第1478話

「はぁ、はぁ、はぁ」


 長剣を手にしたアジャスが、呼吸を乱しながら周囲を見回す。

 トレントの森に入ってきたゴブリンは、全てが命を失って地面に倒れている。


「お、おい。どうしたんだよアジャス。所詮相手はゴブリンだぜ? 何でそこまで本気になってるんだ?」


 アジャスと一緒に樵の護衛の依頼を受けている冒険者の一人が、そう気遣うようにアジャスに声を掛ける。

 だが、声を掛けられたアジャスは、半ば血走ったかのような目つきで声を掛けてきた相手を睨む。


「っ!? お、おい、アジャス?」


 一瞬息を呑みながら、男は再度アジャスに声を掛ける。

 それでいながら、男の武器のメイスを握る手に力が入ったのは、アジャスの様子に本能的な脅威を感じたからか。

 そんな男の様子をアジャスも感じたのか、気分を落ち着かせて目の前の仕事仲間を見る。

 だが、落ち着いた様子なのは、あくまでも表向きだけでしかない。

 もしかして、目の前の男もレイやイルゼの仲間なのでは? と、そう疑ってしまうのだ。

 そもそも、自分がトレントの森で樵の警備に回されたのも、ギルドの強い要望があってのものだ。

 元々の報酬もよく、木を伐採しての追加報酬も望める。

 そんな依頼をギルドに持ち掛けられて、断るというのは非常に目立ちすぎた。


(けど、今日の様子を見る限り……多分、俺に依頼を持ってきたことそのものが罠だったんだろうな。となると、ギルドでも俺については色々調べてると考えて間違いない筈だ)


 動揺しながらも、アジャスはその辺りのことをほぼ間違いないだろうと予想していた。

 実際には、アジャスをこちらに回して貰えるようにケニーに交渉した時は、深く疑われていたのは間違いないが、それでもまだアジャスがイルゼの仇だと本当の意味で確定していた訳ではなかった。

 刺青とイルゼの記憶の中にあるアジャスの面差し。

 その二つが根拠となっていたが、刺青だけであれば同じような刺青だと考えることも出来るし、五年前に見た仇の顔を今もしっかりと覚えているとは限らない。

 ……もっとも、その二つがセットになっていた時点で、レイから見れば半ば確定だろうと思ってはいたのだが……

 ともあれ、アジャスがイルゼの仇だと本当の意味で確定したのは、先程のやり取りの中でだ。

 それに気が付いた以上、アジャスは自分と同時期にこの依頼を受けた冒険者達を疑わない訳がなかった。


「ああ、悪い。思ったよりもこの森のせいでゴブリンに手こずってな。おかげで、ちょっと頭に血が上ったままだった」

「おい、本当に大丈夫なのか? 珍しいな、アジャスがゴブリンを相手に手こずるなんて」


 アジャスの様子に、男はメイスを握っていた手からそっと力を抜く。

 今まで、トレントの森には何度か襲撃があった。

 だが、やってくる相手は殆どがゴブリンで、そこまで手こずるようなことはなかったのだ。

 男もアジャスの戦闘を何度も見たことがあり、だからこそこうしてアジャスがゴブリンに手こずっているのを見て疑問に思ったのだろう。


「ああ、ちょっと体調がな。……悪いけど、このままだと他の連中の足を引っ張ることにもなりかねない。俺がいなくても問題ないようなら、悪いが今日はこれで帰ってもいいか?」

「は? おいおい、本当に身体の調子が悪いのかよ。……まぁ、ここはそこまで忙しくないから、構わないだろうけど。一応ルグルノさんに言っておいた方がいいんじゃないか?」

「ああ、そうするよ。本当にここで仕事をしていてよかった」


 そう告げるアジャスは、本心から樵の護衛という仕事でよかったと考えている。

 実際、もし新しい壁を作っている工事現場で働いていたのであれば、とてもではないが途中で帰るといった真似は出来ないだろう。

 増築工事をしているギルムで、最も忙しい場所は当然のように工事現場なのだから。

 そんな場所で、ちょっと体調が悪いから帰らせて欲しいと言われても、普通はそう簡単に認めないだろう。

 ……もっとも、体調が悪いせいで余計に他の作業が遅れるようであれば、話は別だろうが。

 ともあれ、アジャスは男にそう告げると、ルグルノを探してトレントの森を歩く。

 先程ゴブリンの襲撃があったことから、ルグルノを見つけるのはそう難しくはない。

 だが……アジャスは、ルグルノの姿を見た瞬間、動きを止める。

 何故なら、ルグルノの側にはレイとイルゼの姿があった為だ。

 もしかして、自分のことについて何かをルグルノに言っているのでは?

 そう思ってしまえば、ルグルノに話すような余裕もない。


(何も言わないで消えた方がいいな)


 普通の冒険者であれば、そのような真似は出来ない。

 だが、既にアジャスは自分の正体がレイに知られていると理解している。

 そうである以上、冒険者として働くことは出来ないだろう。

 それは、このギルムだけではない。

 ギルドとギルドを結ぶ通信網により、恐らくアジャスの名前は知れ渡る筈だった。

 もしかすれば、似顔絵の類が広まる可能性もある。

 そうである以上、わざわざここでルグルノに断る必要もないだろうと判断し、すぐにその場を後にする。

 馬車の類を使うことは出来ないが、それでもギルムまでは歩いて、もしくは走っていけない距離ではない。


(アブエロに直接向かった方がいいか? ……いや、駄目だ、拠点はギルムにあるんだから、行方を眩ます準備をするにはギルムに戻る必要がある。それに、あの二人を置いていく訳にはいかないしな)


 他にも確保してある女達をそのままにしておけないということもある。

 現在は組織から借りた牢屋に入れてあるが、そちらを回収するのも忘れられない。

 仲間に任せた方がいいかも? と思わないでもないアジャスだったが、レイやイルゼ、またはその後ろにいると思われる者達が自分の泊まっている部屋を探す……という可能性もある。

 勿論その辺りの証拠になりそうなものは、隠してあるつもりだ。

 だが、もしかすれば何か手掛かりのような物が残っている可能性もあり、それを考えればやはりアジャスが逃げ出す時は女達も連れて行った方がいい。


(いや、そもそも女達を連れ出せばスラムの組織の協力があっても、どうしても目立つ。そうなれば、やっぱり俺が囮になった方がいいか? ともあれ、その辺りを相談する為にも、なるべく早く宿に戻る必要があるか)


 内心で呟きながら、アジャスは何度か上を……夏らしく強烈な日光を降り注いでいる太陽と、青い空、入道雲といったものを見上げる。

 それは、ただでさえレイ達とのやり取り、ゴブリンとの戦闘、そして何よりこうして走っていることにより汗を掻いている為に、好天と呼ぶに相応しい空を忌々しいという思いもあるが、それよりも大きいのは、セトだった。

 空を飛ぶことが可能なグリフォンであれば、空から自分を追ってくるのも可能なのではないか。

 そんな恐怖が――本人は認めないだろうが――あったからだ。

 ……それは、正しい。

 実際、今こうしている時もセトは空からアジャスを追跡していたのだから。

 だが、その目的はアジャスが考えているように追撃をしているのではない。あくまでも、追跡だ。

 この状況でアジャスが逃げ込むのであれば、そこはアジャスが拠点としている場所の可能性が高い。

 勿論そのまま拠点に向かわず、姿を消す可能性もあった。

 そうしようとした場合は、セトが直接確保する予定だったのだが……それを考えれば、今は捕まらなかったのだからアジャスにも多少の運は残っていたのだろう。

 尚、セトが上空からアジャスを追跡しているにも関わらず、アジャスがセトの姿を見つけることが出来なかった理由は、単純にセトのいる高度にある。

 十m程度の高度を飛んでいるのであれば、アジャスもセトを見つけるのは難しくはなかっただろう。

 だが、セトはいつものように百mの高度を飛んでいたのだ。

 冒険者が普通の人間よりも身体能力が高くても、高度百mの位置を飛んでいるセトを見つけることは不可能だ。

 いや、場合によっては可能な者もいたかもしれないが、少なくてもアジャスにそれは無理だった。

 自分が尾行されているとも知らないアジャスは、ひたすらに走り続け、やがてギルムに到着する。

 正門が見えてきた頃には、走る速度を緩めて具合が悪そうな表情を浮かべていた。

 元々が身体の具合が悪いと言って戻ってきたのだから、そうするのが最善だと思ったのだろう。

 もっとも、ルグルノに何も言わず出てきた以上、無断で戻ってきたのはいずれ知られることになるのだろうが。

 だが、アジャスは取りあえず今をどうにか出来れば問題ないと考えていた。

 そうしてギルムに入る手続きを終えると、そのままギルドに……ではなく、本拠にしている宿に向かう。

 当然ながらそんなアジャスの様子は、上空からしっかりとセトが確認していた。

 アジャスが宿に入っていったのを確認すると、セトはそのまま上空を飛びながら宿からアジャスがどこかに逃げないかを監視する。

 もっとも、アジャスが宿の地下から逃げたり、空からでは見えない屋根のついた場所を移動したりすれば、セトからは見えないのだが。

 ともあれ、セトは空を飛びながら周囲の様子を警戒しつつ、宿屋の監視を継続するのだった。






「はぁ……」


 ようやく宿に戻ってきて安心することが出来たアジャスは、安堵の息を吐きながらベッドの上に倒れ込む。

 勿論、いつまでもこうしていられるような余裕はないと分かっているのだが、それでもいつレイに襲われるかもしれないという思いをしながらこの宿まで戻ってくるのに、かなりの神経をすり減らしたのだ。


「出来れば、ここには戻ってきたくなかったんだけどな」


 呟くのは、この宿を探されればアジャスも忘れていたような、何らかの証拠が出てきかねない為だ。

 だが、時間の猶予がないというのを考えれば、やはりこの宿に戻ってくるしかなかっというのが正直なところだった。


「とにかく、なるべく早くどうにかしないといけないんだが……どのみち、今の俺に出来ることはそんなに多くはないか」


 アジャス一人だけでギルムにやって来てるのであればまだしも、レベジェフ、ハストンの二人と一緒にやって来ているのだ。

 勿論表向きは面識がないことになってはいるのだが、実際には一緒に組んで女を集めるという仕事を任されている。

 そうである以上、その二人に何も告げずに自分だけこの場から逃げ出すような真似は出来ない。

 ましてや、レベジェフやハストンとは五年以上の付き合いだ。

 そこまで考え……アジャスは先程五年ぶりに遭遇した女のことを思い出す。


(あの時は……レベジェフとハストンと待ち合わせの途中だったよな? そのついでに少し金が必要になって……ああ、そうだ。うん、思い出した)


 そう考え、イルゼの顔を思い出したところで疲れが大分癒えてきたこともあって、ベッドから起き上がる。


「取りあえず、何を準備するにしても俺が外に買いに出掛ける訳にはいかないよな。となると、誰かから色々と買ってきて貰う必要があるんだが」


 宿には自分のことを何も知らない雑用係の子供もいる。

 そのような子供を使えば、取りあえずギルムを出てから必要な食料の類を買うのも難しい話ではない。


「三人分の食料……いや、ここでは最低限だけで、残りはアブエロやサブルスタで買った方がいいか。出来れば、あまり寄りたくないんだけどな」


 元々の予定では、スラムの裏組織との取引を出来るだけ早く終わらせ、足りない分の女はアブエロやサブルスタ、もしくはそれ以外の途中で寄った村や街、都市で連れ去るつもりだった。

 だが、今の状況でそのような悠長な真似は出来ない。

 少なくても、ギルムに近いアブエロやサブルスタといった街で女を連れ去るような真似をすれば、そんなことをしている間にレイがやってきてもおかしくはない。


「グリフォンとか、反則だろ。しかも希少種だって話だし」


 幾らアジャス達が地上を移動しても、空を飛ぶグリフォンにとっては見つけるのは難しい話ではない。

 ましてや、街道を逸れるといった危険な真似をしても、グリフォンに追われてはすぐに見つかってしまうだろう。

 何をやるにしても、その移動速度が決定的なまでにアジャスにとって不利に働くのだ。

 そのことにアジャスは苛立ちを隠せない。

 もっとも、グリフォンがいなければレイに勝てる……と思う程、思い上がっている訳ではないが。

 所詮自分はランクD冒険者でしかない。

 レベジェフとハストンの二人がいれば、ランクC……もしくはランクB冒険者にも勝てるかもしれないが、レイはただのランクB冒険者ではなく、異名持ちのランクB冒険者だ。

 とにかく、戦う時点で自分達の負けが決まってしまう以上、アジャスに出来るのは如何に戦わないかしかない。

 アジャスは、何とかその方法を探すべく部屋の中で一人、悩むのだった。

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