第1664話
「美味っ! 何だこれ、美味っ!」
レイの口から出たその言葉に、ビストルは満面の笑みを浮かべる。
「ふふっ、どう? アタシの愛がたっぷりと入った、特製の魚介スープは」
「ビストルの愛とかはどうでもいいけど、この海鮮スープは本気で美味いな」
スープの具材は、海鮮スープという通り魚介類が主となっている。
それらは、今日レイ達が捕まえた魚介類だ。
魚だけではなく、貝の類もたっぷりと入っており、それが濃厚な出汁としてスープに旨みを加えている。
何よりもレイが驚いたのは、アワビとしか思えない貝の類もたっぷりとスープの中には入っていたのだ。
日本にいた時にスーパーで売っているアワビと言えば、それこそ一つで千円オーバーすることも普通にあった。
そんなアワビが、鍋の中にはこれでもかと大量に入っている。
勿論鍋の中に入っている貝はアワビだけではない。サザエに似た貝も入っているし、TVで見たムール貝という貝に似た貝、それ以外にもレイが見たこともないような貝がたくさん入っていた。
勿論入っているのは貝だけではなく、大量の魚やエビ、イカ……それ以外にも拠点としている温泉の近くに生えていた野草や山菜といった食べられる草もしっかりと入っており、巨大なその鍋は大量の海鮮スープで並々と満たされていた。
……いたのだが、その鍋の中身はレイやビューネ、それ以外の面々も食べていることで急速に減っていった。
「このスープを飲んだ人は、堕落させられるわね。……これを、堕落の海鮮スープと名付けましょう」
「えっと、マリーナちゃん? ちょっとそれは言いすぎだと思うんだけど……」
マリーナの口から出た堕落の海鮮スープという料理名に、ビストルは戸惑ったようにそう告げる。
元々料理が趣味のビストルだけに、自分の料理をそこまで喜んでくれるのは嬉しい。嬉しいのだが……だからといって、堕落の海鮮スープなんて料理名を付けられるのは、出来れば遠慮したかった。
「いや、これはそれだけの料理名があってもおかしくはないと思うぞ。凝縮された海鮮のエキスが、パンとの相性も抜群だ」
マリーナだけではなく、エレーナもまた堕落の海鮮スープという名前に賛成する。
ヴィヘラもそれには異存がないらしく、スープの具材を食べながら頷いていた。
この堕落の海鮮スープは、分類上はスープだが、具材が大量に入っていることもあり、メインディッシュと言われても納得出来るだけの味と量がある。
だからこそ今日の夕食は、ビストルが作った堕落の海鮮スープとパンだけなのだから。
スープとパンだけの食事と聞けば、場合によっては貧相な食事と思われることも多いだろう。
だが、実際にそれを食べているレイ達にとって、その食事は十分以上に満足出来る夕食だった。
「ふふ、そんなに喜んで貰えて嬉しいわん。アタシの料理は愛情がたっぷりと込められているから」
嬉しそうに告げるビストルの様子は、その外見を気にしなければ母性的と表現しても決して間違いではなかっただろう。
筋骨隆々の外見から考えると、とうてい母性的とは呼べなかったのは間違いないが。
「これ、うどんで食べても美味いだろうな」
「そうね。ただ、折角の堕落の海鮮スープなんだから、スープにうどんが絡むように、出来ればもっとうどんは細い方がいいと思うわ」
「素麺的な麺か」
「……素麺?」
マリーナとの会話中で出て来た素麺という言葉に、刺身の時と同じく皆の視線がレイに向けられる。
それだけに、レイはどのような説明を求められているのかというのをあっさりと理解し、口を開く。
「簡単に説明すれば、ギルムのうどんに比べてかなり細いうどんのことだ」
正確にはうどんと素麺は似てはいるが、別物だ。
だが、レイにはその辺りの詳しい知識はなく、取りあえずうどんよりも細いのが素麺という認識があった。
「そう言えばギルムに出ているうどんの中にも、結構その店や屋台でうどんの太さは違うわね」
細いうどんという言葉に、ヴィヘラがそんな風に呟く。
事実、その言葉は決して間違ってはいない。
店によっては讃岐うどんのような太いうどんを出しているところもあれば、稲庭うどんのような細く、若干平べったいうどんを出している店もある。
当然うどんの太さに関しては、自分で出している料理に合うようにそれぞれの店で試行錯誤された末に考えられたものだ。
濃厚なスープやあっさりとしたスープによっても違うし、スープに入っている具材についても違う。
「取りあえず、細いうどんとかを用意して貰っておけばよかったな」
そう言いつつ、レイは寧ろこの堕落の海鮮スープに合うのは、うどんではなくラーメンなのではないかと思いつく。
もっとも、それこそラーメンの麺をどうやって作るのか分からない以上、口に出して余計な騒動を引き起こすようなつもりはなかったが。
(卵を使ってるんだよな? それ以外は、小麦粉と水と塩? いや、今それを考えても意味はないか)
ラーメンの麺……いわゆる、中華麺の類についての考えをすぐに頭の中から消し去り、再び海鮮スープを味わう。
そうして食事が終われば、後はもう自由時間となる。
そんな中で、ビストルは魚を捌き、塩水に漬け、保存が利くように一夜干しを作り始めた。
ビストルの持つマジックポーチは多くの物を入れることが出来るが、ミスティリングのように内部で時間が流れないという訳ではない。
その為、ビストルがマジックポーチに入れる魚は、生のままではなく保存が利くようにする必要があった。
「グルゥ」
「キュ!」
ビストルの側では、魚を捌いている様子に興味を惹かれたのか、もしくは単純に魚の臭いに食欲を刺激されたのか、セトとイエロの二匹がじっと見ている。
地面に腹ばいになっているセトの頭の上に、イエロがこちらも腹ばいになるという……そんな状況だ。
もしここにミレイヌやヨハンナ、もしくはスーラが率いてる中でセトに心酔している者がいれば、間違いなく激しい衝撃を受けていただろう光景。
「ふふっ、はい、これでも食べてちょうだい。けど、つまみ食いをしちゃ駄目よ?」
そんな二匹の様子に、ビストルは小さく笑みを浮かべつつ、一夜干しにしても売り物にならない小さな魚を投げ渡す。
セトとイエロの二匹は、それを見事にキャッチすると、美味そうに食べ始めた。
……尚、何故売り物にならないような魚を確保していたのかといえば、単純にビストルが自分で食べる分の一夜干しを作る為だ。
売りに出すには難しくても、自分で食べる分には問題ない。
それこそ酒の摘まみとして考えれば、手作りの一夜干しは自分で作ったという満足感もあり、最高の代物だ。
それに、これだけ一夜干しを作るのだから、そこに自分の食べる用に少し多く作ったところで、手間としては殆ど変わらない。
そういうこともあり、ビストルは小さめの魚も一夜干しにしていたのだ。
そんなビストルから少し離れた場所では、レイが何とか魚醤……しょっつるの作り方を思い出そうとしていた。
だが、レイが料理を作る時に頼っている料理漫画にも魚醤の作り方はなかった……もしくはあってもレイが覚えてなかったし、知っているのはニュースの特集か何かで見たものだけだ。
(魚を塩に漬ける? いや、漬けてたか? じゃあ、塩水で茹でる? それもちょっと違うな。醤油は一応発酵食品の筈だから、塩漬けの魚を発酵させる? ……何か、もの凄いのが出来そうだな。やっぱり自分で作るんじゃなくて、周辺の漁村とか港街を探してみるしかないか?)
もっとも、漁村や港街に魚醤があるかどうかというのは、それこそ実際に行ってみなければ分からない。
寧ろ、一切そういうのがない可能性の方が高いのだ。
そうなれば、他に魚醤のあるような場所を探すが……最終手段として、レイが自力で魚醤を作る必要が出てくる。
(いっそ、魚醤を諦めるか? けどなぁ……しょっつる鍋は美味いんだよな。まぁ、長ネギに似た野菜はあるけど、豆腐がないし、魚もハタハタっぽいのはないから、なんちゃってしょっつる鍋になりそうだけど)
普通の醤油の作り方が分かれば最善だったのだが、残念ながらそちらは完全に……それこそ魚醤よりも作り方が分からない。
レイにとって、醤油というのは日本にいた時は普通に食卓にあったもので、具体的にどうやって作っているのかというのは全く知らなかった。
そんな訳で、まだ作り方をうろ覚えではあるが覚えていた魚醤を作ろうとしたのだが……
(最悪、ギメカラにでも任せるか)
納豆の作り方を教えたギメカラのことを思い出し、半ば投げ出すことを考えるレイ。
面倒なことではあるが、もし実際に魚醤が出来れば、それが商売になるのは間違いない。
勿論、レイが知らないだけでこのエルジィンにも……いや、ミレアーナ王国にも魚醤はあるのかもしれないが。
(それなりに強い癖があるけど、納豆程に好き嫌いが多い訳じゃない……と思うから、商売的にも悪くない筈だ)
そこまで考えたレイは、ふと気が付く。
「結局刺身をすぐに食べられないのは変わらないのか」
「ん? どうしたの? 何か考えてたと思ったら、急に」
レイから少し離れた場所で手甲の手入れをしていたヴィヘラが、そう尋ねる。
だが、レイはそんなヴィヘラに何でもないと首を横に振る。
「刺身を食べるにしても、調味料がないと思ってな」
「ああ、生魚の……レイが知っている料理はどの料理も美味しそうだけど、生魚はちょっとね」
レイのことは信頼しているヴィヘラだったが、やはり生魚というところに引っ掛かるのか、少し残念そうな表情を浮かべていた。
レイがお勧めする料理なのだから、美味いのは間違いないのだろう。
それは分かっているのだが、それでもやはり今まで自分が生きてきた常識というのは、そう簡単にどうにかすることは出来ない。
だからこそ、それを残念に思っているのだ。
「別に無理にとは言わないから、気にするな。実際、俺が知ってる限りだと刺身が駄目って奴もいるらしいし」
日本人なら全員が刺身を好き……という訳ではない。
日本人でも刺身が嫌いな者もいるし、外国人でも刺身を好きな者はいる。
それはどんな料理でもそうだろう。
そう告げるレイに、ヴィヘラはそれでも少しだけ残念そうな表情を浮かべるのは止められない。
そんなヴィヘラの様子に、レイはふと思いついたように口を開く。
「刺身は無理でも、しゃぶしゃぶなら食べられるんじゃないか?」
「しゃぶしゃぶ? その妙な名前も料理なの?」
「いやまぁ、少し料理名が変わってるのは俺も否定しないけど」
何々のロースト何とか風といった料理名に比べれば、しゃぶしゃぶという名前は奇妙に感じられてもおかしくはない。
そう思いつつ、レイはしゃぶしゃぶという料理の説明をする。
もっとも、しゃぶしゃぶはそこまで難しい料理ではない。
いや、正確には凝るところに凝るのであれば、色々と調理するのに高い技量も必要になるのだろうが、素人が適当に作るという風に考えれば、そこまで難しくはない、というのが正しいだろう。
鍋の中に昆布を入れて出汁をとり、後は刺身をかるくその出し汁に潜らせてから味付け用の汁につけて食べるという料理なのだから。
(ただ、問題は何を味付け用の汁にするかだよな。肉なら胡麻だれで食っても美味いんだけど、魚のしゃぶしゃぶとなると、やっぱりポン酢が一番いいし。……で、醤油がない、と。まぁ、最悪ビストルの作った堕落の海鮮鍋の汁につけて食べても……)
寧ろ、海鮮鍋のスープでしゃぶしゃぶすれば、味付けは別にいらないのではないか。
それできちんとしゃぶしゃぶと呼べる料理なのかどうかはレイにも分からなかったが、取りあえず刺身を食べられないと残念がるヴィヘラやそれ以外の面々も、多少なりとも火を通せば食べられるのは間違いない。
レイの場合は、半分……いや、三割程度火を通したくらいで食べるのが好きだったが、しゃぶしゃぶであれば、自分が好きな火の通し加減で食べることが出来る。
そうして少しずつ……本当に少しずつだが、魚を生で食べる感覚を覚えて貰えばいい。
幸い……と言うべきか、ビストルが今日作った堕落の海鮮鍋のスープはまだ残っている。
であれば、しゃぶしゃぶとして食べるには問題ないだろう。
「そんな訳で、明日の夜は海鮮しゃぶしゃぶを楽しむことにするから、安心してくれ」
「いや、安心って……ちょっと美味しそうだとは思ったけど」
しゃぶしゃぶについての説明を聞いたヴィヘラは、その説明通りの料理であれば間違いなく美味いだろうと理解出来たので、そう言葉を返しつつ……レイが自分達のことを考え、新たな料理を披露してくれるということに、嬉しそうにするのだった。
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