第1796話

 レイの口から出た言葉が周囲に響いた瞬間、それを聞いたガイスカの動きが止まった。

 侯爵家という由緒正しい、高貴なる血。

 その血を引いていることこそが、ガイスカにとっては自慢であり、誇りであった。

 だからこそ、自分より格下の相手に対しては、自分が上の存在であると示さずにはいられなかったのだ。

 だというのに、今レイは何と言った。

 下らない血筋しか自慢出来ないと、そう言ったのだ。

 それはセイソール侯爵家という存在を馬鹿にしたものであり、ガイスカにとって決して認められない……認めてはならない言葉だった。

 つい先程まではレイの存在は完全に無視していたガイスカだったが、自分のプライドに関わるようなことを言われてしまえば、それを放っておく訳にはいかない。

 もしここでレイに何も言わずに下がろうものなら、それはセイソール侯爵家という高貴なる家名に泥を塗るようなことなのだから。


「待った! ほら、ガイスカもちょっと落ち着け。な? ここはケレベル公爵邸だぞ。ここで騒ぎを起こすような真似をすれば、色々と不味いだろ」


 レイに向かって何かを言おうとしたガイスカだったが、それが実際に口に出るよりも前にラニグスが止める。

 ガイスカとレイをぶつけることによって、自分に対するレイの感情を好意的なものにしようと思っていたのだが、まさかいきなりこのような全面衝突染みた展開になるというのは、ラニグスにとっても完全に予想外だったのだろう。

 だが、血筋を……自分の拠って立つ最大の立脚点を貶されて、ガイスカがそのまま黙って退く訳にはいかない。


「黙れ! 異名持ちとはいえ、たかが冒険者風情に馬鹿にされたんだぞ! それを、このまま何もせずに放っておく訳にはいかん!」


 既にガイスカの口調は、エレーナを前にした時の気取ったものではない。

 憎々しげにレイを睨み付けながら叫ぶその様子は、普通なら貴族の……それも侯爵家の血筋を引く者を怒らせたということで、怯え、恐怖を抱いてもおかしくはない。

 そんな光景ではあったが、生憎と現在ガイスカの前に存在しているのはレイだ。

 相手が貴族であっても、暴力を振るうのに躊躇するような真似はしないとして有名な男。

 お互いに一歩も退く様子を見せずに、相手に視線を向ける。

 ガイスカは憎悪に満ちた視線をレイに向け、レイはその辺に落ちている小石でも見るかのような視線でガイスカを見る。

 ……この時、ラニグスはガイスカだけをどうにか落ち着かせようとしていたが、レイの方も当然ながらガイスカに対して非常に不愉快な思いを抱いていた。

 この世界における自分の故郷、それも積極的に協力して現在増築工事を行っているギルムを馬鹿にされたというのもあるし、仲間と判断しているアーラを自分勝手な理屈で侮辱されたというのも大きい。

 苛立ちや怒りを表に出していないだけで、それこそ機会があればすぐにでもガイスカに対して力を振るう準備は整っていた。


「双方、その辺にしておけ」


 レイが抱く内心の思いを理解したのか、エレーナがそう告げる。

 当然エレーナも親友にして腹心の部下たるアーラをあからさまに貶められて、気分が良い訳ではない。

 それでも、ここで騒動になるのは色々と不味いというのは理解出来るだけに、こうして二人を止めたのだ。


「エレーナ! 何故止める!? この男は俺……いや、私を侮辱した! それを何もせずに見逃しては、私の面目が……セイソール侯爵家の面目が立たないではないか!」


 貴族であるのなら自分の味方をするべき。

 なのに、何故自分の味方をしないのか。

 そんな視線を向けてくるガイスカに対し、エレーナは視線の種類を変える。

 エレーナ・ケレベルという公爵令嬢としての視線ではなく、姫将軍としての視線。

 その視線を向けられたガイスカは、一瞬にして自分とエレーナの間にある格の差……それも爵位や戦闘力といったものではなく、純粋に存在感としての差を理解する。


「っ!?」


 エレーナに何かされた訳ではなく、ただ視線を向けられているだけだ。

 それだけだというのに、ガイスカの背筋は冷たくなり、額からは汗が大量に浮き出る。

 そして、カチカチと部屋の中に響く音。

 その音が耳障りなガイスカだったが、その音が止むことはない。

 身体を動かせなくなったガイスカが、耳障りな音を止めろと思うが……不意に、その音がどこから聞こえているのかに気が付く。

 そう、カチカチという音の発生源は、ガイスカの口。

 正確には、我知らずに鳴らされている歯だった。

 自分がエレーナに恐怖している。

 それを理解した瞬間、不意に感じていた重圧が消え去った。

 エレーナがガイスカから視線を逸らしたのだ。

 そのことをガイスカが理解し、思わずといった様子で数歩後退る。

 ラニグスは、今まで叫んでいたガイスカのいきなりの行動に、一体どうしたのかと疑問を抱くが……それをここで言っても、恐らく意味はないと悟り、改めてレイに視線を向ける。


「レイ殿は、ギルムの出身だと聞いた。出来れば辺境での話を少し聞かせて欲しいのだが、構わないか?」


 本来なら、ラニグスはガイスカと自分を比べて、レイに好印象を与えるつもりだった。

 だが、そのようなことをするよりも先に、ガイスカが半ば自業自得と言ってもいいような行為により、役に立たなくなってしまう。

 そうである以上、ここでガイスカを助けるような真似をすれば、間違いなく自分にとって利益はないと確信してしまった。

 だからこそ、こうしてあっさりとガイスカを切り捨てて、レイとの良好な関係を構築しようとして話し掛けたのだ。

 もっとも、ギルムの様子を聞きたいと思うのは決してそれだけではない。

 情報というのは、どのような些細なものであっても、時には大きな意味を持つ。

 特にそれが辺境のギルムともなれば、余計に。

 だからこそギルムには貴族街が存在し、様々な貴族の屋敷が用意されているのだ。

 そのギルムからやって来たレイ達がいるのだから、少しでも何か情報を得たいと思うのは当然だろう。

 レイと友好的な関係を築くのは、必要な情報を手早く入手出来るから、というのもある。

 勿論、情報云々よりも前に、レイの圧倒的な強さが自分に……そして国王派に向かわないのが最優先なのだが。


(最悪の場合、俺の所属している派閥以外に敵意を向けて貰えれば……)


 国王派は三大派閥の中でも最大派閥だけあり、国王派という派閥の中でも幾つかの派閥が存在している。

 貴族派や中立派と対する時には協力するが、それ以外の時は敵対するといったことも珍しくはない。

 国王派に敵意を向けられるのは嬉しくないが、もしどうしてもそのようになってしまうというのであれば、その向かう先はせめて国王派の中でも自分が所属している派閥以外の者であって欲しい。

 そうラニグスが考えても、おかしくはないだろう。


「ギルムのこと? あんたの友達はギルムが嫌いだったみたいだけど?」

「ああ、勘違いさせてしまったようだな。俺とガイスカはあくまでもエレーナに面会に来る時に偶然一緒になっただけにすぎない。勿論お互いに顔見知りだが、あくまでもその程度だ。実際、属している派閥も違うしな。寧ろ、派閥という点ではエレーナと同じ貴族派だぞ、ガイスカは」


 貴族派ということで、その視線が向けられたのは当然のようにエレーナだ。

 ラニグスにしてみれば、レイと貴族派の関係が悪化するのは最善の結果でもあった。……とはいえ、レイとエレーナの関係を考えると、そんなに都合良く自分の思い通りに話が進むとは思っていなかったが。


「まぁ、貴族派ってだけあって、そういう奴もいるか」


 そんなレイの言葉に、今まで黙って話しを聞いていた……正確にはエレーナからの圧力によって動くに動けなくなっていたガイスカが、我に返る。

 ……今のような状況であっても、レイの一声で我に返るというのは、ある意味で見事と言えた。


「貴様……セイソール侯爵家に恥を掻かせたこと、後悔するなよ。必ず後悔させてやるからな」

「いや、後悔すればいいのか、しなければいいのか、どっちなんだよ。……はぁ、もういい。何なら今からでもやるか? それなら相手になってもいいが」


 ガイスカの言葉に、レイは一瞬だけ視線に力を込める。

 殺気とまではいかないし、先程のエレーナよりも視線の圧力は強くない。

 だが、それでもガイスカにしてみれば、レイの評判を知っているだけに、自分が直接的な危害を加えられるのではないかと考えてしまう。

 実際、もしガイスカがレイの提案を受け入れて決闘――と呼べるものになるかどうかは微妙だが――を受けた場合、レイは命まで取ろうとは思わないが、殆ど手加減をするつもりはなかった。

 ガイスカ自身は特に身体を鍛えてる訳ではなく、相手の強さを理解することも出来ない。

 出来ないのだが……それでも、異名持ちを相手に勝てるとは思えなかった。

 このままでは、本気でレイと決闘をすることになる。

 そう判断すると、ガイスカは一歩、二歩と後ろに下がり……それでも一気に逃げ出すのではなく、エレーナに向かって口を開く。


「では、エレーナ。私はこれで失礼する。どこぞの冒険者と違って、色々と忙しいのでな!」


 明らかに負け惜しみではあったのだが、それでも捨て台詞を口にするだけの気力が残っていた辺りは、根性があったと言うべきか。

 ともあれ、その言葉を最後に去っていったガイスカを見送り……部屋の中に残ったのは、沈黙。

 何だかんだとこの場の空気を掻き乱し、即座に出ていったという点ではレイに面白くない思いをさせるという結果は果たしたことになるのだろう。


「あー……その、すまないな。俺と一緒に来たガイスカが騒動を引き起こして。正直なところ、まさかあんな風に暴走するとは思っていなかったんだが」

「ほう、私はてっきり、それを目的としてガイスカを連れて来たと思ったのだがな。勘違いだったか」

「ははは。まさか、俺がそんなことをする筈がないだろ? 偶然だよ、偶然」


 エレーナの言葉に、ラニグスは全く動揺した様子もなく笑みを見せる。

 何も知らない者であれば、それこそラニグスの言葉が本当なのだと、そう思っても不思議ではないだろう笑み。

 実際、ラニグスの魂胆を理解していた者達ですら、その言葉が本当なのではないかと一瞬思ってしまったのだから、その演技力は非常に高かった。


「さて、どうだろうな。その辺りの判断は、これからのラニグスの言動で判断させて貰おうか」


 エレーナのその言葉に、言われた本人は若干失敗したか? といった思いを抱く。

 本来なら、ここまで自分が目立つ筈ではなかったのだ。

 ガイスカに注目を集中させて、自分はそこまで目立つことなくレイと友好関係を築ければ……そう思っていたのだが、その目論見は完全に狂った形だった。

 ラニグスは内心でガイスカの迂闊な行動に苛立ちを隠せなかったが、それでも現在の自分がレイからはそこまで悪感情を抱かれていないのは、何となく理解出来る。

 不幸中の幸いと言うべきか、ガイスカが最低限の仕事をしたと言うべきか、それでも最悪の結果ではないのは、せめてもの救いだった。


「エレーナから見て、ギルムという街はどんな街だったか聞いてもいいかい?」

「露骨な話題転換だが……」


 ふ、と。

 一瞬だけラニグスに笑みを向けると、エレーナはその話題の変更に乗ってやろうと笑みを浮かべる。

 ラニグスもそんなエレーナの思惑は分かっていたが、ここで何かを言えば自分が不利になるというのは分かっていた。

 そうである以上、今は何とかガイスカの件を誤魔化す必要がある。

 当然エレーナを始めとした面々はラニグスが何を狙ってガイスカを連れて来たのかというのは分かっているのだが、今ここでそれを言うよりも貸しにしておいた方がいいと判断したのか、それ以上何を言うでもない。


「ギルムについてだったか? そうだな、正直なところギルムについてなら、私よりも長く住んでいるレイの方が詳しいのだろうが……」

「いや、エレーナが……貴族派の人間から見た、ギルムの状況を知りたいんだ。勿論、色々と情報は入ってきているけど、情報の種類は多い方がいいから」


 本来であれば、貴族派のエレーナが知っている情報を国王派のラニグスにわざわざ教える必要はない。

 ないのだが……エレーナが知っている中でも貴重と思われる情報についてはともかく、ギルムに行った者であれば誰でも知ってる程度の情報なら特に問題はないだろうと、口を開く。


「そうだな。まず第一に思ったことは、活気があるということだった。増築工事をしている影響からか、恐らく活気という点ではアネシスよりも上だろう」


 それはアネシスがギルムに劣っているということではなく、安定期に入っているアネシスに比べて、ギルムは今が発展期であるということを意味していた。

 そんなエレーナの言葉に、ラニグスは興味深く視線を向けるのだった。

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