第1860話
「ふむ……買い物というのは、女にとって最高の娯楽という話をマリーナから聞いたことがあったが……それは事実だったな」
マジックアイテム屋から出たエレーナは、満面の笑みを浮かべてそう告げる。
空は雲に覆われており、いつ雪が降り始めてもおかしくはない。
だが、エレーナが笑みを浮かべているその光景は、それだけで周囲が青空になったかのような、そんな明るさを持っていた。
そんなエレーナに目を奪われながら、レイは少しだけ疲れを感じさせる笑みを浮かべて頷く。
「喜んで貰えてよかったよ。ヴィヘラだけじゃなくて、マリーナやビューネ、それに……エレーナの分も無事に買えたしな」
レイにとって、今回の買い物は比較的大きな散財だった。
だが、盗賊狩りや様々な依頼、討伐したモンスターの素材の売却といったことで大きな利益を得ているレイにとっては、このくらいの出費は特に問題ない。
……家を一軒建てられる程度の料金は支払ったのだが。
それでも、エレーナのこの笑みを見られたのだから、安い買い物だったと言える。
実際、家とは言っても貴族や大商人が買うような家ではなく、中流家庭くらいの人間が買うような家だったのだが。
ともあれ、買い物が終わって店を出たレイは、これからどうするべきかを迷い、隣のエレーナに相談する。
「エレーナ、これからどうする? マリーナ達の土産は買ったから、食べ物とかそういうのでもいいんだよな?」
エレーナから言われたのは、親しい相手には思い出として残る物がいいということだった。
それはつまり、親しくない――あくまでもマリーナ達に比べてだが――相手へのお土産は、それこそ食べ物といったものでもいいのではないかという質問。
レイの言葉で買い物が終わった後の満足感に浸っていたエレーナは、少し考えてから頷く。
「ふむ、そうだな。レイの場合は食べ物を美味いまま持っていけるからな。それと、酒はどうだ? アネシスにはそれなりに有名な酒蔵がある。値段はそこまで高くないらしいから、貰っても喜んでくれるだろう」
普通の人なら、それこそ白金貨や光金貨が必要なだけの酒を貰っても、喜ぶよりも前に怖くなるだろう。
レイの感覚で言えば、それこそお土産に新車……それも高級車を渡されるようなものだ。
殆どの者であれば、そんなお土産を渡されても、喜ぶどころか恐怖すら感じてしまう。
そういう意味では、そこそこの値段で買える酒で、尚且つこのアネシスでも有名な酒蔵の酒となれば、酒を飲む者であれば喜んでくれる可能性が高い。
……もっとも、味覚に合わないと思う者もいる可能性は否定出来ないが。
「じゃあ、まずは酒を買いに行くか」
そう言うレイだったが、レイの味覚では酒というのはそこまで美味いものには思えない。
勿論飲めない訳ではないし、一口飲んだだけで酔い潰れるといったことでもないのだが、とてもではないが酒を飲んでも美味いとは思えないのだ。
もっとも、それはあくまでも自分の味覚が酒に合わないだけ、もしくは味覚が発達していない、いわゆるお子様舌とでも言うべきものだというのは知っている。
また、酒を料理の隠し味に使うというのもよくある話だし、実際にレイが今まで食べてきた料理の中にも、そのようにして使われた酒は多かった。
そんな風に考えつつ、レイはエレーナに案内されながら道を歩く。
通りかかった屋台で美味そうな料理が売っていれば、それを買ったりしながら。
(そう言えば、マジックアイテムを売ってる店はエレーナも知らなかったけど、その割には酒蔵は知ってるんだな。……まぁ、アネシスでも有名な酒蔵だって話だし、そう考えれば以前行ったことがあるのかもしれないけど)
芋を焼いてソースを塗っただけという、素朴な料理を食べながら、レイは隣のエレーナに視線を向ける。
レイと同じ芋を焼いた料理を食べているのだが、それでもエレーナが食べている光景を見れば、どこか気品のある光景に思えた。
なお、レイとエレーナが食べているのは同じ料理ではあったが、ソースの種類は違っている。
レイのソースは若干辛みの強いソースで、エレーナのソースは甘辛いソースとなっている。
レイが食べた印象では、以前日本にいた時にスーパーの惣菜店か何かで母親が買ってきたサルサソースに似ているように思えた。
もっとも、サルサソースというのは別に絶対的に辛いもの……という訳ではないのだが、少なくてもレイが食べたサルサソースは辛かった。
「うん? どうした、レイ。私の方をじっと見て。……照れるだろう」
レイを愛するエレーナであっても、当然のように自分が何かを食べている光景をじっと見られるというのは恥ずかしいものなのだろう。
その言葉通り、若干照れ臭そうにしているエレーナに、レイはエレーナの手にある料理を見て、誤魔化すように告げる。
「いや、俺の方のソースは少し辛いがそれなりに美味いけど、エレーナの方はどうなのかと思ってな」
「うん? 私のか? 甘くてしょっぱい、ちょっと不思議な味だな。いや、勿論不味くはなく、寧ろ美味いのだが」
「……そっちも買えば良かったな」
芋を焼いただけの簡単な料理だったし、それこそ酒蔵に向かっていたので屋台にあまり時間を掛けられないという理由もあり、レイは自分が食べている分だけしか買ってこなかった。
興味深そうに自分の食べている芋を見ているレイに、ふとエレーナは以前アーラから聞いたことを思い出す。
それは、恋人同士であれば普通にやっていること……らしい。
実際にはアーラも恋人がいる訳でもないので、人から聞いたか、もしくは本で得た知識ということになるのだが。
(私とレイは、父上も暗黙の了解ではあるが、付き合いを認めている。であれば……その、別にこのような真似をしても……構わぬ、よな?)
心の中で誰かに尋ねると、エレーナは意を決して口を開く。
「その、レイ。私の食べているこの料理の味が気になるなら、ちょっと食べてみないか? ほ、ほら。あ、あ、あ、あ、あ、あーん……」
姫将軍の異名を持つとは思えない程に動揺しながら、エレーナは自分の持っていた料理をレイに差し出す。
いきなりのエレーナの態度に戸惑ったレイだったが、それでもエレーナが何を求めているのかというのは理解出来る。
(いや、それ以前に、何でエルジィンに『あーん』の文化があるんだよ!?)
それは日本……いや、地球特有の文化なのではないかと思っていたレイだったが、考えてみればこの世界には過去に日本から何人かやって来ているという事実がある。
恐らくその中の誰かが残したものなのだろうというのは、レイにも予想出来た。
(こういうのを残すくらいなら、それこそ醤油とか味噌とか、そっち系を残しておいてくれればいいものを)
エレーナの差し出した芋を見ながら、レイは半ば八つ当たり気味に考える。
だが、そう思っているレイにしたところで、魚醤の作り方はTVで何度か見たから何となく覚えているが、醤油や味噌といった調味料はどうやって作るのかは覚えていない。
一応レイの家では味噌をスーパーで買うのではなく、味噌を作って売っている店で作って貰っていた。
それこそ、大豆はレイの家で作った物を使って。
そのような環境であった以上、もしレイが本気で味噌の造り方を知りたいと思えば、知ることも出来ただろう。
しかし、まさかこのようなことになるとは思っていない以上、味噌の造り方を知ろうとは思わなかった。
なお、レイは醤油に関しては、造り方は全く何も知らない。
「その、食べてくれないのか? こうしていると、少し恥ずかしいのだが」
言葉通り、照れくさそうに告げるエレーナに、レイはそっと周囲の様子を探る。
当然だが、エレーナのような有名人がこのような真似をやっているのだから、注目度は高い。
周囲にいる何人もの通行人が足を止め、じっとレイとエレーナに視線を向けている。
それこそ、これ以上熱心に自分を見ているのはどうかと、そう思うくらい熱心に。
見世物にでもなったような気分だったが、エレーナが差し出している芋を無視する訳にもいかず、レイはそっとエレーナの芋に口をつける。
(これは……)
口の中に広がったのは、エレーナが口にした通り甘みと塩辛さが同時に感じられる味だった。
かなり大雑把な感じではあるが、それを食べたレイは照り焼きソースを思い出す。
日本人が考え出した照り焼きソースは、それこそ世界中……というのは多少言いすぎかもしれないが、多くの国で好まれるソースだ。
それだけに、エルジィンでも似たような味があってもおかしくはないのだが……
(ああ、もしかしてこれもタクムとか、それ以外にこの世界に来た面々が伝えたものが、不完全な状態であっても残っていたのかもしれないな)
出来れば照り焼きチキンを食べたい。
そう思いながら、レイはエレーナの芋を……照り焼きポテトとでも呼ぶべき料理を味わう。
自分の歯形がついている場所を囓り、それを存分に味わっているレイの様子に、エレーナは薄らと頬を赤く染める。
エレーナにしてみれば、そんなレイの行為はこれ以上ないくらいに羞恥心を刺激するものだったのだろう。
……レイ本人は、自分の行為がそのように見られているとは全く思わず、純粋に照り焼きポテトを味わっているだけだったのだが。
「その……どうだ?」
やがて沈黙に耐えられなくなったのか、エレーナが恐る恐るといった様子で尋ねる。
頬や耳を真っ赤に染めて尋ねているその様子は、それこそ姫将軍や公爵令嬢としてのエレーナを知っている者にしてみれば、とてもではないが同一人物には思えないだろう。
事実、一連の様子を見守っていた通行人達も、そんなエレーナの様子を見てそれが本物かどうかを迷ってすらいたのだから。
「うん、美味い。この料理は買って正解だったな」
「そうか! うむ、私もそう思った」
周囲の様子に気が付いた様子もなくそう呟くエレーナを見て、レイは取りあえずエレーナが気が付く前にこの場を離れようと考えるのだった。
「ここだ」
あーんをやった場所から、歩いて二十分程。
本来ならもう少し早く到着出来たのだろうが、途中で美味そうな屋台を見つけてはお土産として購入したり、食器や花瓶といった物を店で購入したりといった具合で移動してきたので、ここまで時間が掛かった。
もっとも、レイもエレーナも、お互いにデートを満喫していたという点では寧ろ全く何の問題もなかったのだが。
「ここが、か。結構大きいな」
レイが呟いたように、現在レイとエレーナの前にある建物はかなりの大きさだった。
勿論ケレベル公爵邸には遠く及ばないが、それは比べる方が間違っているだろう。
外にいても漂ってくるアルコールの香りは、酒の類を好まないレイにしてみればあまり心地良い香りとは思えないのだが、恐らく酒を好む者にしてみれば、それは十分期待出来る香りなのだろう。
「じゃあ、さっさと買って帰るか。ただ、俺は具体的にどういう酒を買えばいいのか分からないんだけど、どうすればいい? エレーナはその辺分かるか?」
「いや、残念ながら私もその辺はあまり詳しくない。だが、店の者に聞いて予算を言えば、適当に見繕ってくれるんじゃないか?」
分からないことは、本職に聞けばいい。
そう告げるエレーナの言葉に、レイも納得する。
実際、分からないことを素人が色々と考えて無駄にするよりは、本職から必要な知識を基に判断して貰った方がいいのは当然だろう。
「私も、酒に関しては多少知っているが、それでもどうしても本職の人間には負けるしな。それに、私が知ってる酒は高級な物が多く、それこそレイがお土産として買っていく品として考えると……ちょっとな」
「分かった。取りあえず店の中に入ってから聞いてみるか」
そう告げ、レイはエレーナと共に店の中に入っていく。
中に入った瞬間、外で漂ってきたよりも濃厚なまでにアルコールの臭いが漂ってくる。
そのことに微かに眉を顰めているレイとエレーナの前に、この酒蔵の店員と思しき者が近づいてきた。
「いらっしゃいませ、エレーナ様、レイ様。今日はどのようなご用件でしょう?」
この酒屋に務めている人間として、当然のようにレイとエレーナのことを店員は知っていた。
名前を呼ぶ際にエレーナの名前が先にきたのは、やはりここがケレベル公爵が治めるアネシスだからだろう。
「うむ。実は私とレイはもうすぐギルムに行くことになっているのでな。それで、お土産として酒をある程度買っていきたいと思ってここにやって来たのだ」
「それは、ありがたいですね。では、早速お勧めのお酒を選ばせて貰います」
エレーナの言葉に、満面の笑みを浮かべて店員はそう告げるのだった。
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