
そしてミランダは、ケレベル公爵家に客人として遇されているレイの担当を任されているように、決して無能という訳ではない。
いや、寧ろ有能だからこそレイの世話を任されたというのが正しい。
だからこそ、ミランダはレイが落ち込んでいるというのを理解し、そんなレイを励ます為に偶然あったブルーイットにレイのことを話したのだ。
もっとも、ブルーイットがケレベル公爵邸にやって来たのはレイに会う為だったので、そういう意味ではミランダが関わろうが関わるまいが、同じ結果になっていた可能性が高いのだが。
「で? 何だってレイは元気がないんだ? 全くお前らしくもない」
「そう言われてもな。別に何があったって訳じゃない」
ブルーイットは、黒狼が薬を使ってレイを襲わせた時、それに巻き込まれている。
そうである以上、一瞬だけだがブルーイットにも黒狼についての話を聞かせてもいいのではないかと思ったが、何となくそんな気分ではなかった。
もしこれが、もう数日経った後の話であれば、もしかしたらレイもその辺りの事情をブルーイットに話したかもしれないが。
「へぇ。そうなのか? レイの様子を見ている限り、とてもじゃないけどそんな風には見えないけどな」
ブルーイットの言葉に、レイは少しだけ驚く。
黒狼の件で色々と思うところがあるのは事実だったが、それを表に出しているというつもりは全くなかった為だ。
ミランダにその辺りを見抜かれたのは、メイドとしての高い能力と、レイがアネシスにやって来てからの短い間ではあっても、一緒にいる時間が長かったからだろう。
だが、ブルーイットはレイとの付き合いそのものはそこまで長くなく、一緒にいた時間も極めて短い。
そんなブルーイットに、まさか自分の心が見抜かれるとは思ってもいなかったというのが、レイの正直な思いだ。
「まぁ、色々とあったんだよ。本当に色々とな」
レイの言葉に、ブルーイットはそれ以上は特に何も聞く様子はない。
隠さずに何かあったと、そう言っただけで十分だと判断したのだろう。
「どうだ? こんな部屋の中で何かやってても、気分転換にはならないだろ。俺と模擬戦をやってみないか? 俺の強さも、そう捨てたものじゃないってことを教えてやるよ」
そう言い、ブルーイットはレイに模擬戦の誘いをするのだった。
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