第1867話

 日本からこのエルジィンに来た人物は、レイが知ってる限りでも何人かいる。

 それが日本にいた時の肉体のまま転移してこれるのか、もしくはこの世界の人間として新たに生まれてくるのか。

 ……そういう意味では、レイの場合はどちらとも言えないのだが。

 精神はそのまま日本にいた時のままで、肉体はこのゼパイルが作った物に憑依したという形なのだから。

 ともあれ、どのような理由かは分からないが、地球……もしくは日本からこのエルジィンにやって来ている者の数は、珍しくはあっても皆無とまではいかない。

 それだけの人数がやって来ているのは間違いない。

 そして、現在レイの目の前で死体となって地面に倒れている黒狼も、恐らくはその一人だと思われた。

 いや、横浜中華街という単語を口にしたのを思えば、恐らくどころか確定であると言ってもいいだろう。


(もしくは、実は誰か他の日本人がいて、そいつから話を聞いていたという可能性もあるけど……いや、ないか)


 黒狼の死体を眺めながらレイはそんな風に考えるが、すぐに否定する。

 本来なら有り得ないようなことを考えてしまうのは、やはり今回の一件がレイにとっても完全に予想外の出来事だったからだろう。

 出来れば黒狼を殺したくないといった問題や、餌付け云々の話ではなく、それとは全く別の出来事……と、そこまで考えたレイは、黒狼が肉まんに対して強く執着していたことを思い出す。

 そして、黒狼が最後に残した言葉。

 母親と一緒に食べた、横浜中華街の豚の角煮まんが食べたい、と。

 その二つを合わせて考えれば、やはり黒狼が日本からやって来た人物であるのは間違いないと思われた。

 もっとも、そうなればそうなったで、また分からないこともある。

 何故、以前レイが肉まんを見せた時は、そのことに反応しなかったのか。

 あれではまるで、死にそうになって初めて日本にいた時のことを思い出したようにすら思えた。


(一体、何がどうなってるんだ?)


 黒狼の死体を見ながら考えていたレイだったが、この場にはレイ以外にもう一人の人物がいる。

 黒狼の一件があまりにも予想外の結末を迎えた為か、レイはそのことをすっかりと忘れていたが……


「レイ、どうした?」

「っ!? ……ああ、いや。ちょっとな。黒狼が死ぬ前に口にした言葉が……俺がこの世界に来る前にいた世界のことだった」

「……何?」


 エンシェントドラゴンの魔石を継承したエレーナは、当然のように鋭い五感を持っている。

 そんなエレーナではあったが、レイと黒狼の間に自分の知らない関係があるのは知っており、だからこそ黒狼が今際の際に残した言葉を自分が聞くのはどうかと思って耳を塞いでいたのだが……まさか、レイの口からそのような言葉が出るとは思ってもいなかった。


「それは、本当か?」

「ああ。俺の国にあるとある場所を示す言葉を口にした。当然ながら、俺はその言葉を黒狼の前でも口にして……ない、と思う」


 そう断言することが出来ないのは、やはり肉まんを黒狼に与えたからだろう。

 もしかしたら、その時の雑談で横浜中華街と言った可能性もあった。

 横浜中華街といえば、それこそレイですら知っている有名な場所だ。

 そうである以上、肉まんからその辺りの言葉を連想してもおかしくはない。

 だが……と、そう考え、レイはすぐにその考えを否定する。

 母親と一緒に、と。黒狼は間違いなくそう言ったのだ。

 そうである以上、レイから横浜中華街という言葉が漏れたというのは、考えにくかった。


「いや、そうだな。間違いなく俺はその言葉を黒狼の前で口にはしていない。いないんだが……正直、参ったな」


 黒狼との戦いの最後は、色々な意味で限界に近かった。

 恐らく……いや、間違いなくあのまま時間が経っていれば、黒狼は飢え死にするか、もしくはもっと悲惨な結末を迎えていただろう。

 であれば、レイがその命を奪ったのは、一種の救済ですらあったのは間違いない。

 それはレイも理解しているのだが、何も死ぬ寸前にあのような爆弾発言を残さなくても……という思いがあったのも事実だ。

 以前ベスティア帝国の内乱に参加した時もそうだったが、何故日本の出身だというのが死ぬ寸前に判明するのか。

 そのことは、状況を考えればどうしようもないことだと分かってはいる。分かってはいるのだが……レイは、そこに理不尽な思いを感じざるを得ない。


「レイ」


 そのように考えているレイに、再びエレーナが声を掛ける。

 だが、その言葉の中にあるのはレイを心配する色……という訳ではない。

 そんなエレーナの声にレイも気がついたのか、どうした? と視線を向ける。


「落ち着いて聞いて欲しい。可能性は本当に僅かだが、まだ黒狼について調べることが出来るかもしれない」

「……何?」


 エレーナの口から出たのは、レイにとっても予想外の言葉。

 いや、普段であればレイも同じことに気がついていたかもしれないが、黒狼という自分と同じ日本の出身者と思われる人物を殺してしまったということで、まだ若干の動揺が残っているレイはそれに気がつけなかった、というのが正しい。


「黒狼はどこかの組織に雇われている訳ではない。勿論どこの組織とも全く関係がない訳ではないだろうが、表向きにはそのようなことになっている。そうである以上、黒狼に依頼を仲介する者が必要で、そのような者であれば、黒狼について何か知ってるのではないか?」

「それは……なるほど」


 レイは、エレーナの言葉に思わずといったように納得する。

 実際にレイが知っている黒狼という人物は、少なくてもコミュニケーション能力に難があったのは間違いない。

 そうである以上、黒狼が誰かから直接依頼を受けるという光景を思い浮かべることが出来ないのは間違いなかった。

 それはつまり、エレーナの言ってるように誰かがその依頼を仲介していたのだろうということ。


「けど、誰がその依頼を仲介していたのか、調べるのは難しいんじゃないか?」


 レイの口から出た疑問は、間違いなく正しい。

 もし依頼を仲介する人物が誰なのか分かっていれば、ケレベル公爵家としては黒狼などという暗殺者を放っておくような真似はしなかった筈なのだから。

 それこそ、黒狼を捕らえるなり……それが無理なら、いっそ殺すなりといった行動を起こしていても、おかしくはなかった。


「うむ。難しいだろう。それは事実だ。だが、何らかの手掛かりはあってもおかしくない。……ケレベル公爵家に仕える人間は、優秀だぞ?」


 エレーナの口調には自慢げだった。

 それだけ、自分の家に仕えている者達を信頼しているのだろう。

 実際にレイも短い期間ではあるが、ケレベル公爵家に客人として滞在していた以上、ケレベル公爵家に仕えている者達が有能だというのは理解している。

 だからこそ、エレーナの言葉に異論はなく、素直に頷くことが出来た。


「そうか、分かった。なら、早速その情報を貰いに行くとするか。……けど、俺達にそんな情報をあっさりと渡してくれるのか? いや、エレーナがいれば可能かもしれないけど」

「どうだろうな。その辺は実際に聞いてみなければ分からん、というのが正直なところだ。幾ら私がケレベル公爵家の人間であっても、本当に大事なことであれば父上の許可もなく教えることは出来ないだろう。だが、その辺は実際に聞いてみてから考えてもいいだろう」


 もし私で駄目なら、父上に許可をくれるように頼んでもいいだろうし。

 そう言葉を締めるエレーナに、レイは感謝の言葉を口にする。


「悪いな。……なら、早速戻るか。全く、本当なら土産を買いに来ただけだったのにな。まさか、こんなことになるとは思わなかった」

「そう言われれば、そうだな。本当に……ああ、本当に……」


 レイの言葉で、エレーナは今回の行動が自分とレイのデートだったことを思い出す。

 黒狼との戦いで全くそんな雰囲気ではなくなってしまったのだが、それだけに今回の一件は非常に残念に思ってしまう。


(黒狼を……いや、それを雇った相手は、絶対に許せん)


 エレーナのその思いには、二つの理由があった。

 一つは、当然ながら自分とレイのデートを邪魔したということ。

 そしてもう一つは、レイと同じ場所からやってきたと思われる黒狼を殺すことになってしまったことだ。

 もっとも後者に限って言えば、黒狼がレイを狙ってきたからこそ判明したことなのは間違いない。

 もし黒狼がレイを狙うなどといった真似をしていなければ、それこそレイと黒狼は出会うことはなかったのだから。

 そういう意味では、レイが黒狼と出会えたのは、黒狼がレイを狙ったから……ということにもなる。


「エレーナ、どうした?」


 黒狼の死体をこのまま放っていく訳にもいかず、ミスティリングに収納したレイが尋ねる。

 レイにとって、黒狼は自分と同じ日本からやってきたのだろう存在だ。

 そのような人物の死体を放っておくのは、あまり好ましいことではなかったし、何よりこのまま死体をここに放っておけば、誰かが見つけた時に大騒ぎになるのは確実だった。

 幸い今は冬で気温も低いので、もし死体が見つからなくても悪臭を発するということはないが、それでも伝染病が広がったり、場合によってはアンデッドになる可能性もある。

 それらを考え、後で自分が黒狼の死体を埋めるなり、燃やすなりしてやろうという判断からの行動だった。


「いや、何でもない。それより、このままここにいては騒動が起きる可能性が高い。そうならないように、今はここから立ち去った方がいいな」

「……いいのか?」


 レイと黒狼の戦いの影響で、壊滅的……とまではいかないが、周辺にはそこそこ大きな被害が出ている。

 その辺を考えると、警備兵に色々と説明をした方がいいのではないか。

 そんなレイの言葉に、エレーナは首を横に振る。


「その辺は後で屋敷に戻ってからにした方がいい。今ここで何かをするには、面倒なことになりかねないからな」


 そうか? と一瞬疑問に思ったレイだったが、考えてみれば街中でこのような騒動を起こしてしまえば、当然のように事情を聞かれたりといった真似はされて当然だろう。

 レイとしても、今の自分の状況を考えれば、面倒なことになるのはごめんだったし、黒狼に依頼する際の仲介役を見つけるという目的もあった為に、ここでそのような時間を取られるのはごめんだった。


「分かった。なら、さっさと戻るとしようか。で、黒狼についての情報は誰に聞けばいい?」

「その辺は私に任せて欲しい」


 エレーナにしてみれば、レイにケレベル公爵家の諜報を司っている者を紹介するのは、止めておいた方がいいという判断があった。

 レイと一緒に行動し、その上で信頼もしているが……それとこれとは話が別なのだろう。

 エレーナのケレベル公爵令嬢の立場として、その辺りの情報をレイに教えるといった真似は出来ない。

 レイがエレーナと結婚し、次期ケレベル公爵家当主、もしくはケレベル公爵家当主の夫という立場になると決まっていれば、まだ話は別だったのだが。

 レイもエレーナが何を思ってそのようなことを言ったのかは、大体理解出来たのだろう。特に不満を漏らすような真似もせず、素直に頷きを返す。


「分かった。なら、それでいい。……さて、なら行くか」

「うむ。……それにしても、本当につくづく今回の一件は予想外の結果となったものだな」


 しみじみと呟くエレーナの言葉に、レイもまた頷く。

 本来なら、今日はお土産を買うだけの予定だったのだ。

 にも関わらず、こうして黒狼と戦うことになってしまったのだから、予想外としか言えない状況なのは間違いない。


「本当なら、もっと大勢の分の土産を買いたかったんだけどな。……さすがに今はそんな気分じゃないか」


 黒狼と……自分と同郷の相手と殺し合いをした後で、改めて土産を買いに行くという気分ではなくなってしまった。

 無理をすれば、そんな風に買い物に行ってもいいのかもしれないが、今の状況でそんな無理をする必要はないだろうというのが、レイの判断だ。


「うむ。このような気分でお土産を買っても、それを配られた方はあまり面白くないのは間違いない。であれば、やはりここは後で改めて残りのお土産を買うということでどうだろう。幸い、すぐにアネシスを発つ必要がある訳でもないし」


 一応新年のパーティーが終わったらギルムに戻ると言ってはあるが、それが具体的にいつと決まっている訳ではない。

 であれば、一日や二日延ばしても問題ないだろうというのが、エレーナの判断だった。






 暗い闇の中、空中に浮かんでいる明かり以外で闇を微かに照らしていた蝋燭の炎の一つが、不意に消える。

 そのことに気がついた人物は、どの蝋燭の炎が消えたのかを見回し……その中の一つを発見する。

 だが、その人物は視線の先にある蝋燭の炎が消えたことに気がつき、少しだけ驚く。

 もっとも、その驚きはまだその炎が残っていたのかといったことに対する驚きではあったが。

 そうしてすぐに蝋燭の炎から興味をなくすと、また先程までの作業に戻るのだった。

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