第1493話

「ちょっ、待て! 待てって!」


 イルゼが放った一撃を何とか回避しつつ、アジャスが叫ぶ。

 デスサイズの一撃による衝撃で身体を動かすことは難しく、また、もし身体が動いても周囲にはレイやその仲間達、それに諜報部隊の面々がいる以上、逃げ出すことは難しい。

 アジャスにもそれは分かっているのだが、だからと言ってイルゼの一撃をまともに受けようとは思えなかった。


「あら、何で逃げるの? ほら、もっとしっかりと私の刃を受けなさいよ!」


 再び振るわれる刃。

 それをアジャスは何とか回避するが、イルゼが自分に向かって刃を振るうのを躊躇しないというのは、アジャスにとっては多少なりとも予想外のことだった。

 勿論、アジャスは自分がイルゼの家族の仇だというのは分かっている。

 だが、それでも普通ならイルゼのような若い女がいざ仇を取ろうという時に、こうもあっさりと刃を振り下ろしてくるとはアジャスにも思わなかった。

 もしアジャスが回避しなければ、間違いなくイルゼの刃は自分の耳を切断……下手をすれば、狙いが逸れて頭部に致命傷を負っていただろう。

 それが分かるだけに、どうしてもアジャスは反射的にイルゼの一撃を回避してしまう。


「アジャス!」


 そんなアジャスを見ていたレベジェフは、こちらも反射的に声を上げる。

 だが、レイに黄昏の槍の穂先を突きつけられている現状では、何か行動に移すことも出来ない。

 もし何か行動しようとすれば、それこそ穂先が自分の身体に刺さるだろう。

 刺されるだけであれば、レベジェフも自ら進んで……という訳ではないが、厭う気持ちはない。

 しかし、刺されてしまえば当然ながらダメージを受ける。

 そうなれば、この場から逃げ出す時に間違いなくそれが足を引っ張るだろう。

 そうである以上、不必要なダメージというのは可能な限り避けたいと考えるのは当然だった。


「仲間を心配する正義の味方みたいに言ってるが、お前もアジャスの仲間。これまで行ってきた悪事の数々を考えれば、とてもじゃないがそんなことは言えないからな?」


 アジャスを心配するレベジェフに、黄昏の槍を突きつけているレイが呆れたように呟く。

 何も知らない者が傍から見れば、ここで起こっていることは一人の男を人質にとり、もう一人が手も足も出せないような状況で一人の女に一方的に攻撃されているのだ。

 どちらが悪いと言えば、前提となる情報を何も知らない場合、間違いなくレイ達が悪いと言うだろう。


「それは、分かってる。だが、友人を心配するなという方が無理だろう!」


 叫ぶレベジェフの様子に、レイは眉を顰める。


「自分の仲間が傷つけられればそんなことを言うくせに、お前達は今まで散々罪を重ねてきたのか。……自分勝手だな」


 その言葉と共に、レイは右手に持っていたデスサイズをミスティリングに収納し、続けてその右手をドラゴンローブの中に入れる。

 そんなレイの動きを見た瞬間、レベジェフは嫌な予感がし……だが、それを言葉に出すには、遅かった。

 レイがドラゴンローブから出した手の中には、何かが握られている。

 レベジェフは分からなかったが、それはレイの持つマジックアイテム、ネブラの瞳が生み出した鏃だ。

 魔力によって生み出されたその鏃は、少し時間が経てば消えるという特性を持っている。

 だが、戦闘の中で武器として使うには、十分だった。


「アジャス、避けろ!」


 レイが何を狙っているのか。それを理解したレベジェフは叫ぶが、そう叫んだ時、既にレイの右手は鏃を弾いていた。

 空気を斬り裂きながら飛んでいった鏃は、アジャスの左頬に一筋の傷を付ける。

 その傷は、かすり傷と呼んで差し支えのない程度の傷だったが、イルゼからの攻撃を何とか回避しようとしていたアジャスにとって、一瞬でも動きを止めるというのは大きなミスだった。

 普段であれば、その程度のかすり傷を受けても特に問題なく攻撃は回避出来ていただろう。

 だが、今はデスサイズによる攻撃を受けたせいで、とてもではないが万全の体調とはいかない。

 結果として、勢いよく振り下ろされたイルゼの短剣は、容易にアジャスの右耳を切断する。


「ぐわぁっ!」


 痛いというよりは、熱い。

 そんな感触が、アジャスの右耳を襲う。

 咄嗟に右耳を押さえるアジャスだったが、そこに慣れた右耳の感触はなく、ヌルリとした血の感触だけがあるのみだ。

 押さえた手から、血が零れ落ちる。

 月明かりの下でも、アジャスは自分の右耳が地面に落ちているのをしっかりと見ることが出来てしまう。

 それでもアジャスの口から上がった悲鳴が短かったのは、それだけの覚悟があったからだろう。


「左の耳も……」

「そこまでだ、イルゼ」


 ようやく右の耳を奪うことに成功したイルゼが、そのまま続いて左の耳も……そう考えたのだが、それを止める声があった。

 それが誰の声なのかというのは、イルゼにも分かっている。分かっているが……長年追い求めてきた家族の仇に短剣を振るうのを邪魔する相手に向かって叫ぶ。


「何故ですか、レイさん!」

「落ち着け。前もって言ってあった筈だ。アジャスからは事情を聞くと」

「それは……」


 レイの言葉で、イルゼも極度の興奮状態から我に返る。

 そう、最終的にアジャスの命は自分が貰うのだから、その前に事情を聞くくらいはしてもいいだろうと。


「すいません。少し血気に逸りました」


 少し? と、それを見ていた、周囲の諜報部隊が内心で呟く。

 なまじイルゼが美人と呼ぶに相応しい容姿をしているだけに、血に狂ったかのような先程の様子は、諜報部隊の男達を完全に引かせていた。

 諜報部隊の男達も、その仕事の性質上、人を殺すということは珍しくはない。

 だが……自分でやるのと、それをイルゼのような美人がやるのとでは、迫力が違っていた。

 そんな諜報部隊の面々の気持ちには全く気が付いた様子もなく、レイは右耳のあった場所に手を当て、そこから流れる血を止めようとしているアジャスに向かって口を開く。


「さて、改めて質問しようか。何であんな……馬車に三台分もの女を誘拐するような真似をした? あの女達を、どこに連れていくつもりだった?」

「そ、それは……」


 普段であれば、アジャスもそんな言葉に耳を貸すようなことはないだろう。

 だが、今は実際に目の前に自分の命を狙っているイルゼがおり、自分の身体はレイの攻撃でろくに動かない。

 ましてや、自分よりも圧倒的に強い者達が周囲を囲んでいるとあっては、どうしようも出来ない。


(せめてもの救いは、ハストンは治療されて、レベジェフは攻撃を受けていないことか)


 分かってはいたが、イルゼの目的はアジャスなのだ。

 それ故に、自分以外の二人に手を出されていないというのは、アジャスにとっては救いだった。……ハストンは右膝を切断されており、その後の戦闘でも幾つもの傷を負っているのだが、幸いにも現在は治療されている。


(けど、ここで何も言わないと……レイの性格を考えれば、あっさりと俺をイルゼに与えかねない)


 口先だけでレイを煙に巻くといったことも考えたが、レイだけならばまだしも、ここにはそれ以外にも大勢の人がいる。

 そうである以上、レイをどうにか出来ても他の者達はどうしようもないだろう。

 それどころか、レイを騙したとして最悪の未来が待っている可能性もあった。

 自分と仲間達が助かる為に、何をすればいいのか。

 そう考えたアジャスは、右耳の痛みを我慢しながら口を開く。


「分かった! 理由を話すし、誰が指示したのかってのも話す。だから、俺とレベジェフ、ハストンの安全を保証してくれ!」


 その言葉に、その場にいた者の殆どがレイに視線を向ける。

 正確にはアジャスを殺したいと思っているのは、あくまでもイルゼであって、レイはその手伝いをしているにすぎないのだが……それでも、やはりレイという存在は周囲の注目を集めるだけの力があったということなのだろう。

 そんな視線を向けられたレイは、どうするかと少し考え……やがてアジャスを見ながら、口を開く。


「そうだな。お前の情報によっては考えてもいい」


 そう告げたレイの言葉を聞いていたイルゼは、反射的にレイに向かって何か言おうとするも、すぐ側にいるビューネにそれを止められる。


「本当だな?」

「ああ。……で? 何だってこんな真似をしたんだ? あの馬車に、お前達が連れ去った女達が詰め込まれてるんだろ?」

「そうだ。奴隷の首輪をしているから、騒ぐようなこともないしな。……女を集めたのは、上からの指示だ。俺達の考えじゃない」


 レイが予想していたよりもあっさりと、アジャスは事情を説明する。

 アジャスにとって、現在所属している組織と昔からの仲間のレベジェフとハストンのどちらが大事なのかといえば、それはもう最初から答えは決まっていた。

 二人の仲間を助ける為であれば、組織を売る程度のことは何とも思わない。


「組織の上からか。なら、その組織は何を考えているんだ? まさか、ここまで強引に女を連れ去って、娼館を経営させるだけ……って訳じゃないんだろ?」

「いや、連れ去った女達は娼館で働いている。それは間違いない。冗談でもなんでもない!」


 娼館で働いていると口にしたアジャスは、レイの視線がイルゼに向けられたのを見た瞬間、強く断言する。

 だが、レイの視線の強さは変わらない。


「娼婦になりたいって奴は、どこでもそれなりに多い筈だけどな」


 レイの言葉は、決して嘘ではない。

 娼婦は身一つで出来る職業でもあり、何の技術もない女でも働くことが出来る。

 勿論世の中には娼婦を認めないという女もいるのだが、娼婦がいるからこそ女が襲われるという犯罪が抑えられているのも事実なのだ。

 また、スラムに住む者がスラムを出ていくには、娼婦という職業は手っ取り早いものでもある。

 そんな娼婦を得る為に、わざわざギルムのような場所にまで女を強引に連れ去る為にやって来たかと言われれば……普通は信じない。

 少なくても、レイには信じられなかった。

 だが、そんなレイの様子を見て、それでもアジャスは言葉を変えない。


「嘘じゃねえよ。上が何を考えているのかは分からねえが、向こうに連れていった女が娼婦として働いているのは間違いない」


 そう言い切るアジャスの言葉に、レイは変わらず強い視線を向けながら首を傾げる。


(この状況でここまで言い切るってことは、恐らくアジャスが言ってるのは真実だ。だが……何でわざわざ連れ去っていった女を娼婦に仕立て上げる?)


 それが、分からない。

 レイが口にしたように、娼婦になりたいという者であれば、基本的に問題なく娼婦にはなれるのだ。

 勿論、何らかの理由で言葉が上手く話せなかったり、男から見て抱きたくならない女だったりと、必ずしも全員が娼婦になれる訳でもないし、娼婦になっても客が取れない者も多い。

 それでも、わざわざこうしてギルムのような危険な場所にやってきて、しかも裏の組織と取引をして……というのは、明らかに尋常な事態ではない。

 普通に考えれば、娼婦以外の何らかの理由があるのは確実だった。


「本当にそれ以上は何も知らないのか?」

「ああ、理由は何も知らない」


 そう言い切るアジャスを一瞥すると、レイは諜報部隊に視線を向ける。

 何か事情を知らないかといった問い掛けの視線だったのだが、諜報部隊の者達は揃って首を横に振った。

 何も事情は知らないのだろうと判断したレイは、少し考え……次の質問に移る。


「お前達に今回の一件を命じた組織の本拠地はどこだ?」


 これは正直なところ、レイにとってはそこまで必要な情報ではない。

 だが、レイにとって必要ではなくても、諜報部隊にとっては是非とも知っておきたい情報だった。

 こうして明確なまでにギルムに敵対したのだから、その組織は敵と認識しても構わない存在なのだから。

 そんなレイの質問にも、アジャスは躊躇することなく答える。


「レーブルリナの首都ロッシだ」

「……は?」


 アジャスの口から出てきたのは、完全に予想外の言葉。

 首都という言葉が出てくる以上、そのロッシという場所は一国の首都で間違いないのだろう。

 だが、ミレアーナ王国の首都はカーフィリという名前で、決してロッシという名前ではない。


「レーブルリナ!? 何故あの国がそのような真似を!」


 レイは分からなかったのだが、話を聞いていたエレーナはその名前に聞き覚えがあったのだろう。珍しいことに、驚愕と呼ぶべき表情を浮かべてアジャスを見ている。

 そんなエレーナの様子に、レイは他の者達の様子を眺める。

 マリーナやヴィヘラ、諜報部隊の面々は揃って驚愕の表情を浮かべており、ビューネは相変わらずの無表情で何を考えているのか分からない。

 イルゼは、殺気の籠もった視線でアジャスを睨み付けている。


「それで、レーブルリナって国、俺は知らないんだが……どんな国なんだ?」

「この国と隣接している小国の一つで、同時にミレアーナ王国の従属国でもある」


 レイの言葉に、エレーナはそう言葉を返すのだった。

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