第1850話

「お、おい。一体俺をどこに連れていくつもりだ? 何だってこんな場所に……」


 ガイスカの言葉が、暗い道に響く。

 空にあるのは月と星の明かりだけで、ガイスカの屋敷にあったような明かりのマジックアイテムといった物は一切ない、そんな道。

 おまけに、ここはスラム街に近い場所である為か、既に日付が変わるような時間であるにも関わらず、まだ起きている者が大勢いるような気配があった。

 ガイスカはある程度鍛えてはいるが、それはあくまでもある程度でしかない。

 それこそ、冒険者達のように……もしくは軍人のように、戦闘を生業にする者達と同じくらい鍛えられていれば、周囲で様子を窺っているような相手を前にしても特に怯えたりといった真似をしなくてもすんだだろう。

 だが、それはあくまでも鍛えていればの話であって、今のガイスカにそのようにしろというのは無理だった。

 何をするにしても、本来ならガイスカのような人物は自分でどうにかするといったことをする必要は滅多にない。

 それこそ、黒狼を雇った時のように他人に知られるようなことを避けたい場合……といった風に限られる。

 それだけに、こうした自分が今まで通ったことがないような道を歩くというのは絶対に避けたい出来事だった。


「へっへっへ。ガイスカ様ともあろうお方が、この程度の暗闇を怖がってるんですかい? ほら、ここは月や星の明かりもあって、そこまで気にするようなことではないと思いやすがね」


 仲介役の男の口から出た言葉は、どこか挑発染みた色がある。

 本来なら、ガイスカにこのような言葉を向けるのは意味がない……どころか、怒らせるだけだろう。

 それこそ、もしここがセイソール侯爵家の屋敷であれば、デオトレスを始めとして、ガイスカの命令を聞く者がこのような態度を許す筈もない。

 ……もっとも、デオトレスは既にセイソール侯爵家から姿を消しているのだが、ガイスカは残念ながらそれを知らない。

 もしそれを知っていれば、ガイスカも多少は何か不審なものを感じたのかもしれないが。

 ともあれ、案内役の男の口から出た言葉に、ガイスカは苛立ちながらも、これ以上みっともない真似は見せられないと、改めて口を開く。


「この程度の暗闇を俺が怖がる訳がないだろう。俺が言いたいのは、何だってこの俺を……セイソール侯爵家の一員という尊い存在をこのような場所に連れてくるのかと、そう言いたいだけだ」

「あちゃぁ……」


 ガイスカの言葉に、案内役の男は口の中だけで小さく呟く。

 まさか、ここでそのような事を言うとは思っていなかったからだ。

 ここは言うまでもなく、スラム街。つまり、金に困っている者が大勢おり、そのような者達にとってガイスカが貴族であるというのは、それこそ連れ去って金に出来る相手だという認識になってしまう。

 であれば、ここでそのようなことを言うのは普通なら自殺行為以外のなにものでもない。

 ……とはいえ、それはあくまでもガイスカだけがこの場にいればの話だ。


「ガイスカ様、すこし急ぎますよ。ここにいる連中にとって、ガイスカ様というのは宝石のような存在です。下手にこの場にいれば、それこそどのような手段を使っても手に入れようとしないとも限りやせん」


 宝石と表現されたことに満足感を覚えたのか、ガイスカは少し前の若干ではあっても怯えていた表情を綺麗に消し、満足そうな表情で笑みを浮かべる。


「そうか。俺は宝石か。……まぁ、そうだろうな。このような場所に住んでいる者にしてみれば、俺という存在は輝かしい太陽の如きものに思えてもおかしくはない」

「……そうですね」


 まさか、自分の言葉がここまでガイスカを良い気分にするとは思っていなかったのか、男は内心の呆れを隠すことに若干苦労する。


(宝石、ね。いやな宝石だな。少なくても、俺は欲しくない宝石だな)


 そんな思いを抱くも、仲介役としての経験からそれを表情に表すようなことはなく、笑みを浮かべて頷きを返す。


「取りあえず、ここにいるような者達に宝石を与えるようなことは出来ないので、急ぎやしょう」

「ふむ、そういうものか。俺のような宝石は、それこそ多くの者に見せることが必須だと思ったのだがな」


 男の言葉に満足そうに頷いてそう告げるガイスカだったが、その言葉を聞いたスラム街の住人達は、それこそ苛立ちを露わに動こうとする。

 このような場所にいる以上、多くの者が貴族という存在に対して決して良い感情を抱いてはいない。

 だというのに、このような言動をされて、それを許容出来るのかと言われれば、まず無理だろう。

 そんな自分達が抱いた苛立ちをガイスカにぶつけようと、何人かが姿を現そうとし……だが、その直前で動きを止める。

 スラム街の住人だからこそ理解出来た、その危険。

 もしここで自分達が出ていけば、恐らく死んでいたのは確実だろう。

 それを行うのは、ガイスカ……ではなく、そのガイスカと一緒にいる、みすぼらしい男の方だ。

 それを察した者達は、ガイスカに苛立ちを覚えながらも、結局はそれ以上何も言わないで黙り込み、再び建物に隠れる。

 そのようなやり取りがあったというのは、ガイスカには分からなかったのだろう。

 仲介役の男は、面倒な真似をと思いつつも、宝石云々と口にしたのが自分である以上、何かを言うようなつもりはなかった。


「では、行くとしやしょう。ガイスカ様をお待ちの方もいますしね」


 その言葉に、良い気分だったガイスカは若干気分を害する。

 散々自分の事を宝石だなんだと持ち上げていたにも関わらず、明らかに自分を待っていると仲介役の男がいった人物は、自分よりも格上だと、そう如実に表していた為だ。

 だが、仲介役の男に対して不満を口にしようとしたガイスカは、それをすんでのところで我慢する。

 ……もしデオトレスを始めとした他の者達がそれを知れば、間違いなく驚いていただろう。

 多くの者が知っているガイスカという人物は、そのような我慢が出来る人物ではなかったのだから。

 何だかんだと、このような場所にデオトレスのような頼れる相手を連れずにいるのが、それだけ不安だったということなのだろう。


「うむ。分かった。では急ぐとするか。俺もいつまでもこのような場所にいたくはないしな。……だが、一応聞いておくが、俺を案内する場所はこのような場所ではないだろうな?」

「ええ、勿論ですとも。ガイスカ様に相応しい……と言ってもいいのかどうかは分かりませんが、可能な限り準備は整えてやす。失望するようなことはないかと」


 その言葉に、ガイスカは一瞬だけ疑惑の視線を向ける。

 もっとも、その疑惑の視線は仲介役の男が自分を騙しているといったものではなく、単純に自分に対してきちんとそれに相応しいもてなしが出来るのかといった疑惑だったが。

 仲介役の男も、自分がそのような視線を向けられているのは理解している。

 だが、寧ろ本当に疑われている云々ではなく、その程度の視線ならば……と、寧ろそんな視線を嬉々として受け入れていた。

 ともあれ、そんな二人が道を進み……周囲に幾つもの掘っ立て小屋がある通りを抜けると、やがて一軒の家が見えてきた。

 屋敷と呼ぶ程に広くはないが、とてもではないがこんなスラム街にあるとは思えないような、そんな家。

 周囲にある建物――と呼ぶのもどうかと思うが――が建物であるだけに、その家は非常に目立つ。


「この家は……ここがお前の言っていた場所か?」

「へい。ここであるお方がガイスカ様を待ってやす。今回の一件についても、力を貸してくれるかと」


 今回の一件というのが、何を意味しているのか。それは考えるまでもなく明らかだった。

 つまり、黒狼に支払う為の報酬を用意しようとした件であろう。

 もしくは、レイと敵対したことそのものについても言っている可能性はあった。

 具体的にどこまでについて言っているのかは、ガイスカにも分からない。分からないが……それでも、今のガイスカにとって縋るべき存在は一つしかない。

 もっとも、ガイスカ本人は当然のようにそのようには思っていない。

 寧ろ、自分に力を貸せることを感謝しろと、そう言いたくなってもおかしくはなかった。

 ……それでも、この場でそのようなことを口にしないだけの分別は持っている。

 とはいえ、それでも完全に自分の中にある気持ちを隠すことが出来ていないのが、ガイスカらしいのだろうが。


「ガイスカ様、入りやすぜ?」

「ああ」


 その言葉に頷き、ガイスカは家に向かう。

 だが、その途中でふとガイスカはとあることに気がつく。

 それは……警護の兵というのがどこにも見えなかったからだ。

 門番の姿すら、どこにも見えない。

 ここがスラム街でなければ、それも不思議ではなかっただろう。

 だが、ここはスラム街なのだ。

 それこそ金に困っている者が多くおり、それだけに家に誰も警備の者がいないというのは不思議でしかない。


「おい、警備の者は誰も置いてないのか?」

「ええ、この屋敷に入り込もうと考えるような馬鹿な奴はいやせん。もしいれば……それは、恐らくアネシスに来たばかりの奴だけでしょうね」


 そう告げる男の言葉には、強い自信がある。

 それこそ、ここにいる者は何があってもこの家を襲うようなことはないと、そう断言するかのような態度。

 そんな言葉にガイスカは若干の疑問を感じつつも、それ以上は何も口を出す事はない。

 今の状況で自分が何を言っても意味はないと、そう理解しているからだろう。


「そうか。なら、この家に誰がいるのか。それを楽しみにさせて貰おう」



 半ば強がりではあったが、それでも今回に限ってはそれは有効なように思えた。

 あくまでガイスカがそう思っただけで、実際に有効なのかどうかは、全く分からなかったが。

 ともあれ、ここまで来た以上は、ガイスカも家に入らない訳にはいかない。

 既にセイソール侯爵家の屋敷にいる者達に危害を加えてしまった以上、このまま何の手土産もなしにセイソール侯爵家に帰るような真似は出来ないのだから。

 実際には、もしガイスカが手土産を手に屋敷に戻ってきても、ザスカルは決してガイスカを許すようなことはしないだろう。

 それも当然だった。

 レイを襲撃するために腕利きの暗殺者を雇う為に、アネシスという重要な場所にある屋敷を金に換えようとし、それが発覚して謹慎させていると、得体の知れない相手とともに屋敷を抜け出す。

 それも、屋敷の住人……セイソール侯爵家に仕えている者に危害を加えて。

 ガイスカは殺さないようにと命じたのだが、男はそんな言葉に表向きは従いつつも、何人かの命は意図的に奪った。

 それは、ガイスカがセイソール侯爵家に戻れないようにする為の企みだったが、残念ながらガイスカはそれに気がついていない。

 自分を案内しているこの男が、自分に危害を加えるとは一切考えていないのだ。

 何をするにしても、自分が……貴族の血を引く自分が絶対的に正しく、この男は自分に従うのだと、そう思い込んでいる。


「では、入ってくだせえ」


 家の扉を開け、男はガイスカを家の中に迎え入れる。

 男が自分を見る顔を見て、何となく背筋が冷たくなったガイスカだったが、それは自分が目の前の男に……そしてこの家そのものに恐怖をしているからなのではなく、単純に冬で寒いからだと言い聞かせながら、足を踏み出す。

 そうして家の中に入ってみると、そこに広がっていたのはかなり予想外の光景だった。

 いや、この家がスラム街にあるという時点で色々な意味で予想外のことではあったのだが。

 しかし、今のこの光景を見る限りでは、何をどうするにしても迂闊に手は出せない。そんな思いがガイスカの中に浮かび上がる。

 勿論、それはあくまでもガイスカがそう思っているだけで、実際に行動に移そうと思えば可能なのだが。

 とはいえ、まずは何をするにしてもこのまま怖じ気づいたままでという訳にはいかない。

 自分を落ち着かせるように息を吸い、吐く。

 今の状況では何かをするにしても、自分がまともに動けないという妙な確信がガイスカの中にあった。

 よって気分を落ち着かせる必要があった。

 そうして、改めてガイスカは目の前にある光景に目を向ける。

 スラム街にあるのが相応しくないような……それどころか、ガイスカですら殆ど見たことがないような、見事なまでの調度品の数々。

 それこそ、もしここが美術館だと言われれば、それを納得してもおかしくないような……そんな光景。


「……俺は、夢でも見てるのか?」


 そう呟くガイスカの言葉は、どこにともなく流れていき……まるで、様々な調度品の数々に食われたかのようだった。

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