第1463話
その話をダスカーから聞いた時、エッグは眉を顰めるのを止めることが出来なかった。
もっとも、エッグの視線の先で執務机に座りながら書類に目を通しては何かを書き、幾つかの箱に分けていくといった真似をしているダスカーは、エッグがそんな態度を取っても怒ることはないのだが。
レイの策略……いや、どちらかと言えば悪巧みと表現してもいい手法でダスカーの配下となることになったエッグだったが、今はそのことに感謝すらしていた。
ダスカーは、エッグの知っている貴族とは全く違う相手だったのだ。
それこそ、元盗賊――本人は義賊と主張するが――のエッグを相手に、気軽に話し掛けるような貴族というのは、まるで想像出来なかった。
おまけに、給料や配給される装備品といった代物も十分に満足出来るものであり、エッグ達とも気軽に言葉を交わす。
それどころか、今ではエッグはダスカーの部下の中でも諜報を司る責任者という扱いになっている。
その役職上、当然表向きには出来ないが、それでも格としては騎士団の副団長と同程度、もしくはそれ以上――それでも騎士団長よりは下だが――のものがあった。
厚遇という言葉では言い表せないような自分達の待遇から、柄ではないと分かっていながらもダスカーに対して、今では忠誠心すら抱いていた。
それはエッグだけではない。部下の者達も直接口に出したりはしていなかったが、それでも付き合いの長いエッグには部下達がこのギルムでの生活を好んでいるのは十分に分かった。
昔であれば絶対に味わうことが出来なかっただろう平穏な日常。
それでいながら、仕事の時には緊張感のある時間をすごすことが出来る。
ミレアーナ王国唯一の辺境ではあるが、だからこそこの地でしか食べたり出来ない料理、飲んだり出来ない酒といったものがある。
そんな充実した毎日を送ってはいるのだが……それでも、ダスカーの口から出てきた言葉に対して素直に頷くことは出来なかった。
「えっと、そのダスカー様? 知ってると思うんですが、現在俺達も色々と忙しいんですがね?」
「それは分かっている」
エッグの言葉に答えつつ、それでもダスカーは手と目を止めない。
元騎士ということで、この手の書類仕事は決して得意なわけではなかったダスカーだったが、それでも長年領主という仕事をやっていれば嫌でも慣れてしまうのだろう。
今では、それこそそれが天職なのではないかと思うくらいスムーズに書類仕事を片付けている。
「だったら、何で現在の状況で冒険者を……それも、何かに関わってる訳でもないだろう冒険者について探らなきゃいけないんですかね?」
「……マリーナに頼まれたからだ」
ここでようやく、ダスカーは見ていた書類から視線を上げると、溜息とともに呟く。
これで本当に忙しくて何も出来ない状況であれば、ダスカーも無理を言うなと突っぱねることが出来たのだろう。
だが……幸いにも、もしくは不幸にも現在諜報部隊は、忙しくはあってもまだある程度余裕があるというのは間違いのない事実だった。
マリーナがどうやってそれを知ったのかはダスカーにも分からなかったが、『あの』マリーナだ。
その程度のことは知っていてもおかしくはないと、納得してしまうのはダスカーだけではないのだろう。
そして、今では聞かされると頭を抱えて床の上で転がり回りたくなるようなそんな秘密を知られているダスカーにとって、マリーナに抗うことは出来なかった。
いや、もしマリーナが要求してきたのが、ギルムの秘密であったり、ラルクス辺境伯家の秘密だったりすれば、ダスカーもそれを受け入れることはなかっただろう。
だが、残念ながらと言うべきか、それとも全てを理解した上でのことなのか、マリーナがそのような要求をすることはなかった。
「あー……なるほど」
エッグも、ダスカーの口から今回の件を誰が頼んできたのかというのを聞かされれば、それ以上は抗議することは出来ず、それどころか同情すらしてしまう。
マリーナがどのような人物なのかというのは、エッグもよく知っている為だ。
一時期ギルムの中で起こった問題でマリーナに報告をしに行っていたのがエッグだった。
(あの時も、レイが原因だったよな)
ベスティア帝国との戦争で大活躍……それこそ、誰の目から見ても一番手柄だと認められるだけの活躍をしたレイを部下にしたいと、何人もの貴族の手の者達がギルムには送り込まれてきたのだ。
それは、正面からレイに向かって部下になって欲しいと交渉する者だけではなく、何かレイの弱みを握って……といった者達や、もっと正直に権力や暴力で脅してと考える者が多かった。
レイがそのような者達と接触した場合、下手をすればギルムにも大きな被害が出る。
そんな訳で、レイには少しの間ギルムを出て貰い、その間にエッグを始めとした者達が動くということがあった。
その際にエッグはマリーナと何度も対面しており、どのような人物なのかというのは当然のように知ることになる。
女の艶という言葉をそのまま形にしたような人物で、蠱惑的とも魅惑的ともいえるだけの女の魅力を持つ人物。
普通の男であれば、流し目を向けられればそれだけで虜になってしまってもおかしくない。
勿論清楚な女でなければ、一定以上の年齢でなければ、一定以下の年齢でなければ……といったように、様々な好みがある。
だが、マリーナという人物は男のそんな好みなど全く関係なく、大抵の男であれば欲情を抱かせるだけの妖艶さを持っていた。
エッグも、マリーナの前にいる時は色々と自制するのが大変だった記憶がある。
「そんな訳で、頼むぞ」
再び書類に視線を戻して告げてくるダスカーに、エッグは仕方がないと小さく溜息を吐いてから口を開く。
「分かりましたよ。ただ、もし何かこっちが優先しなければならないことがあったら、そっちを優先させますけど、構いませんね」
極端な話、ギルムの増築工事に絡んで妙な騒動を起こそうとしている奴がいるというのに、それを放っておいてマリーナから頼まれた調べ物をする……という訳にはいかないだろう。
勿論、その調べ物がギルムに大きな影響を与えるというのであれば、話は別だったが……
左手に蛇の刺青がある冒険者について調べるというのは、とてもではないがギルムの一大事に関わってくるとは思えなかった。
ダスカーもエッグの言葉に異論はないのか、特に反論したりせず自分の仕事に集中していく。
そんなダスカーの様子を見て、エッグは軽く言葉を掛けて執務室を出ていく。
現在のダスカーは、それこそ大勢の商人や貴族が面会を求めてやって来ている。
そんな中でエッグとの面会の時間を作ったのは、マリーナに頼まれた件を早く片付けてしまいたかったからというのがあるのだろう。
エッグは執務室を出ると、早速ダスカーの部下が次の面会の人物を呼びに行くのを見ながら、そんな風に考える。
商人や貴族達に妙な視線を向けられないよう、エッグは正面ではなく裏口から領主の館を出る。
その途中で何人ものメイドや執事、警備をしている騎士や兵士と遭遇するが、エッグが領主の館に来るのは珍しくない為だろう。特に咎められることもなく、小さく言葉を交わしながら出ていく。
強面と呼ぶに相応しい顔をしているエッグだったが、最初の頃はともかく、今では見られて怯えられたり構えられたりするといったことはもうない。
そうして領主の館を出たエッグは、諜報部隊が拠点としている建物に向かう。
……尚、領主の館の敷地内にも諜報部隊が使っている建物はあるのだが、そこはあくまでも出張所でしかない。
あまり人目に付かない方がいいだろう諜報という仕事をしているのだから、目立たない方がいいというのは当然だろう。
また、諜報部隊にはエッグがダスカーに仕えるようになってから入ってきた者もいるが、エッグ率いる草原の狼に所属していた者もかなりいる。
そのような者達は当然のように領主の館にいるには色々と不自然だ。
それこそ、下手をすれば捕らえられた盗賊に間違われかねないだろう。
そして諜報部隊の一員だと目立ってしまう可能性もある。
だからこそ、領主の館以外の場所に拠点を作るのは当然だった。
「おう、戻ったぞ」
そう言って、エッグが一軒の店に入る。
雑貨を売っているその店は、表向きはその外見通り雑貨を売っているのだが、実際には諜報部の拠点となっている店だ。
だが、店の中にいるのは偽装用に雇っている店員達だけで、諜報部の者達の姿はない。
「おい、他の奴等はどうした?」
「あ、何人かは奥にいます。ただ、殆ど出払ってますよ」
「そうか」
諜報部の拠点となっている店に雇われているだけあって、この店の店員はエッグの姿を見ても特に驚きはしない。
いや、始めて会った時は驚いていたのだが、数年も付き合いがあれば、どれだけ強面の相手であっても慣れてくるのは当然だろう。
ましてや、エッグはその強面ぶりはともあれ、実際には理性的な性格をしており、無意味に暴力を振るったりはしない。
……それは意味があれば暴力を振るうということなのだが、この店で働いている者達は今まで大きな失敗をしたこともないので、幸いにしてそのような機会はなかった。
雑貨屋の中には、客の姿は数人しかない。
仕事を求めて多くの者がギルムに集まってきている状況では、流行っていないと表現するのが正しいだろう。
だが、そもそもこの店は諜報部隊の拠点であって、雑貨店そのものが偽装用なのだから、これで問題はなかった。
寧ろ客が多くなれば色々と面倒が起きるという点では、客の姿は少ない方がいい。
その少ない客の何人かは、いきなり店の中に入ってきて店員に声を掛けたエッグの様子に、驚き、慌てて店から出ていったのだが。
客が出ていったのを見た店員は、特に残念そうな様子を見せずに自分の仕事に戻る。
幾ら偽装用の店だからといって……いや、偽装用の店だからこそ、中途半端な真似は出来なかったからだ。
店員のそんな様子を横目で見ながら、エッグは店の奥に入っていく。
そこでは、何人かの部下が寛いでいる姿があった。
エッグが部屋の中に入ってきたというのに、特に立ち上がったりする様子はない。
ただ、軽く手を上げたりして挨拶をするだけだ。
エッグも、それを見て特に怒ったりする様子はない。
元々規律に厳しい訳でもないので、やる時にきちんとやれば文句は言わないからだ。
……元草原の狼の面々はともかく、諜報部隊に新たに加わった者は最初そんなやり取りに驚く。
だが、自分以外の他の面々がそのようにしているのであれば、自分だけが規律正しくといった風にしても長くは続かない。
結果として、最終的には他の者達と同じように規律について緩くなってしまう。
「おう、現在手が空いているのは誰だ?」
その口調は、ダスカーと話していた時とは大きく違う。
雇い主にしてギルムの領主、更には中立派の中心人物といった相手と部下では、態度が違うのは当然だろう。
「えーっと、俺は国王派の貴族の件でちょっと調べてるところです」
「私はスラム街の方でちょっと問題があるって話だったから、そっちに回ってます」
「俺は商人の中の何人かが不正行為を働いているって件を」
「貴族派の貴族で妙な動きをしないように見張ってます」
それぞれが自分の仕事を告げてくる。
それを聞いていたエッグは少し考えると、最後の貴族派の動きを調べていると言っていた男に向かって口を開く。
「よし、お前は現在調べてるのを一旦他の奴に任せろ、別の仕事をして貰う」
「うげ」
エッグに指名された男は、言葉通り嫌そうな表情を浮かべていた。
貴族派の貴族の一件は、レルダクトの件もあって色々と調べるのに時間が掛かっていた。
もっとも、貴族派の象徴のエレーナがギルムにやって来たことにより、現在は仕事そのものはしやすくなってる。
だからこそ、その楽な仕事を他の奴に回すと言われた男は嫌そうにしていたのだが。
それでもエッグの性格を知っている男は、不満そうな様子を表に出しつつも仕事が変わることを受け入れる。
「それで、俺は何をすればいいんですか?」
「冒険者を一人調べてくれ」
「……は? 冒険者を? 何か危険な相手だとか? それこそ、レイみたいに」
元々エッグの部下だったということもあり、レイがどれ程の相手なのかというのは、男も十分知っていた。
だからこその言葉だったのか、それを聞いたエッグは冗談じゃないと溜息を吐く。
「あのな、レイみたいな冒険者がその辺にいてみろ。それこそギルムは……いや、ミレアーナ王国は終わってしまうぞ?」
エッグの言葉に思わず頷いた男は、誰を調べるのかと改めて尋ねるのだった。
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