第1489話

「ちっ、厄介だな」


 スラム街の中にあるとある場所で、アジャスが不愉快そうに呟く。

 そんなアジャスの言葉に、仲間の二人……レベジェフとハストンも、無言で頷く。

 尚、現在既に三人ともがいつでもギルムを出られるように装備を調えている。

 少し違うのは、ハストンが大きな革袋で出来たリュックを背負っているということか。

 かなりの重量のそのリュックは、出来れば地面に置いておきたいところだ。

 だが、リュックの中に入っているのは数十人の数日分の食料だ。

 可能な限り無駄を省いてリュックの中に入っているそれは、もし地面に置けばネズミや虫がリュックから漂ってくる匂いに惹かれて近づいてくるだろう。

 もっとも、今は夏だ。

 つまりそれだけ夜に飛んでいる虫も多く、その中には肉食の虫も多い。

 そのような虫や動物たちに……そして何より、常に空腹な者が多いスラム街の住人達にとって、リュック一杯に入っている食料は垂涎の物だろう。

 例えリュックの中に入っているのが、保存性と携帯性を追求した干し肉や焼き固めたパンといった代物が大半であっても、だ。

 本来なら、アジャス達が泊まっていた食堂である程度の食料を確保出来る筈だった。

 だが、それは半ばまでしか叶えることが出来ず、結局食料の大半は干し肉や焼き固めたパンといった代物になったのだ。

 もっとも、食料を運ぶということを考えれば、それは決して損ばかりという訳ではないのだろうが。

 そんなリュックを背負ったハストンは、周囲の暗闇に視線を向ける。

 月明かりと星明かり程度しか光源のないこの状況では、周囲の状況を完全に見通すことは出来ない。

 勿論、アジャス達は全員が後ろ暗いところのある身だし、これまでも夜に行動することも多かったので、ある程度夜を見通すことが出来る夜目はある。

 だが、それも全ての闇を見通すことが出来るような夜目ではなく、普通の人よりは幾分マシといった程度でしかない。

 この闇に紛れて周囲に多くの者達がいるのはアジャス達にも分かっていた。分かっていたのだが、上手く闇に紛れているせいでそれがどのような人物なのかが分からない。


「落ち着けよ、アジャス。多分ジェスタルの部下だろ」


 レベジェフが、ジェスタルの名前を呼び捨てにしながら、そう告げる。

 目の前にいるのであれば、向こうの機嫌を損ねる訳にもいかないので、丁寧な言葉遣いもするだろう。

 だが、そうでないのであれば……今の状況でジェスタルを丁重に扱う必要もなかった。


「だと、いいだけどな」

「それより、向こうは本当に来るんだよな? いつまでもこれを背負ってるのは、結構辛いぞ?」


 そんな風に話している二人に対し、ハストンが不満そうに呟く。


「そうは言ってもな。レベジェフは向こうとの取引を進める為に窓口になっているし、まさか俺がそれを背負う訳にもいかないだろ?」

「それはそうだけどよ」


 向こうと直接接触しているレベジェフが食料を背負っているというのは、ジェスタルとの会話の中で向こうに付けいる隙を与えるのに等しい。

 そしてアジャスは、三人の中でリーダー格と見なされているというのもあるが、それ以上に三人の中で最も腕が立つ人物だ。

 勿論高ランク冒険者や異名持ちといった者達を相手にどうにか出来る程ではないが、それでもジェスタルの部下とやり合うくらいは余裕で出来る。

 その辺りの事情から、最終的にはハストンが食料を背負うことになったのだ。


「水を用意しなくてもいいだけ、楽だろ?」

「……当然だ。水を運ぶなんてことになったら、ちょっと洒落にならないぞ」


 会話に割り込んできたレベジェフに、ハストンは不機嫌そうにしながらもそう答える。

 その言葉通り、食料だけでもこの状況なのだ。数十人分の水を自力で用意することになったのであれば、それこそ身動きが取れなかったのは間違いなかった。


「どうせなら、水だけじゃなくて食料も向こうに要求すればよかったのによ」

「そんな真似をすれば、ただでさえ向こうに借りがあるのに、余計にその借りが大きくなるだろ。そうなれば、更に金を取られるぞ?」

「……ったく、苛つく奴だな。他の奴と取引をした方がよかったんじゃないか?」


 ハストンが溜息を吐きながら、アジャスに告げる。

 だが、そのアジャスはハストンの言葉に首を横に振った。


「駄目だろうな。そもそも、ギルムの裏組織で一番俺達と相性のいい組織がジェスタルの組織だったんだ。それ以外の組織となると、今以上に厄介になる可能性がある」

「それは……」


 何かを言おうとしたハストンだったが、それ以上は口にしない。

 実際、ジェスタルの組織との取引は、今回の一件があるまで上手くいっていたのは間違いないのだ。

 そう考えれば、向こうを急かしたのが自分達であるというのが分かっている以上、ハストンも言葉を噤むしか出来なかった。


「来たぞ」


 ちょうどそのタイミングで、レベジェフが告げる。

 その声と共に耳を澄ませると、馬車がこちらに近づいてくる音が聞こえてきた。

 それも一台ではない、もっと多くの馬車が。


(まぁ、何十人もの女を詰め込んでるんだから、それくらいの馬車の数にはなるだろうけど)


 アジャスがそう考えながら、音の聞こえてくる闇の方に視線を向けていると……やがて、その闇を割り開くようにして馬車が姿を現す。

 馬車を牽いている馬は、とてもではないが立派な馬という訳ではない。

 ジェスタルの組織に払った金額を考えれば、出来ればもう少しいい馬を用意して欲しいというのが、アジャスの正直な感想だった。

 

(もっとも、今夜すぐに用意して欲しいと要望したのはこっちだしな。そう考えれば、無理もないか)


 そんな風に考えている間に、やがて馬車が停まる。

 先頭の馬車の御者台にはジェスタルの姿があった。

 普段このような取引に組織のトップが出てくることはないのだが、今回行われる取引は非常に多くの金額や労力が動いている取引だ。

 また、本来であればもっと時間が必要だったのが、約束の期日が急に早められ、更にそこから今夜にまたもや早められたのだ。

 これだけの大きさの取引が行われ、更には何度もトラブルが起きたのだ。

 そうである以上、何かあった時の為に責任者のジェスタルが出てくるのは当然だった。


「おう、待たせたか」

「いえ、そうでもありません。ですが、予定の時間よりもちょっと遅れたみたいですが……どうしたんですか? 首輪がある以上、牢屋から女達を出すのに時間が掛かるとは思えませんが」

「今夜が期限ってことでな。組織の連中に最後の一働きをして貰ったんだよ。おかげでここに来るのは遅くなったが、お前と話した時と比べると五人増えた」

「ほう……それは助かりますね。ですが、こちらも先程約束した金額以上は出せませんよ?」

「分かってるよ。これはこっちからの手向けだと思え。お前達からは相応の金額を貰ったからな。それに相応しい仕事をするのは当然だろう」


 ジェスタルの口から出た言葉が、どこまで真実かはレベジェフにも分からない。

 だが、その全てが真実であるとは到底思えず、それどころか何かを企んでいるのではないかという思いすらあった。

 実際、既にしっかりと契約が結ばれて約束していた金も支払っている以上、今更向こうが更に頑張る必要はないのだから。

 それでも今のレベジェフに出来るのは、ジェスタルに感謝の言葉を述べるだけだ。

 もしここで下手なことを言ってしまい、結果として取引がご破算になるというのは絶対に避けるべきことなのだから。


「それでは、引き渡しをお願いします。それと、ギルムから脱出する件も……」

「ああ、分かっている。だが、お前達もしっかりと残りの金を支払えよ」

「分かっています。残りの報酬はこちらに」


 レベジェフが、懐から取り出した革袋を差し出す。

 御者台の上からそれを見たジェスタルは、周囲で護衛をしている者の一人に視線を向ける。

 それを向けられた護衛の男は、小さく頷くとレベジェフに近寄り、その革袋を受け取る。

 受け取った男は、紐で縛られている革袋を少し緩めると、そこに白金貨が入っているのを確認し、ジェスタルの下に戻る。


「……なるほど。間違いなく約束通りの金額だな」

「ええ。ここでそちらを裏切るような真似はしませんよ。それで、そちらもこちらの約束通りに?」

「ああ。さっきも言ったが、直前に何人か補充出来た。お前から預かった奴隷の首輪は嵌めたが、まだ元気一杯だが……構わないか?」

「そうですね。出来ればもう何日か牢に入れて精神的に弱らせたかったところですが……無理を言っても仕方がありませんし」

「そう言って貰えると、こっちも頑張った甲斐があったってものだ。それと水はそれぞれの馬車に分けて積んである」

「ありがとうございます」


 ジェスタルが口にした予想外の言葉に、レベジェフは大人しく頭を下げる。

 だが、そんなレベジェフの近くで周囲の状況を確認しているアジャスとハストンの二人は顔には出さないものの、何故ここまで親切にするのかと、そんな疑問を抱く。

 これが普通の商取引であれば、それこそ後日も取引をする為に多少のサービスをすることもあるだろう。

 だが、アジャス達はこの取引が終われば、もうギルムに来ることは恐らくない。

 そもそも、賞金首になる可能性すらあるのだから、高い戦闘力を持つ冒険者が多く揃っているギルムに、望んで来ようとは思わない。

 にも関わらず、ここまでサービスをするのは、絶対にそこに何らかの理由があるのは間違いなかった。


 しかし、何故ここまでしてくれるのかと聞くのは躊躇われる。

 もしそれを聞いた場合、何かを要求される可能性を考えれば藪蛇以外のなにものでもないからだ。

 そうならない為には、やはり大人しく向こうの厚意を受け取っておいた方がいいのは間違いない。


(ああ、もしかしたら俺達じゃなくて上の方と取引をしたいのか? そう考えれば、もしかしたら可能性はあるかもしれないな)


 ふと、レベジェフはそんな風に思う。

 思うが……当然のようにそれを口にはしない。

 今の自分達は、とにかく早く取引を終えてギルムから脱出するのが最優先事項なのだから。

 ジェスタルを含めて、三台の馬車の御者席からそれぞれ降りてくるのを確認すると、レベジェフはアジャスとハストンに視線を向けようとして……瞬間、動きを止める。

 今までは少なくても表面上穏やかにジェスタルと取引を進めてきたのだが、レベジェフを含め、その場にいたアジャスとハストンの二人も視線を鋭くして周囲を見回す。

 いや、急激に警戒を厳しくしたのは、レベジェフ達だけではない。ジェスタルの護衛としてついてきている部下の何人かも、レベジェフ達同様に視線を鋭くして、夜の闇に包まれている周囲を警戒していた。


「どうした? 何かあったのか?」


 護衛の者に尋ねながら、ジェスタルは白金貨の入った革袋を懐に入れつつ短剣を手に取る。

 今でこそ組織のボスという立場にあるジェスタルだが、当然のように若い頃は幾つもの荒事を経験している。

 ボスという立場上、当然若い頃よりもその腕は落ちているが、それでもその辺の冒険者よりは場慣れしている自覚はあった。


「声が……呻き声らしきものが聞こえました。恐らく、周辺に配置したこちらの護衛でしょう。もしくは、どこか他の組織がこちらに手を出してきた可能性もありますが」


 護衛の一人、短剣を手にした男がジェスタルにそう告げる。


「呻き声だぁ? 今の状況で俺達に手を出してくるような奴が、そうそういるとは思えねえけどな。……いや、こっちの上がりや俺の命を狙って襲ってきた奴でもいるのか?」

「その辺は分かりません。ですが、とにかく周囲を警戒する必要はあるかと」

「だろうな。幸い、取引はもう終わったんだ。俺達はこのまま帰らせて貰うが、それで構わないか?」


 そう告げられるも、ジェスタルの言葉にレベジェフ達はすぐに頷くことは出来ない。

 何故なら、誰が襲ってきたのか……それを半ば理解していたからだ。

 夜の闇の中で、こうも的確に攻撃を行うというのはそれなりに難しい。

 ましてや、ここは冒険者の主戦場ともいえるギルムの外ではなく、ギルムの中……それも幾つもの廃墟があるスラム街だ。

 そのような場所で行動するには、通常の冒険者とは違う技量がいる。

 そんな真似が出来る相手で、レベジェフ達に恨みを抱いている者というのは、そう多くない。


「ちくしょうっ、もう来たか!」


 レベジェフの背後で、アジャスが忌々しげに吐き捨てる。

 そんなアジャスの様子に、ジェスタルは目を細めた。

 襲撃をしてきた相手が誰なのか、それを理解しているという言動だった為だ。


「おい、一体……」


 そう事情を尋ねようとした瞬間、不意に暗闇から一人の男が吹き飛ばされてくる。

 その男が自分の部下で、護衛に回していた人物だと知ったジェスタルは、男の吹き飛んできた方に視線を向け……そこにいる、大鎌と槍を持った人物の姿を目にする。


「レイ、だと……」

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