第1797話

「くそぉっ! ふざけるな! このっ、このっ、このっ!」

「げふっ、ガ、ガイ……や、やめ……お許し下ふぁい……」


 これ以上ない程に恥を掻かされて屋敷に戻ってきたガイスカは、近くを通りかかったメイドを殴り、蹴り続ける。

 そのメイドは特に何かガイスカの機嫌を損ねるようなことをした訳ではない。

 言うなれば、偶然……運悪くガイスカの機嫌が悪い時に、その近くを通りかかってしまったのが不運といったところか。

 全くの手加減抜きで蹴られた顔は、本来ならセイソール侯爵家のメイドとして平均以上の美貌を持つ顔を腫れ上がらせ、口を切ったのか、唇からは血が流れていた。

 既にしっかりと喋ることも出来なくなったその言葉を聞き、それが余計にガイスカの嗜虐性を刺激したのか、メイドに対しての暴行はより激しくなっていく。

 そうして、既に動けなくなったメイドに更に一撃を加えようとし……だが、唐突に身体の動きが止まる。

 それはガイスカが自分の意思でメイドの暴行を止めたのではなく、不意に後ろから身体を掴まれて引っ張られたからだ。

 自分の意図しない行動に驚きつつも、ガイスカは興奮の最高潮の場所で動きを止められたことに、苛立ちながら叫ぶ。


「ワグルノーラ! 離せ!」

「駄目です、若。それ以上やっては、メイドが死んでしまいます」

「メイド一人の命よりも、俺の命令の方が大事だろうが!」


 自分を捕まえている相手……この屋敷の警備を任されている初老の騎士ワグルノーラを相手に叫ぶガイスカだったが、今まで戦場で生きてきて、初老になった今でも日頃の訓練を欠かしていない男と、運動不足にならない程度しか身体を動かさないガイスカでは、その膂力に決定的な差がある。

 ガイスカがどれだけ叫ぼうと、ワグルノーラがその手を離さない限りは、戒めから抜け出ることは出来ない。

 そうしてメイドから引き離されたガイスカは、ワグルノーラの指示により今まで暴行されていたメイドが連れて行かれるのを見て、ようやく少し落ち着く。

 いや、正確には落ち着くのではなく急にやる気を失ったという表現の方が正しいのだろうが。


「ワグルノーラ、もういい。離せ。あのメイドももういないんだ。離してもいいだろ」


 ガイスカのその言葉に、ワグルノーラは掴んでいた手を離す。

 瞬間、振り向きざまに放たれたガイスカの拳がワグルノーラの顔面を殴りつけるが、長年鍛えているワグルノーラにしてみれば、この程度の一撃はどうということもない。

 先程ガイスカに殴られていたようなメイドであれば、その一撃で吹き飛んだかもしれないが。


「気は済みましたか?」

「ふんっ、俺の行動を制止したんだ。この程度で許されたことを、光栄に思え」


 ガイスカも、自分が殴っただけでワグルノーラが吹き飛ぶとは思っていなかったが、それでもこうまで平気な顔をされて面白い筈もない。

 殴り慣れていない拳で思い切り殴りつけた為に拳が痛むが……それを言えば、また情けない思いをしそうになるので何も言わず、そのまま廊下を歩いていく。

 そうして、暴風とも呼ぶべきガイスカの姿が消えたことに、周囲で様子を窺っていていたメイドや執事……それ以外の者達も、全員が揃って安堵し、ワグルノーラに感謝の視線を向ける。

 アネシスにあるこの屋敷で、ガイスカに対して何かを言えるような者はそう多くはない。

 ましてや、その行動を止めるような真似が出来るとなると、その数はもっと少なくなる。

 ワグルノーラはその数少ない者の一人だ。

 メイドがガイスカに殴る蹴るの暴行をされているのを見た執事の一人が、急いでワグルノーラを呼びに行き……結果として、メイドの死亡という最悪の結末は避けることが出来た。

 とはいえ、殴る蹴るといった真似をされた結果、メイドの顔は血を流し、腫れ上がっている状態だった。

 元の愛らしい容姿を思い出すことも出来ないくらいに殴られたその様子は、当然のように見る者に嫌悪感を抱かせる。

 この場合、嫌悪感を抱かれるのはメイドではなく、それを行ったガイスカの方だが。

 それでも直接口に出したりしないのは、セイソール侯爵家という力がガイスカにあるからだ。

 レイのように自分の力で侯爵家と渡り合えるのなら、貴族の血筋というのは全く気にする必要はない。

 だが、そのようなことが出来るのは、本当に僅かな者だけだ。

 普通の者であれば侯爵家の血を引く者に逆らうようなことは出来ないし、なによりここで働いている者達はセイソール侯爵家に雇われている者達だ。

 ……あくまでもセイソール侯爵家に雇われているのであって、ガイスカに雇われている訳ではないのだが……それでもセイソール侯爵家の代表としてアネシスにいる以上、逆らえる筈もない。


「皆、仕事に戻って下さい。ガイスカ様は私が様子を見てきますので」


 ワグルノーラの言葉に、その場にいたメイドや執事、それ以外の者達も自分の仕事に戻っていく者も多かった。

 とはいえ、無抵抗のメイドが暴行される現場を見たのだから、すぐに気分良く仕事が出来る筈もない。

 寧ろ、下手にガイスカに見つかれば先程のメイドと同じような目に遭う可能性もあると思えば、息を殺して仕事をするのは当然だろう。

 せめてもの救いは、この屋敷には回復魔法を使える魔法使いがおり、それ以外にも高価なポーションの類を持っていることだろう。

 暴行を振るわれたメイドの顔に傷が残らないのは、せめてもの救いだった。

 ……もっとも、何の意味もなく暴行されたメイドの心の傷は、回復魔法やポーションでも癒やすことは出来ないのだが。


「何でガイスカ様はあんなに荒れてたんだ?」

「さあな。ただ……元々気性の激しい方だ。何かあったのは間違いないと思う」

「また面倒なことにならないといいんだけど」

「何なんだよ、あれ……何であのメイドがいきなり殴られてるんだよ。嘘だろ?」

「あー……こいつはここに来たばかりだったのか。今までは、運良くああいう光景を目にすることはなかったんだな」

「うわぁ。運が良いのか悪いのか。微妙なところだな」

「そうね。もっとも、ここまで酷いのは滅多にないから、そういう意味では最初に見たのがこの光景で良かったのかもしれないわね。この光景を見て大丈夫なら、これからも何とかここで働いていけるでしょうし」

「そうなんだよな、セイソール侯爵家の給金は他の家よりも高いから……」


 それぞれが仕事に戻っていきながら、そんな風に会話を交わす。

 中にはガイスカの凶行を初めて見た者もいたのか、ショックを受けている者も多い。

 とはいえ、それでも他の者達がそこまで衝撃を受けた様子がないのと比べると、その差は大きい。

 元々セイソール侯爵家の……正確にはこの屋敷で働く者の給金が高いのは、ガイスカの一件があるというのが最大の理由だった。

 それを理解した上でこうして仕事をしている者も多いのだから、この反応も当然なのかもしれないが。

 ともあれ、一時の凶行は終わり……使用人達は、やがてその場から消えるのだった。






「平民如きが、貴族の俺に楯突くだと? くそっ、常識を知らない奴は、これだから困る。異名持ちだからといって、それが貴族に勝るとも思っているのか?」


 ソファに座りながら、ガイスカは苛立ちを露わに呟く。

 部屋の中の物を壊したりしないのは、メイドに当たってある程度苛立ちを発散していたからだろう。

 とはいえ、本来なら最初にガイスカを注意したのはアーラだったのが、恨みの対象がいつの間にかレイに変わっているのは……それだけ、ガイスカにとって平民のレイに真っ向から反発されたのが気にくわなかったからだろう。


「この俺にあのような真似を……セイソール侯爵家を侮るような真似をして、決して許す訳にはいかん」


 そう思いはするものの、一瞬レイの姿を思い浮かべただけで背筋が冷たくなる。

 もしあの場で退かなければ……もしくは勢いでレイに決闘などを挑もうものなら、間違いなく自分は打ちのめされていた。

 いや、場合によっては殺されていたかもしれない。

 ガイスカはセイソール侯爵家という血筋の者であるが故に、戦いの場に立ったことはない。

 ……実際にはエレーナを見れば分かるように、貴族の者でも戦場で戦うということは珍しくないのだが、ガイスカの場合は戦闘を下賤なものと認識しているので、戦闘訓練をしたことがない。

 ガイスカが行う戦いというのは、それこそ先程のメイドのように立場が下の者を……そして絶対に自分に逆らえない者に対して、一方的に暴力を振るうことだけだ。

 ガイスカが戦闘訓練をしていないので、致命傷を与えるようなことにならなかったのは、不幸中の幸いだろう。

 もしこれでガイスカが戦闘訓練を行うような者であれば、それこそ今日八つ当たりされたメイドを始めとして、これまでガイスカに殴られたり蹴られたりした者達は怪我で済まずに命を落としていた可能性がある。

 そうならないだけ、まだ幸運だったのだろう。


「俺があのような野蛮な者を相手に、直接手を下す必要はない。下賤な者は下賤な者同士……ふむ、幸い今は金に困っている冒険者も多いと聞く。……おい、デオトレスを呼べ!」


 ガイスカの声と共に部屋の隣で待機していた者が動き、十分程が経つと扉がノックされ、一人の男が姿を現す。

 三十代程のその男は、部屋に入ってきてガイスカの前に立つと口を開く。


「坊ちゃん。俺をお呼びと聞きましたが、何か用事でも?」

「ああ。デオトレス、お前は以前冬になると冒険者は金がなくなって困ってる奴がいると言っていたな?」

「そうですね。冬の間はどうしても仕事が少なくなりますし、わざわざ好んで雪の中で仕事はしたくないでしょうよ」

「それは、具体的にどのくらいいる?」

「どのくらいってーと……人数的な意味で、ですか?」


 デオトレスの口調に若干眉を顰めるガイスカだったが、目の前の男は不遜な口の利き方ではあるが、それでも自分の手足として働いている者だ。

 そうである以上、多少は寛容さを見せることも重要だと。そう自分に言い聞かせながら、口を開く。


「そうだ。出来るだけ人数を集めたい」

「いや、そりゃあ……どんな仕事をするかにもよるんじゃないですかね? ギルドで募集をする時に、その辺の事情を説明する必要がありますし」

「俺を……セイソール侯爵家の家名に泥を塗った奴に、思い知らせてやる必要がある」

「それって、もしかして深紅じゃありませんよね?」


 深紅という異名を聞き、ガイスカの眉が不愉快そうに顰められる。

 だが、すぐに自分が人数を集めてレイに報復を行うのだと考え、その苛立ちを何とか静めた。

 レイが広範囲殲滅魔法を得意としているというのは、ガイスカも当然知っている。

 だが、ここはアネシスだ。

 そのような魔法を使えるような場所などそうある訳もない。


「そうだ。だが、心配はいらん。あの男が得意としている魔法は、広範囲に影響を及ぼすのだろう? ならば、街中でそのような魔法はまず使えない筈だ」

「いや、俺が聞いた話じゃ、戦士としての腕前も相当なものだって話ですよ?」

「それも知っている。だが、魔法を使わせずに冒険者共を使ってあの男の体力を消耗させれば、最終的にはどうとでもなるだろ」


 それは冒険者を捨て駒にすると言ってるのも同然だったのだが、そこに罪悪感の類は一切ない。

 ガイスカにとって、冒険者というのは消耗品として使ってやるだけ感謝しろと言いたくなるような相手なのだ。

 そうである以上、レイを相手に何人死んでも罪悪感の類は一切ない。


「いや、でも……あの深紅ですよ? そいつと戦うだけの戦力を集めるとなると、まず受ける奴がいません。もしギルドを通さない形で依頼するにしても、相手が深紅だと知れば、それこそ戦わずに逃げ出す者も多いでしょう」


 ギルドを通した依頼であれば、途中で逃げるといった真似をすれば、ペナルティがある。

 場合によっては、賞金首にされる可能性すらあった。

 だが、ギルドを通さずにされた依頼の場合、当然そのようなペナルティの類は存在しない。

 当然のように評判が悪くなるだろうが、異名持ちの冒険者と戦わせるといったことを黙ったまま雇えば、まずほぼ全員が逃げるのは確実だった。

 だからといって、最初から異名持ちの冒険者と戦わせるなどといったことを言ってしまえば、例えギルドを通さない依頼であっても……そして高い報酬を約束しても、その依頼を受ける者は少ないだろう。

 いや、少ないどころか依頼を受ける者がいるかどうかすら分からない。

 アネシスの冒険者の中にも、当然ながらベスティア帝国との戦争に参加した者はおり、レイがどれだけ人外の存在なのかというのは、それこそ自分の目で見た者も多い。

 そのような者達から話を聞いている以上、実際にレイと戦うと言って、それを引き受ける者がどれだけいるのかは、デオトレスにとっても疑問だった。

 しかし……そんなデオトレスに向かい、ガイスカは笑みを浮かべる。


「模擬戦。そういう名目で集めておき……何人かの腕利きにだけこっちの本当の目的を伝える。……どうだ?」


 暗い笑みを浮かべながら、そう告げるのだった。

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